孵化と花火(13)
ベネットの心配する声が執拗に繰り返している。何かあったら無線機で連絡して。絶対にここから出ないこと。ぜっっっっったいにここから出ないこと。
マリアラは無線機を取り上げた。ベネットが置いていったものだ。
「少しお待ちください。保護局員を呼びます」
「そんな暇はない!!」
怒鳴られ、マリアラは反射的にびくりとした。レンドーはぎらつく目でマリアラを睨んていた。
「今にも死んじまうって! なあ頼むよ早く、早く……!」
ミランダが身じろぎをする。マリアラは急いで無線機のボタンを押した。「それどころじゃねえんだって!」レンドーは素早い動きで前進しマリアラの手から無線機を奪い取った。ぴっと通信を切る音がかすかに響いた。戻りながらミランダの腕を掴む。
「一刻を争うんだ。連絡は行きながらでも出来るだろ」
「わたっ、わたしたち、ここで留守番してなきゃいけないんですっ」
声が上ずる。情けない、と思った。レンドーが先程から何度も何度もこの出張所の前を行き過ぎているのを見ていなかったら、こうまで言い張る自信など持てなかったに違いない。しかし今から思えばレンドーは、タイミングを計っていたのではないか、という気がしてならなかった。レンドーは構わずにミランダを引っ張っていこうとし、マリアラは身の毛がよだつのを感じながら後を追った。
「あの――」
「あんたにまで来いとは言ってねえよ。留守番なんかあんたがやってりゃいいじゃないか!」
「でもっ、」
「しつっこいんだよ! 魔女のくせにあんたケガ人を放っておけって言うのか! こうしてる間にも死んでっかもしれねーんだぞ! 一般人は死ねってか、ええ!? 人を助けんのが魔女の存在意義のくせに、責任取れんのか!!」
間近で怒鳴る野太い恫喝の声はマリアラの身を竦ませた。片方の手が脅すようにマリアラの前に広げられた。大きな、とても大きな手だ。神経が逆撫でされ本能的な恐怖を感じる。
しかし引き下がるわけにはいかないことも分かっている。マリアラは後ずさりしようとする足を引き止め、床を踏みしめた。
と、ミランダが身をひいた。
「怒鳴るのはやめてください」静かな声でミランダは言った。「治療の強要と魔女への恫喝は犯罪行為です。無線機を返して――」
レンドーが激昂した。瞳孔が開いている。
「なんだと……!」
「悪い、遅くなった!」
入口にさっと影が差した。フェルドの声だ。
その声を聞いた瞬間、どっと冷や汗が出た。頭からすうっと血が抜けるような錯覚。僅かに霞んだ視界の中で、レンドーが舌を打つのが見えた。
その間にもフェルドはフィの柄を握ったまま足早に歩いてきた。
彼は雪まみれだった。コートにも襟巻きにも細かな雪がびっしりとついていて、前髪は凍り付いている。
「レンドーさん? って、言いましたっけ? 急患はどこに? 先日も言いましたけど、指定場所以外での左巻きの治療には届出が必要なんです。面倒だから俺が行って箒の担架で運びます。場所を教えてください」
手袋を外しながらフェルドは言い、少し身をひくようにした。レンドーは身を翻した。フェルドの開けた空間をすり抜けて外に出て行く。
「いや、勘違いだったかもしれないな。場所を確かめてもう一度来るからそれまで待っててくれ」
捨て台詞のようにそう言い残してレンドーは去った。諦めた、と、マリアラは思った。右巻きが来たから諦めたのだ。
――でも、何を?
レンドーが出て行った引き戸を、フェルドが丁寧な手つきで閉めた。外気が遮断され、マリアラは喘いだ。ミランダがよろめくようにマリアラに身を寄せた。冷たい指先が、ぎゅっとマリアラの手を握った。
「ま……ま、マリアラ。大丈夫?」
「……」
すぐに返事が出来なかった。マリアラは意識して、息を吐いた。張り詰めていた身体から、圧力が少しずつ抜けていく。
フェルドは顔をしかめていた。まだ雪まみれのまま、少しこちらに近づいて、低い声で言った。
「悪い、ほんと、遅くなってごめん」
「だ……だ、だ、……大丈夫。ちょっと、ちょっとだけ、びっくりしただけ。フェルド、ありがとう」
「ほんとごめん。なかなか抜けられなくて」
――あたしがフィに連絡したんだよ。恫喝および治療の強要は、緊急度レベル1に該当するから。
ミフが声に出さずに伝えてきた。ああ、と、マリアラは思った。それで、飛んできてくれたのだ。
――フェルド、雪山の方に行ってたんだよ。雪山出張所で薬が足りないって言われて、断れなかったんだって。
ミフが説明する内にも、フェルドは無線機を拾い上げてボタンを押し始めている。ミランダがマリアラの手を引いて、さっきベネットが座っていたキャスター付きの椅子に座らせてくれた。自分も手近な椅子を持って来て、マリアラの隣に並んで座る。
「さっき……ごめんね、ありがとう」ミランダはまだ震える声で言った。「あの人……なんだったのかしら?」
「よくわからないけど……わ、わたしね、あの人がこの、この目の前の、通りを、何度か行ったり来たりしているのを見たの。すごく変だなって……思って」
――だから治療者には相棒が必要なのだ。
話しながら、その現実がじわじわと身に滲みてくるのを感じた。指定場所以外での治療行為には届出が必要なのも、相棒のいないディアナの治療院にはベネットのような強面の保護局員が巡回するのも、【魔女ビル】を通さない治療の依頼がかなり重い罪になるのも、全部同じ理由だ。左巻きだというだけで、こういう危険にさらされることがある。しかし相棒がいれば、箒が緊急度に応じて危険を知らせることが出来る。
もし今日ここにミランダがひとりでいたなら、いったいどんなことになっていたのだろう。それはマリアラの想像の限界を超えている。
通報を受けてベネットと同僚たちがばたばたと戻って来た。ベネットは恐縮しきっており、まずマリアラとミランダに、それからフェルドにも、深々と頭を下げた。マリアラは焦った。ベネットも他の保護局員も、もちろんフェルドも、多忙で出かけていただけで遊んでいたわけではないのに。
顔を上げたベネットは、ニタリ、と悪役のように嗤った。
「しかしこう言っちゃなんだがいいこともひとつだけあった。――見てろよぉあのオッサン、俺が丹精込めて逮捕してやるぜ!」
謝罪と聞き取りを済ませるとベネットは同僚二人を引き連れて怒濤の勢いで走り出ていった。マリアラは思わず一人残った保護局員を見上げた。彼はベネットより一回りほど年上で、どうやら階級も三つか四つほど上の、ベネットの上司に当たる人らしい。彼は顎を撫でながら「ほどほどになー」とベネットを見送っていたが、マリアラの視線に気づいてニヤリと笑う。
「レンドーみたいな男が鳥肌たつほど嫌いなんだよあいつは。なんつーか、居直ってるっつーか、見栄も恥も外聞もないような振る舞いをするヤツがね」
まあ俺も嫌いだけどねえ捜査に私情挟むわけにもいかないしねえ、と、上司は笑う。
「張り切るだろうなあ。今回はそりゃ嫌いなヤツが自分の留守をいいことにあからさまな犯罪行為に及んだんだから――」
「犯罪、だったんですか?」
「恫喝と左巻きへの治療の強要は紛れもない犯罪だね。箒は本当に偉かったねえ、緊急度レベル1と判断したのも、持ち主に告げずに直接右巻きの箒に連絡したのも、とても偉かったよ。持ち主に了解を取っていたら、相手に気取られたかも知れないからね。ああいう手合いは、焦ると何をしでかすかわからないから」
素直に賞賛されて、マリアラの胸元でミフが縮んだままぴこぴこと跳ねた。喜びが伝わってくる。上司もミフの踊りを見たのだろう。顔を綻ばせた。
「それでね、もし今度また同じことがあったら、恫喝の内容を録音しておいてくれると完璧だ」
『あー!』ミフが叫んだ。『そっか! それは気づきませんでした!』
「これはね、警備隊長のギュンターさんが何度か元老院議員に進言してることなんだけどね。左巻きの箒に緊急度判断をインプットするときに、証拠収集も義務づけて欲しいと。しかしまあ、反対が根強くてね。右巻きが治安維持に携わるのはだいぶ浸透してきたが、左巻きまでをも警備隊の協力者に仕立てるのは、“私物化する”と目くじら立てる人もいて。義務づけるのはやりすぎだということで。だが善意での提供なら警備隊はもちろん大歓迎だから、これからは是非お願いするよ」
『わっかりましたー!』
「頼むよ。……そして偉かったのは箒だけじゃない。君たちも、本当に偉かったんだよ」
ベネットの上司はダニエルより年上だろう。目尻にかすかに皺がある。その皺を深くして、にこにこしながら彼は穏やかな声で言った。
「本当に危ないところだったと思うよ。レンドーを逮捕して捜査を進めるまではっきりとしたことは言えないが……まあベネットが張り切っているから、おいおい分かるだろう。いいかい? レンドーは、『場所を確認して戻ってくる』と言い置いて行ったんだろう。でも戻ってこない。だから今にも死にそうなケガ人がいるというのも嘘だったんだ。無線機を奪ったのも、とにかくこの出張所から出そうとしたのも、右巻きの留守を狙ったのも、意識のある治療希望者がいないタイミングを待ったのも、全て犯罪の可能性を示唆している。危ないところだった。だから、君たちがレンドーの口車に乗せられずにここに留まったことは、本当に偉いことだったんだよ」
この人は、どうやらマリアラの、そして恐らくミランダの、内心が、よくわかっているようだった。
怒鳴られたことも、野太い恫喝も、マリアラの神経を逆立たせ身の毛をよだたせた。
しかしそれより怖ろしかったのは、レンドーが本当のことを言っていたかも知れない、という、ことだった。
大ケガをして、今にも死にそうな人が本当にいたら。マリアラがレンドーに逆らって我を張ってミランダを引き留めたせいで、その人の命が喪われていたら。もしそんなことになっていたらどうしようと、不安で怖くて、たまらなかったのだ。