孵化と花火(12)
七時を回った。花火はとっくに始まっているはずだが、その音もここまでは聞こえてこない。
マリアラとミランダは次々にやって来る治療希望者への対応に追われていた。ベネットの言ったとおり、さきほどの長閑さが嘘のように忙しかった。
そのベネットは少し前に呼び出しを受けて出て行っていた。この出張所に属する他の保護局員たちも戻ってこない。それに引き替え、やって来る人は引きも切らない。屋台や音楽の喧噪を縫うようにして、この近所に住む人たちが、治療を求めてやって来るのだ。
どうやら花火大会の日に左巻きの魔女が出張所に待機するということはマリアラの予想以上に広く知られているらしく、特に緊急を要しないケガや疾患や虫歯などを、この機会に治してもらいにやって来る人が多いようだ。遠くて混んでいる医局や治療院に行くのは億劫でも、近所の出張所になら行っても良いか、と、思う人が大勢いると言うことなのだろう。
治療希望者が来るそのたびに、差し入れが増えていくのもベネットの言ったとおりだった。また彼らはお祭りの日に差し入れを持ってくるときの作法もよくわきまえていて、監視カメラの前で持ち込んだ差し入れと一緒に笑顔でポーズを取ってから、テーブルの上に積み上げていく。こうすることで、どの差し入れを誰が持って来たのか、分かるようにしているらしい。迷惑行為や犯罪防止のためという名目らしいが、ポーズが結構独創的なので、これはこれで楽しいイベントであるようだった。
ひとりの治療が終わり、マリアラは顔を上げた。つい先程見た時よりも、外はますます明るく賑やかになっていくようだ。正面の通りを、見覚えのある人が通って行くのが見えた。誰だっけ、と、マリアラは思う。壮年の男だが、どこで会ったんだっけ――と思う間に彼は通り過ぎた。治療を受けたばかりのおばさんが、にこやかな声で言う。
「誰か待ってるの?」
「えっ?」
マリアラは驚いて彼女を見た。彼女はうふふふ、と意味ありげに笑った。
「さっきから何度も外を見てる。誰か待ってる人でもいるのかなって」
「そ、そんなんじゃないですよ。ただ今はちょっと、知ってる人がいただけです」
そんなに何度も見ていただろうか。と、やはり治療を終えたらしいミランダが言った。
「もう花火は始まっているんでしょう? ここにいると全然わかりませんね」
「そうだね。もう始まってるよ」と応えたのは、今ミランダの治療を受けたばかりの枯れた感じのおじさんだ。「ここ来るときに向こうの空がぴかぴか光ってるのが見えたからね。もう何年も行ってないけど、あんたらまだ見たい年頃だろうに。こんな日まで仕事だなんてねえ」
「どーもありがとね。スッキリしたわあ」
どうやらこのおじさんとおばさんは仲が良いらしく、来たときと同じく連れ立って帰って行った。ミランダが小さな声で囁く。
「フェルド遅いわね。どうしたのかしら」
マリアラはちょっとむずむずした。とっくに花火が始まっているはずなのにフェルドが未だ来ない、ということについては、ずっと気になっていたのだ。でも治療希望者にまでそれを見透かされるほどに、外を何度も見ていたとは自分で気づかなかった。とっくに来ていいはずの相棒が来なければ心配になるのは当たり前のことのはずだ。だからむずむずする理由などない、ないのだが、でも落ち着かない。それを押し隠すために、何でもない口調で言った。
「きっと忙しいんだよ。色々手が足りないだろうから」
「そうね。あたしたちは中の仕事が多いけど、右巻きは外が多いもの。寒いしほんと、大変よね」
そう話していると、次の治療希望者がやって来た。
今度の人は高熱でふらふらしながら倒れ込んできたのでふたりは慌てて立ち上がり、しばらく会話をする余裕もなくなった。ミフと、ミランダの箒、メイの力を借りて、なんとかその人を簡易寝台の上に担ぎ上げる。
アイリスだったら、と、マリアラは考えた。魔力を使わずに診察するだけで、この人の不調の原因を探り当て、的確な治療指示を出すことが出来るのだろうかと。
そしてミランダにはそれも必要ないだろうと、瞬く間に治療を進めていく彼女を見ながら考えた。マリアラはほとんど手出しをする暇もなかった。高熱の場合、マリアラはいつもウイルス判定薬を使うが、ミランダにはそれも必要ないらしかった。ほとんど一瞥しただけで、不調の原因を探り当てて瞬く間に的確な治療を始める。
治療においてレイエルは別格なのだと分かっているが、ちょっと呆気にとられるほどの力量の差だ。
――ごめん、レイエルじゃなくてラクエルだって。
――あらー。
ふと、以前コオミ屋で詐欺に遭いかけた時の会話をまで思い出した。シェイラがそれを言ったとき、“詐欺師”の人は明らかに落胆した様子を見せた。それは落胆するだろう、とも思う。これほど歴然とした力量の差があり、周囲の人々もそれを把握しているなら、治療優先度を繰り上げるための書類へのサインも、レイエルのサインの方が重要度を増すのは明らかに思える。
――ミランダには相棒が必要だ。
痛切に、それを感じる。医局の人たちも、きっと同じ気持ちだ。これほどの才能を前にして、そして本人もまた望んでいる。それなのに活躍の場を得られないなんておかしい。もどかしい。
イェイラもザールも、そう思わないのだろうか。
その時、目の隅に、さっきも見かけた見覚えのある男の人がまた通り過ぎるのが見えた。
「――あ、」
「マリアラ、滋養強壮剤を作ってくれない?」
ミランダに声を掛けられてマリアラははっとした。いけない。今は外を行きすぎる人に気を取られている場合ではないのだ。
ミランダは甲斐甲斐しく病人の手当てを続けていた。熱はもはや下がったようだ。男の人は今ぐっすり眠っている。
「起きたら飲ませてあげたらいいと思うの。私は調書を作るわ」
「調書?」
「どうも過労気味みたいなのよ」ミランダは少し顔をしかめた。「忙しすぎるんでしょうね。だから左巻きの勧告書を作る。〈アスタ〉に登録すれば職場の勤務調査が入る。それで超過勤務が続いていると判明すれば、上長に是正勧告と休暇取得勧告を出せる。勤務状況の改善につながるはずだから」
「わかった」
マリアラは急いで薬の調合に取りかかった。医局の治療者には様々な役割が課せられるが、患者の状況を把握して改善するために手を打つのも、きっとそのひとつなのだろう。
ミランダが調書を書き終え、マリアラが薬の仕上げに入った頃。
慌てふためいて駆けつける足音が響いた。息せき切った男の人が出張所に倒れ込んだ。「!」ミランダが腰を浮かせた。倒れ込んだ男の人の顔は、マリアラの位置からは死角にあった。
「……ケガ人だ! 大ケガなんだ、頼む、一緒に来てくれ!」
ミランダが立ち上がる。マリアラは一瞬遅れた。滋養強壮の薬に最後の一滴を加える瞬間だったからだ。急いで入れてかき混ぜふたをしたときにはミランダは既にその男の人のすぐそばまで行っていた。マリアラは腰を浮かせ、その男の人の顔を見た。あっ、と思った。さっきから何度かこの建物の前を通り過ぎていった、見覚えのある人だった。
「状態は、」
「それがひどいもんでさ、血がひどくて……とにかく一緒に」
その人がミランダの腕を取ろうとする。
「レンドーさん!」
名前が脳裏に閃いた。名前を呼ばれて驚いた男の人が手を止め、マリアラは急いでそちらへ行った。思い出した。つい先日、ディアナの治療院にいた人だった。ベネットが“出入禁止措置を取らないか”とディアナに進言していた、がらがら声のおじさんだった。