孵化と花火(10)
その後、しばらくして。
からからと音を立ててスライド式の扉が開き、
「ちーす」
軽い声がして、出張所の入口に誰かが立った。事務机にかじりついていたベネットが顔を上げ、
「はーい、……なんだお前か」
元どおり机に顔を戻した。ここからではついたての向こうになっていてよく見えないが、入ってきた誰かはけらけら笑った。
「ベネットさん、ひでー。差し入れ持って来たのにー」
「おーさんきゅ。そこ置いて持ち場に戻れ」
「ひっでー!」明るい声の持ち主はまたけらけら笑った。「今日はもう上がりなんすよ、朝から働きづめだったんです。飯くらい食わしてくださいよ。ちーす」
そう言いながらその誰かはついたてを回ってこちらに来た。
やって来たのは、どこかで見かけたような顔の、マヌエルだった。誰だっけ、と、思っていると、マリアラが言った。
「……ミシェルさん?」
「おーいたいた、お疲れお疲れー」
ミシェルと呼ばれたマヌエルは、背の高い、どこにでもいそうな若者だった。明るい色の頭髪は短く切られて清潔感がある。そうそう、と、ミランダは思い出した。フェルドの友人だ。遠目にしか見たことがなかったから、こんな話し方をする人だとは知らなかった。物腰は軽薄と言えそうに軽いが、フェルドの友人なのだから、悪い人ではないのだろう。
ミシェルは左手に大きな紙袋を持っていて、マリアラの隣に座るやいなや、はい、と紙包みを差し出した。マリアラが目を丸くする。
「え、なんですか? これ」
「差し入れだよー。つーか、賄賂?」
「は?」
「賄賂っつーか、潤滑油?」
「は?」
「ちょっと頼みがあるんだよ。はい、えっと、ミランダ=レイエル・マヌエル? 俺ミシェル=イリエル・マヌエル。よろしくね。飯まだだろ? 屋台飯片っ端から買って来たから、まーまずは食べて食べてー」
そう言いながらミシェルは机の上にどんどん食べ物を置き始めた。ミランダは急いで雑誌を片付け、マリアラは言った。
「頼みって、なんですか?」
「うん、あのね。雪像のイメージがまとまんねーんだ。明後日が除幕式だっつーのにまだ何作るかも決まってなくてさ」
それは、と、ミランダは思った。大丈夫だろうか。
マリアラは持ったままだったハンバーガーの包みをテーブルに載せ、言った。
「……間に合うんですか?」
「明日休みだからなんとかなるって。んでね、雪像っつーのは何でも好きなもの作れるわけじゃねーのよ。いや、作ってもいいんだけど、コンテストに参加できるのには縛りがあるわけよ。んでね、飛び入り参加が認められてんのは、歴史を題材にしたやつだけなの。まー除幕してみたらとんでもねーのが紛れ込んでたなんてことになったら大変だから、自由題材で参加するには事前登録が必要なわけでさ」
「というか、ミシェルさん、雪像……作るんですか?」
「ああ、こいつすげーんだよ」と言いながらベネットがついたてを回ってやって来た。「おととしかなんか、賞取ったんだよな」
「佳作でしたけどねー。で、フェルドに聞いたらさ、歴史ならマリアラちゃんが詳しいっつってたから。なんかいい題材ない?」
そう言えばマリアラは、孵化する前は歴史学を専攻していた、と、聞いたような気がする。うーん、と、マリアラが唸った。
ミシェルが持って来た食べ物は、ハンバーガーと、ピザと、コーラやサイダーといった飲み物の他に、たこ焼き、焼き鳥、フランクフルト、更にはじゃがバターまであった。ベネットはミランダの隣に座り、早速ハンバーガーに手を伸ばした。ミシェルがマリアラの手の上にまたハンバーガーを載せる。
「食べねーとあの人に全部食われるよ。あの人ほんっと食いしん坊だから、ほっとくと全部独り占めするから」
「るっせーな、独り占めなんかしたことねーよ」
「覚えてもねーのかよ!」
ミシェルとベネットはどうやらとても気心の知れた間柄らしい。ミシェルはミランダにもハンバーガーをひとつくれた。それからローテーブルを飲み物で半分に仕切って、マリアラとミランダの方に食べ物を二人分ずつ置くという気配りぶりだ。これならさすがのベネットも、皆の分まで食べてしまうと言うことにはならないだろう。
「定番ですが」ずっと考えていたらしいマリアラが言った。「ミラ=アルテナは?」
「うん! やっぱミラは題材が派手だよなー。恋バナもあるし、権謀術数もあるし、魔物だの銀狼だのわんさか出て来るしなー! おととしもミラだったんだけど、今年もやっぱそれがいっかなあ」
「そりゃ人気だよな、みんな知ってるしな」とベネットが言った。「でもやめた方がいいぜ。去年なんか歴史部門コンテストにエントリーした三分の二近くがミラ=アルテナ関連でさ、ミラってだけで不利になるってほどだったらしい」
「マジかあー」
ミシェルは大げさに頭を抱えて見せた。
ミラ=アルテナと言えば、歴史に造詣の深くないミランダでさえある程度のことは知っている。エスメラルダの歴史の中で、一、二を争うほど有名な人だろう。確か、千年ほどは前の人ではなかっただろうか。その頃、アナカルシスとの間にまだ【壁】が出来ておらず、エスメラルダは強大な軍事国アナカルシスにほとんど占領され、かろうじて国の体裁を保っていると言う状態だった。また当時の王がひどい暴君で、自分の息子である第一王位継承者を暗殺しかけたことがあったのだ。幼かった王子はエスメラルダに逃げ込んだ。また同じ頃、ティファ・ルダという当時あった国が暴君によって滅ぼされ、一人生き残ったティファ・ルダの王女、ミラ=アルテナは、やはりエスメラルダに匿われることになった。王子と共に成長したミラは、暴君を放逐し王子を王位につけるために各地の有力者たちを説得して回ったと言われている。またその旅の途中で出会った剣豪と恋に落ち、めでたく王位に就いた新王からの求婚を蹴ったという派手なエピソード付きだ。
マリアラはまた考え込み、ミシェルは自分もハンバーガーをひとつ取った。
「まーそれはともかく、まず食べて食べて。悪いねえ、仕事中なのにさ。ベネットさん、仕事もういーんすか。祭の日まで書類仕事なんて、大変っすねー」
「まーな」ベネットは軽く頷いた。「でも、たまってたのは今全部片付いたかな。来月から南大島に異動になるから、今のうちにやっとかねーとって思って」
「異動っ?」
ハンバーガーに噛みつこうとしていたミシェルは、素っ頓狂な声を上げた。
「ベネットさん、異動すんの!?」
「そりゃ保護局警備隊なんだから、異動くらいあるだろ」
「マジで! じゃー俺昼メシどこで食えばいーの!」
「詰所で食え」
ベネットは冷静だ。ミシェルは昼食のたびにここに入り浸っていたのだろうか、とミランダは思った。道理で勝手がよくわかっているはずだ。ベネットの食い意地にも、嫌でも詳しくなるだろう。
「やだよ詰所、怖えーんだもん。って、南大島に異動って言った?」
「言ったよ」
「三つか四つかあるじゃん、出張所」
「あそこはローテーション組んでっから……最初はどこっつったかな。第一だったかも」
「ふーん」
南大島の第一出張所と言えば、と、ミランダは考えた。ザールのいる場所だ。
ベネットのような気のいい人が、ザールの部下になるかもしれないなんて。大丈夫だろうか。胃に穴が空いたりしないだろうか。いや、ザールの対応が厳しいのはミランダに対してだけで、他の人には意外に人当たりが良かったりするのだろうか。