孵化と花火(9)
花火大会の当日、街はお祭りへの期待に通常とは違う賑わいを見せている。
マリアラは、夕方の五時少し前、集合場所である保護局キシュ地区第三出張所へ着いた。仮眠のお陰で元気満々だし、いよいよ高まる街の熱気のお陰で、こちらの気分まで盛り上がる一方だ。
通常の当番勤務の場合、昼間は普通に仕事をし、夜は待機である。出動さえなければ睡眠を取っても構わないことになっている。しかし今日はエスメラルダに住む人々が一年間心待ちにしている冬のお祭りの、始まりの日だ。必然的に、今日の仕事は夜がメインだ。
今日から五日に亘り、国中の様々な場所で様々なイベントが行われる。今日は日没後の午後5時から、トークショーや手品や大道芸や、マーチングバンドなどの催しが、【魔女ビル】【学校ビル】周辺の五箇所に設けられたステージで、夜半過ぎまで開催される予定だ。もちろん一番の目玉は花火だが、それが終わった後も夜っぴて賑やかな音楽が奏でられ、屋台や様々な飲食店も明け方まで営業を続ける。飲み明かした人がその辺で凍死したり喧嘩したり器物破損したりしないよう、またお祭りに乗じた数々の犯罪が行われないよう、保護局員は事務方も総出で対策に当たるのだそうだ。
「……つーわけで集合も夕方五時からにしてもらったってわけでさ。ちゃんと仮眠してきたか? 眠れたか?」
集合場所である保護局キシュ地区第三出張所でマリアラを迎えてそう言ったのは、先日ディアナの治療院にいた強面の保護局員、ベネットだ。
ここの出張所は少し広めだ。手前左手に所属している保護局員の事務机が集められたスペースがあり、その奥に、仮眠をとるための部屋がある。手前の右側はついたてで仕切られた応接コーナーになっていて、マリアラはそこに通された。既に来ていたミランダが、マリアラを見てにこっと笑った。マリアラはなんだかホッとした。一昨日の“禊ぎ”はかなり衝撃的だったが、それを経たお陰か、だいぶ元に戻っているようだ。
「お疲れさま、マリアラ。よく眠れた?」
「こんにちは、ミランダ。できるだけ頑張って寝たよ」
ふたりは挨拶を交わし、並んでソファに座った。すり切れたソファからは、かすかに煙草の匂いがした。
応接コーナーは休憩スペースも兼ねているらしく、壁際に、様々な雑誌が満載されたマガジンラックが置かれていた。よれよれになった雑誌は多種多様で、フェルドが読んでいるような保護局員の活躍を主題とした情報誌もあれば、ジェイドが読んでいたような漫画や架空の読み物を集めた雑誌もあり、その奥には少々肌色の多めな表紙の雑誌も見えていた。女性向けのファッション誌や月刊マヌエル通信も置いてあった。観葉植物はどうやら偽物らしく埃がたまっている。
ベネット以外の保護局員は出払っているようだ。いよいよ高まる街の喧騒とは裏腹に、出張所は静かだった。
「フェルドは?」
ミランダが訊ね、マリアラが答える前に、飲み物を用意して戻って来たベネットが言った。マリアラとミランダの前に缶飲料を置いてくれながら、
「こういうとき独り身の右巻きっつーのは保護局員と連携して動くもんなんだよ。フェルディナントには三時から花火大会終了まで、第四ステージの雪除を頼んでる。花火大会始まるまではあの辺は皎々と明かりついてっから、ラクエルでも大丈夫だろうって判断でね。花火大会始まったらさすがに照明落とされるから引き揚げてもらって、ここで君らと一緒に朝まで待機って手はずになってる」
「へえ、大変なんですね」
ミランダの返答にベネットはうんうんと頷いた。
「もーとにかく人手が足りなくてなー。今はまだ祭も始まったばっかだから平和なもんだけど、九時過ぎたらここもめったくそに忙しくなるからできるだけ休んでおいて。そっちの仮眠室使ってもいーから。そんでな、できるだけ誰かいるようにするけど、どーしても皆いなくなるってこともあり得るからね。そんなときは前の通りで酔っ払いが倒れてもここから出て駆けつけたりしないで、この無線機で連絡して。いい? これはくれぐれも守ってくれ」
思いがけず真面目な口調だった。マリアラは思わずミランダと顔を見合わせた。ベネットは噛んで含めるような口調で言った。
「この出張所はこんな場末の飲み屋みたいな雰囲気だけど、セキュリティはきちんとしてるんだよ。まあ当然なんだけどね。けどここから出ちまったらそれは効かないから。いい? ほんとマジで頼むよ、善良で可愛い左巻きの前で倒れて見せておびき寄せてあわよくばちょっと美味しい思いしよーかなーなんてバカはね、信じられないかもしれないけど、この世にはほんとにいるんだから。フェルディナントが引き揚げてくるまで、ぜっっっっったいにここから出ないこと。食いもんとか屋台のうまそーなもんとかは、出前も取れるし、さしいれも山ほど届くからさ」
ずいぶん大げさだ。ベネットという人は、見た目に寄らず心配性なのだろうか、と、マリアラは思う。そういえば、以前会った時もちょっとそんなことを言っていたような気がする。
ベネットが持って来てくれた缶飲料をじっと見た。
いかにも甘そうなオレンジジュース。
もしかして、幼年組くらいの幼女のように、思われているのではないだろうか。
*
マリアラは、先日のミランダの醜態をどう思っているだろう。
ミランダはそれが心配だったのだが、見た感じ、彼女の応対に変わったところは見られない。呆れられて嫌われたのではという懸念は杞憂だったようだ――少なくとも表面上は。ミランダは内心、ホッと息を吐いた。我ながら、先日の醜態はひどかった。落ち込むと暴飲暴食に走るという悪癖は、本当に、どうにかしたい。どうにもならないのだが。
ベネットが書類仕事に行き、マリアラは手持ち無沙汰のようだ。ベネットのくれた缶入りのオレンジジュースのラベルに書かれた文字を読んでいる。ミランダは会話の糸口を探した。沖島のあの夜に会った“ルクルス”について、マリアラに話しておきたいような気がする。でも、こんな場所でそんな話をするわけにもいかない。喫茶店でも言えなかった。“これ以上元老院に楯突くようなことをするな”と彼は言っていた――確かに、冷静になって考えてみたら、自分のしたことは本当に大それたことだ。もちろん彼を助けたことを一片たりとも後悔などしていないのだが、それにしても、できるだけ秘密にしておいた方がいいだろうことは容易に想像できる。マリアラに話すにしても、時と場所を選ばなければ。
マリアラはマガジンラックから月刊マヌエル通信の最新号を取り出して、ぱらぱら捲り始めていた。ややして彼女は、「あっ」と明るい声を上げた。
「ほんとだ、載ってる。ねえミランダ、これ見て」
「え?」
マリアラが開いたページを覗き込むと、『絶対食べたい魔女料理~真冬編~』と題されたアンケートが載っていた。マリアラはそれを見てくすっと笑う。
「リンが――あの、前に話した友達がね、載ってるって言っていたの。こんな風に紹介されてるんだね」
マリアラが仮魔女試験の時に大事件に遭遇した話は有名だ。その際のお客さんが孵化前からの友人だったことと、孵化以来疎遠になっていたがそれを機にまた仲良くなった、と言う話は、先日マリアラから聞いていた。さもありなんとミランダは思う。マリアラのような友人がいたら、例えその子が孵化したとしたって、変わらずに交友関係を保ちたいと誰もが思うだろう。
『月刊マヌエル通信』最新号の、真冬編のランキング一位はクリームシチューだった。ミランダの育った少女寮もそうだったが、エスメラルダの子供寮では真冬にはよくシチューが出される。そのせいか、今でも冬になると無性に食べたくなる。また魔女料理は基本的に遭難先で出されるものだ。真冬で凍えた身体で食べることを考えたら、それはシチューは最高だろう。
二位以下にも、あったかそうで美味しそうなメニューがずらりと並んでいる。ミランダは感心した。
「ふうん、色んなメニューがあるのねえ。でも救助対象者が多かったら、リクエスト聞いてたら調整が大変そう」
「うん、だからね、必ず注意書きがあるってダリアが……あった、ほらここ。“真冬のマヌエルは多忙で疲れています。食事の注文はアレルギーとどうしても食べられないものだけ申告するようにし、出されたものは文句を言わずに食べましょう。粋な遭難者を目指しましょう”だって」
「遭難にも粋とかあるのね」
くすくす笑い合いながら一緒に雑誌を眺めるのは楽しかった。『月刊マヌエル通信』は今まであまりちゃんと読んだことがなかったが、なかなかどうして、面白い記事ばかりだった。軽い読み物から考察記事まで多種多様な記事が載っている。さすがは、六十年以上の歴史を誇る老舗の雑誌だ。
最新号の一番の目玉記事はやはり雪祭り特集らしい。カラーをふんだんに使って、楽しい雪祭りの背後で、マヌエルたちがどんな風に活躍しているかを詳細に解説している。
それに気づいたのは、マリアラだった。
「あ、ララが載ってる」
「えっ、……あ、ほんとだ!」
ミランダも思わず声を上げた。これは去年の写真なのだろう、支給の防寒具でもこもこに身を固めたララが、吹雪を押さえる様子が大きく掲載されていた。真冬のエスメラルダは、ほとんど毎日吹雪に覆われている。その最中でもこうして花火だの楽団の演奏だの様々なパフォーマンスだのが開催できるのは、右巻きたちが交代で吹雪の侵入を押さえてくれているからなのだ。写真の中で、ララは雪まみれだった。後ろ姿である。少しこちらを振り返った鼻先だけが見えている。ラングーン=キースという名が記されたその記事には、“インタビューするのも憚られるほどの猛吹雪”と書かれている。なるほど、ララの後ろ姿からは、吹雪の侵入を阻むのに全身全霊を込めている気迫が滲み出ている。
「右巻きも大変だねえ」
マリアラがしみじみと言った。うん、とミランダは頷く。
「子供の頃、雪祭りがどんなに楽しみだったか覚えているもの。イーサンも、お祭りの週は張り切るんだって言ってたわ」
そしてきっとララも、また今まさに雪除に行っているフェルドも、“張り切って”いるのだろうとミランダは思う。雪祭りは、長く過酷なエスメラルダの冬の中で、唯一の楽しみだ。明後日は雪像の除幕式で、子供の楽しみはその日がピークである。右巻きたちが本気で作った巨大な雪の迷路や滑り台で思う存分遊ばせてもらえる。あの楽しみを守るためなら、それは張り切るというものだろう。