孵化と花火(8)
と、目が合った。
「――おや! 君は新顔だね」
グムヌス議員は親しげな調子でニコニコとマリアラに声をかけてきた。え、あ、はあ、と、我ながらみっともない反応しかできない。議員の後ろを追いかけてきていた魔女はまだとても若い。マリアラやミランダとほとんど変わらない年齢に見える。可愛らしい感じの彼女は恐縮しきっている様子だった。気の毒に、と、マリアラは思う。
ここは魔女や医局関係者たちが休憩を取る場所であり、ソファに寝そべっていた人や机でお喋りに興じていた人や、お菓子を焼いたり皆で持ち寄って食べたりしている人もいる。そこに、よりによって医局担当の元老院議員にやって来られては、皆、寛げないだろう。ソファに寝そべっていた人も決まり悪げに起き上がっている。そそくさとそこら辺を片付けだしている人も、議員の目に留まらないようにこっそりと姿を消す人も目の隅に見える。議員の行く手を阻めなかった彼女が責任を感じても仕方がない。
しかし議員は、その明らかな居心地の悪い空気も、全く気にしていないようだった。
「医局に入ったのかね? 名前は?」
「あ、いえ、わたしは……」
「グムヌス議員、こちらはシフトに入ったばかりの相棒のいるラクエルです。今日は相棒と一緒の研修でね、子供寮の担当だったんですよ」
アイリスは快活な口調で言って、「どうぞどうぞ」と議員に椅子を勧めた。議員はもちろん大喜びで、マリアラの目の前に座り、大げさな口調で言った。「ラクエルかね!」
光を媒介に魔力を使うラクエルは、イリエルやレイエルに比べて数が少ない。そのせいで、こうして珍しがられたりする――のだが、マリアラとしては努力したわけでも狙ったわけでもなくただの偶然だとしか思えないので、珍しがられても嬉しくないし、居心地が悪くなるばかりだ。アイリスはにこにこしながら議員にお茶を入れて差し出した。議員は嬉しそうにしわしわの両手でカップを抱え込み、アイリスは更にお茶菓子まで用意して、すっかり長居する体制だ。
と。
アイリスは一瞬、マリアラとフェルドを見た。何か詫びるように、かすかに頭を下げたように見えた。
しかしそれはほんの一瞬に過ぎなかった。アイリスは議員の隣に座ると、
「ところで議員。先日施行された医師活用法の具体的な施行方法についてなのですが――」
「ん?」
議員の目が光った。好々爺然とした穏やかな目に、用心深そうな光が宿る。
「――君は……」
「申し遅れました。アイリス=ヴェルディスと申します」
「医局の医師の? ははあ……」
空気が変わっていた。議員はマリアラを標的に定めるのをやめ、じろりとアイリスを睨んだ。
「それに関しては事務所を通してほしいものだが」
「何度もお手紙を差し上げたはずです。もう冬です。エスメラルダの冬は、毎年過酷になるばかりです。――彼女は十六歳です」アイリスはマリアラを左手で示した。「少年保護法の規定からやっと出たばかりの若い子にまで、シフトの合間に医局の仕事を頼まねばならないのが現状なんです。あの法律の存在をもっと広く知らしめて、負担を肩代わりしていくことは、魔女にとっても重要なことのはず。そのための対策を、」
「こういうことは時間がかかる。長い年月をかけてゆっくり意識の改革を進めていかなければ軋轢が生まれる。すぐには無理だ」
「すみません」
いきなり低い声が割り込んで、マリアラはびくりとした。
フェルドが、腰を浮かせていた。
「勤務時間も終わりなので、これで失礼したいのですが。明日も早いので」
気づくともう時計が五時を回っていた。マリアラはどぎまぎした。勤務時間は終わりだが、しかしまだ話し中なのに、会話を断ちきるように退席するなんて余りに失礼ではないだろうか。
しかしアイリスも議員もそうは思わなかったようだった。議員はこちらを見て、開けっぴろげな笑顔を見せた。
「すまなかったね、引き留めてしまって。私ももう失礼する。どうぞお先に」
「失礼します。――行こう」
フェルドはマリアラを促した。議員のにこやかさとは対照的に、フェルドはなんだか怒っているようだ。マリアラは急いで報告書を仕上げ、すみません、と頭を下げて、その場から逃げ出した。中座できたのは正直ありがたいけれど、なんだか居心地が悪い。
と、ふたりの後ろで、グムヌス議員がアイリスに言うのが聞こえてきた。
「君の言っていることがどれだけ無理難題か、わかっているのかね。老い先短い老人にあまりに多くを望みすぎやしないか」
「しかし、議員――」
「それほどに必要だと思うならば」鋭い響きの声が、最後に聞こえた。「自分でやりたまえ。私の言いたいのはそれだけだ」
医局の廊下に出た。
それまで怒ったような歩調でずんずん歩いていたフェルドは、廊下に出るとまたゆったりした足取りで歩き出した。マリアラを振り返って、
「あー腹減った」
いつもどおりの口調で言った。マリアラはなんだかホッとする。
「いろいろあって、疲れちゃったね」
そう言うとフェルドは頷いた。さっきの怒ったような様子はなんだったのだろう、と、マリアラは思う。
「さっきなんか、怒ってた?」
思い切って訊ねると、フェルドはあっさり頷いた。
「そりゃそうだろ」
「……どうして?」
「つーか、マリアラが怒ってもいいと思うんだけどね俺は」
そう言って、少し呆れたような顔をして見せた。
「人が善いよなぁ。俺は腹立って腹減ったから食堂行くけどどうする?」
「食堂、わたし、まだ行ったことない」
「あ、そーなんだ。じゃあ行く? 味はまあ普通だけど、注文の仕方がちょっと独特だし」
教えてもらえるらしい。マリアラは頷いて、階段の方へ向かうフェルドについていった。大食堂は一階の面積の三分の一を占めるという巨大なものだ。魔女管理局が運営しているから、〈アスタ〉に登録されている魔女や【魔女ビル】の関係者は、基本的には無料である。しかし大食堂のメニューは部屋で頼むことも出来るので、わざわざ食堂まで行ったことが今までなかった。
階段を下りる間に、フェルドは言った。
「……さっきのさ」
「うん」
「ヴェルディスさんは、グムヌス議員を捕まえて自分の意見を言いたいから、マリアラをダシにしたんだ。ラクエルの新人って紹介すればきっと議員が食いついてくるだろうって思ったんだろ。ああいうのはちょっとどうかと俺は思う」
「あ、あー」
なるほど。あの謝罪(?)の視線の意味はそれか。
マリアラは納得した。確かにそう考えるとすっきりする。
そして自分に少し呆れた。言われるまで全然気づかなかった。
「わたし、元老院議員って初めて見た。あんな風にひとりでうろうろするものなんだね」
「普通はないだろ」
「変わった人だったね」
元老院議員だなんて、言われなければ絶対に分からなかっただろう。
怒ってもいいはずだと言われたが、マリアラはなんだか面白くなってきていた。恩師を思い出したせいかもしれない。アルフレッド=モーガンという名の恩師は、一年前に孵化する直前まで、マリアラの生活の大きな一部を占めていた人だ。あの先生も、にこやかで、とても快活で、思いがけない場所にひとりでひょこっと現れたりする人だった。年齢も外見も全く違うが、朗らかなのに自分の専門分野については厳しい眼光を見せるところがなんだか似ている。
この“ペナルティ”が明けたら、モーガン先生に会いに行かなければ。でも、真冬は学生の論文指導で忙しいからご迷惑だろうか。
マリアラはなんだか和やかな気持ちで、フェルドと一緒に食堂に向かった。