孵化と花火(7)
ここからだと医局は近い。階段をふたつ下りれば、そこはもう医局のある階だ。
白い、無機質だが清潔な印象の階だ。とても広い。マリアラが先日通った製薬所も同じ階にあるし、ジェシカが新しく作ってもらった製薬所も、やはり同じ階にあるが、こことは別の区画だから、鉢合わせすることはないはずだ。廊下は広く、忙しそうな医師や看護師、左巻きの魔女たちが、ひっきりなしに移動している。この階には、製薬所の他に、処置室や検査室、控え室、数は少ないが入院のための個室などがある。アイリスは箒の担架に指示をして、北側の処置室にカイトを連れて行った。その間に無線機でジェイディスに連絡を取った。
担架が処置室に到着した直後くらいに、ジェイディスを先頭にした医師や看護師、技師たちが駆け込んできた。彼らは当然孵化という事態に慣れていて、手分けして仕事に取りかかった。アイリスが記録した波長のパターンが〈アスタ〉にインプットされ、次々に計測機器のスイッチが入れられ、カイトの身体に測定装置がセットされていく。また箒の人格を捕獲するために必要な機材の準備も進められる。
ジェイディスはマリアラから必要事項を聞き取ると、「ごくろうさん」温かい声と腕でマリアラをねぎらった。
「もう戻っていいよ――と言っても、孵化、見るの初めてじゃない? 結構、何て言うか、神経逆撫でされるものらしいね」
マリアラは頷いた。そうだ。マリアラは本物の――自分のじゃない孵化を、こんなに間近で見たのは初めてだった。すぐそばで助けを求めている気の毒な子がいて、自分がその子を助けられると分かっているのに、敢えて何もせずにいる、という状況だ。孵化の手助けは【親】がするものだから、マリアラに出来ることはもう何もない。何もない、のだが、そわそわして、落ち着かない。ジェイディスは微笑んで、もう一度マリアラの肩をその温かい手で軽く叩いた。
「切り替えるのはまだ難しいだろ。アイリスの手が空くまで、そこの休憩所で待ってても構わないよ。子供部屋の方は、用があったら呼びに来るだろう。もうすぐ勤務時間も終わりだしね」
願ってもない申し出だった。マリアラは頷いて、観葉植物の陰のベンチに座っているアランのところに行った。
フェルドもアランの隣にいて、二人はずっと無言だった。アランはどういう気持ちでいるだろうと、マリアラは考えた。カイトとアランは子供寮で、恐らくは最高齢か、それに近かったはずだ。カイトが孵化したら、アランはひとり、取り残されてしまうと言うことにならないだろうか。
孵化しそうな子は、初めから、そう言う子だけが集められた寮に入るものだ。マリアラは、そうじゃない寮で育ったから、実際それが起こるまで、自分が孵化するなんて思ってもみなかった。周りの子たちもみんなそうだった。孵化から目覚めてふた晩の間、だからとても居心地の悪い思いをした。もうあなたは私たちの仲間じゃない、という、彼女らの無言の圧力とその冷たさは、今でもまざまざと思い出される。
でも、いつか孵化するだろうと言われ続けて育った子が、孵化を迎えないまま、周りの皆が孵化するのを見送り続け、そのまま大人になるということの方が――ずっと、残酷だ。
「……ココアでも飲むか」
フェルドが声をかけ、アランは頷いた。ベンチの隣にある自販機でフェルドはココアを買ってアランに渡し、それからマリアラにもくれた。自分には無糖のコーヒーを買っていた。
三人はそこのベンチに並んで座り、黙って飲み物を飲んだ。自分でも気づかないうちに、結構身体が冷えていたらしい。冷たい指先に、紙コップ越しに感じるココアの熱がありがたい。
アランはちびちびとココアを飲んだ。必要以上に時間をかけて、まるで点滴のように、少しずつ。その飲み物が半分ほどなくなる頃、ばたばたと足音がして、二十代半ばくらいの男の人が、カイトのいる処置室に駆け込んでいった。
あの人が【親】なのだろう。マリアラはそう思った。
しばらくして、処置室からアイリスが出てきた。
「待っててくれたの。ありがとう。アラン、孵化は無事に済んだよ。大丈夫、カイトは無事だ」
アイリスはきっと、こういう事態に慣れているのだろう。優しい声でそう言った。
「寮母さんに迎えを頼もうか。良かったら私が送っていっても――」
「いい」
アランはぶっきらぼうにそう言って、立ち上がった。ぺこりと頭を下げる。
「自分で帰る。……お邪魔しました」
もう一度ぺこりと頭を下げて、アランは最後に、小さな声で言った。
「……ごちそうさま」
「おう」
フェルドが応じる。アランはもう一度ぺこりと頭を下げて、踵を返した。
アランの背が見えなくなるまで見送り、アイリスは「さて」とこちらを振り返った。
「お待たせして申し訳なかったね。もうすぐ勤務時間も終わりだし、子供部屋の詰所に戻るのもなんだから、医局の詰所を借りて、報告書、作っちゃおうか」
この辺りは、アイリスのホームグラウンドであるらしい。彼女は慣れた足取りでいくつかの治療ブースや検査機器の数々をくぐり抜け、ふたりを居心地の良さそうな休憩所まで連れて行ってくれた。
ミランダが以前、“医局にはとても立派なキッチンがある”と話していたが、どうやらその近くらしい。甘くて香ばしい、焼き菓子の匂いが漂っている。休憩所にはテーブルと椅子の間に観葉植物や低めのパーティションが置かれていて、雑談したりくつろいだりする魔女や医局関係者たちの姿も見える。
アイリスはマリアラの前に一枚の用紙を差し出した。
「はいこれ、報告書のひな形。これを埋めればいいようになってるから。何か分からないことがあったら聞いてね」
ホームグラウンドだからなのか、幼児寮の詰所にいたときよりも、彼女の声は柔らかい。
マリアラは報告書を覗き込んだ。ほとんどアンケートのようになっていて、ペンでチェックすればいいだけになっている簡単なものだ。今日の出来事を思い出しながら少しの間、ペンを走らせた。勤務時間、大まかな日程、治療する上で、気づいたことなど。
それを書き上げる頃、治療ブースの奥の方から、賑やかな声の持ち主が近づいて来るのに気づいた。
先頭に立つのは老人だ。しわしわでちんまりした体躯のおじいさんだったが、声には張りがあり、とても朗々としている。楽しげに何か話しながら闊達な調子でずんずんこちらに歩いてきている。しかし、それを追いかけてきている声は、困っているようだった。
「――グムヌス議員、あの、ここから先は治療する場所と言うよりも、休憩する場所となっておりまして」
追いかけてきている声は若い女性のものだ。言外に、これ以上行かないでくれと願う気持ちが溢れている。
しかし“グムヌス議員”と呼ばれた闊達な老人は全く構わなかった。「そうそう」と応じる声は、どんどん近づいてくる。
「そうそう、こちらは控え室。わかっておるとも」
「あの、議員、休憩している魔女もおりますから、」
「わかっておるわかっておる。なに、邪魔する気はないよ、普段どおりにしていてくれて構わないとも。医局担当の元老院議員としてちょっと皆さんに挨拶をだね――」
マリアラは呆気にとられた。議員?
議員と言えば、エスメラルダ大学校国では、国の方針を決める元老院を構成する人々のことだ。元老院の頂点は大学校国校長であり、元老院の議長のことである。顔を上げて見るとやって来るのはしわしわの老人がひとり、その後ろから困り果てた様子の若い魔女がひとり、白衣を着た医局関係者がふたり。SPや秘書らしい人は、どこにも見当たらない。
マリアラは元老院議員を生で見るのは初めてだった。
実在したんだ、と言うのが、正直な感想だ。
2017/11/25 名前の取り違えを修正