孵化と花火(6)
ザールとイェイラが出て行った。
マリアラはまだ茫然としていたが、フェルドがこちらにやって来るのに気づいて我に返った。
フェルドは釈然としない顔をしている。
わたしはどんな顔をしているんだろう、と、マリアラは思う。
――自分が彼の相棒に相応しいと思っているの?
――よくも、そう、思い込めるものね。
「……ミランダのこと聞かれた」
フェルドが言い、マリアラも、頷いた。それで呪縛が解けた。気づかないうちに身震いが出て、マリアラは二の腕をさすった。なんだか寒い――気がする。
「……わたしも同じ。沖島に泊まった夜、ミランダが、夜中に、出かけ――」
夜中に出かけたでしょう、と、イェイラは言った。
出かけたことを確信しているような口ぶりだった。
カマをかけたのだと、マリアラは今さら悟った。
「……吹雪だったのに。夜中にこっそり出かけるなんて……そんなこと、するわけないのに」
「俺もそう言った。まあ、吹雪は止んでたんだけど」
「えっ」
「真夜中頃かな、寝る前にちょっと外見たんだ。吹雪は止んでて、すごい月が出てた。双満月で、明るかったよ。窓までは開けてないけど、風も止んでたっぽい」
「そ……そうなんだ」
「沖島研究所は防犯のために、窓とか扉の開閉記録を取ってるんだって。ミランダの泊まった部屋の窓ロックが夜中に外れたってデータになってたらしくて、それで調査してるんだってさ。ちょっと月見たくらいであーだこーだ言われるなんて、ミランダもほんと、大変だよなあ。……マリアラ」フェルドの声が少し変わった。「さっきイェイラに、何かわけわかんないこと、言われた?」
マリアラはギョッとした。まさか見透かされるとは。
さっきの自分は、本当にどんな表情をしていたというのだろう。
フェルドは眉を下げる。
「マリアラにも言ったのか……」
「えっと……その、フェルドにも?」
「孵化した頃から……まあ何度かね。未だにわけがわからなくてさ」
フェルドは困ったような顔をして、親指で自分の鼻を弾いた。
「イェイラはどうも……俺が何か、その、宝物か何かを……持ってて、隠してるはずだって、思ってるみたいで」
「宝物……?」
「それがなんなのか、どういうものなのかも、さっぱり分からなくて。俺はそんなもん持ってないし、隠してるつもりもないんだけど、あの人は、絶対持ってるはずだし、それをちゃんとした場所に据えとかないのは良くない、身勝手なことだ……みたいなことをね、何度か言われて。ほんと、意味が分からない」
「うん……」
「――ごめん」
驚いた。
「どうして謝るの?」
「俺の相棒だから、そのせいで、わけわかんないこと言われたわけだろ」
「それは……でもそれは、フェルドのせいじゃないでしょう」
「ん、まあ……それはそうなんだけどさ」
アイリスがこちらを見ている。マリアラはフェルドと並んで歩き出した。歩きながら、考えた。昨日の、言いにくそうだったララの声が、耳元でもう一度聞こえた。イェイラはあたしを憎んでるの――
「フェルド」小さな声で、マリアラは囁いた。「ララって……ララって名前、もしかして、愛称だったりする? 正式な名前って、教えてもらったことある?」
「ララに教えてもらったわけじゃないけど知ってるよ」
そしてフェルドは、マリアラの予想どおりの名前を言った。
「【魔女ビル】の登録簿ではこうなってる。ライラニーナ=ラクエル・マヌエル」
学校に上がった子たちが帰ってくる時間になると、また忙しくなった。てんてこ舞いと言うほどではないのだが、ここの詰所は学校の保健室のような役割も果たしているらしく、ひっきりなしに子供たちが訪れては、休んでいったりお喋りをしたりする。専門職のカウンセラーも常駐しているが、年齢の近いマリアラやフェルドの存在は子供たちにとってかなり貴重だったらしい。なんだかんだと話しかけられ、宿題をするのを見ていて欲しがられたり打ち明け話をされたりして、午後は賑やかに過ぎていった。ダニエルがここに詰めていた頃、それはそれは頼られていただろうと思うと和やかな気分になった。イェイラの投げつけていった爆弾の影響が、この賑やかさと和やかさのおかげで、少しずつ、薄れていく。
フェルドは男の子たちにだいぶ文句を言われたが、フィを提供するだけで許してもらって、午後もずっと詰所にいた。マリアラはいつも真面目で頑固だと言われたが、フェルドも結構真面目な方だとマリアラは思う。イリーナもあれから一言も陰口を言わず、にこやかで、穏やかだった。もうすぐ五時。あと少しでこの楽しい時間も終わってしまう。そう、思い始めた頃。
「すっ、すみません……!」
緊迫した男の子の声が、詰め所に響いた。既に声変わりを迎えかけた声だった。子供寮でも最高齢の、十四、五歳だろう。この年頃の子たちはごくわずかしかおらず、また詰所に遊びに来るような年頃でもない。なのにここに駆け込んできた、それはつまり、ただならぬ事態の発生を示唆していた。
駆け込んできたその子の顔を見て、見覚えがあることに気づいた。
先日――魔物を逃がすためにフェルドにここの抜け穴まで連れてきてもらった、あの時、ツリーハウスの上から、“孵化って痛いのか”と聞いてきた、あの、男の子だった。
その子の顔は引きつっていた。ずっと駆けてきたのだろう、息が上がっている。
「アラン、どうした」
フェルドが声をかける。先日もフェルドはこの子と親しく言葉を交わしていた。フェルドがここにいた頃から、既に子供寮にいた子なのだ。
アランと呼ばれたその子は勇気を振り絞るように叫んだ。
「――カイトが倒れた! 心臓押さえて――孵化、かも、知れない」
「マリアラ、同行を」アイリスが鋭い声で言った。「アラン、場所は?」
「第一ツリーハウス!」
「ありがとう。――マリアラ、緊急事態だから箒に乗って。私を後ろに乗せて」
「はい!」
マリアラは応え、詰所の外にかけ出した。一緒に出てきたアイリスを後ろに乗せて、ミフに乗って飛び立った。建物の中なのに箒に乗るなんて、滅多にない経験だ。その甲斐あって十数秒もしない間に第一ツリーハウスに辿り着く。
さっきミフが強度チェックしたばかりのツリーハウスの中で、カイトと呼ばれたその子は倒れていた。
孵化だ、と、ひと目見てそう思った。身体から溢れ出た若草色の粒子が、ふつふつと沸騰するような、特徴的なパターンを描き始めている。
「孵化?」
アイリスが訊ね、マリアラは頷く。
「間違いありません」
「わかった。医局に運ぼう」アイリスは無線機を取り出した。「――レオ? 孵化だ。イリーナに箒の提供を依頼して」
さすがのイリーナも、この状況で箒の提供を拒むような真似はしなかった。数分後、窓から箒が飛び込んできた。マリアラがミフとイリーナの箒で担架を準備する間、アイリスはてきぱきとカイトの魔力の波長を記録している。
即座に担架が出来上がり、アイリスと力を合わせてカイトの身体を担架に乗せる。カイトの表情は苦しそうに歪んでいる。そう、孵化は苦しいものだ。マリアラも以前体験した。心臓がぎゅうぎゅう締め付けられるような痛みと、どうしても動かせない自分の身体。もどかしくて、苦しくて、痛くて、どうにかしなければという焦燥を感じるのに、どうしていいのかわからなくて。
心細かった。
思い出してマリアラは、カイトの手をぎゅっと握った。
自分の身体が誰かに取られてしまったのでは、と、思わずにいられなかった、あのときの恐怖。この世に生まれ出るという祝福されるべき事柄なのに――出産と同じく、その出来事は、どうして苦しいものなのだろう。
「マリアラ、医局まで同行してくれる?」
アイリスに言われ、もちろん、と頷く。担架がしずしずとカイトの身体をツリーハウスの外に運び出し、マリアラは急いでその後を追った。ロープを伝って床に下りると、そこにフェルドと、カイトの異変を知らせたあのアランという少年がいた。アランは複雑な顔をしていた。マリアラは努めて、アランの内心については考えないようにした。事務的に、出来るだけ感情を表に出さないように、気をつけて言う。
「孵化だった。医局に連れて行かなくちゃ。――アラン、一緒に行く?」
「うん」
アランは青ざめた顔で頷いた。担架は既に先に進んでいる。マリアラはひとつ頷いて見せ、急いでその後を追った。