孵化と花火(5)
ブランコのチェックを終えたミフが戻って来て、三人はそれから、木の裏側から伸びている滑り台のチェックに向かった。
その時、ぴりりり、と、アイリスの胸ポケットで軽い電子音がした。無線機だ。急患だろうか。
アイリスが出て、用件を聞き、眉をひそめて、うん、と頷く。
「ああ……うん。え、私? 私は構わないよ。本人たちには……そっか、まあそうだね。うん。今? 木の裏側の滑り台の辺りにいる。はい。はーい」
ぴっと無線機を切って、アイリスは言った。
「なんかね、詰所に、君たちを訪ねてきているお客さんがいるんだって。ちょっとだけ話が聞きたいそうだ」
「え……? 誰ですか?」
「ザールという、保護局員だ」
アイリスが言った名に、マリアラはギョッとした。ザール?
沖島でミランダに心ない叱責をした、優秀だという評判だった、保護局員の名前だ。イェイラの恋人だという、あの。
「知ってる? ライナー=ハインヒルト=ザール。保護局の有名人だ。まあ……ちょっと、芳しくない方向にだけど」
「何を聞きに……」
「さあ、そこまでは。それからもうひとり。イェイラ=レイエル・マヌエルも一緒だって」
ぎくり。
フェルドが硬直した。マリアラは、ララの言葉を思い出した。イェイラは、あたしを憎んでるの――。
フェルドがイェイラを苦手に思う理由は、その辺りにあるのだろうか。アイリスにはその辺りの事情はわからないはずだが、彼女はマリアラとフェルドの表情を見て、少し気の毒そうな顔をした。
「今は昼休みだし、私に拒む権限はないし、ちょっと話を聞きたいだけだそうだから、無碍に断るのも得策ではないと思うよ。五分で済むと言ってる」
そう言った時には既に、螺旋階段に、ザールの頭がみえていた。
相変わらず、愛想も素っ気もない、冷たい顔をした人だった。中肉中背の、これと言って特徴のない風貌だが、その眼差しの冷たさは特筆に値する。その後ろからイェイラ=レイエル・マヌエルが歩いてくる。彼女の方も、先日見た時と変わらずに美しい。
「邪魔するよ。……アイリス=ヴェルディス。お仕事中お邪魔して、申し訳ありません」
ザールはアイリスに丁重な礼をひとつした。
「同僚の方にお話ししましたが、五分だけ、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「ええ、私は構いません。遊具チェックを続けていますから、終わったら声をかけていただければ。――マリアラ、箒を借りても構わない?」
「え、あ、はい。……どうぞ……」
アイリスは微笑んで、木の裏側に向けて歩いて行く。彼女がいなくなっただけで、なんだかひどく心細い。ザールはマリアラとフェルドに向き直り、単刀直入に言った。
「仕事中に申し訳ないが、話を聞かせて欲しい。五分で済む」
「ご用件は」
フェルドが訊ね、ザールは一歩、前に出た。
「先日の沖島出張の件でね。フェルディナント、ちょっとこちらへ」
そう言ってザールはフェルドを促して、砂場の方へ歩いて行った。残されたマリアラの前に、イェイラが進み出る。
マリアラは思わず固唾を飲んだ。イェイラは本当に――本当に綺麗で、美しくて、なんだか現実離れして見えた。肌はまるで水そのもののようにきらめいていた。髪が触れてもさざ波が立たないのが、不思議なほどだ。そして長く美しい黒髪が、とりわけ綺麗で、まるで夜の輝く水面のよう。
「そう警戒しなくても大丈夫よ。先日会ったでしょ。――覚えてくれている?」
優しく、穏やかな声で言いながら、イェイラは先に立ってお城の方へ向けて歩き出した。マリアラはその後を付いていった。イェイラの動きは堂々としていて、マリアラがついてこないかも知れないなどと、全く思っていないようだった。
「あの、お話って――?」
「先日は」ザールとフェルドから充分離れると、イェイラはくるりと振り返った。「――私の〈娘〉が、あなた方の研修の邪魔をして。ごめんなさい」
ミランダのことだ。今朝、イーレンタールが、ミランダに相棒をプレゼントすることについて、相談に行ったはず。そのせいで、話を聞きに来たのだろうか。
マリアラは自分を戒めた。何しろザールも一緒に来ている。不用意なことを言って、万一アルフィラの相棒を付けることさえできなくなってしまったら大変なことだ。
「邪魔なんかじゃ、ありません。ミランダの治療を間近で見ることが出来て、とても勉強になりました。お礼を言いたいほどです」
そう言うとイェイラは、マリアラをじっと見て、それから、照れたように笑った。マリアラはどきんとした。頬に赤みが差すと、その美しさが更に際立つ。それに、なんだかすごくいい匂いもする。上品で、洗練されていて。
本当に、何て、綺麗な人なんだろう。
今日は勤務日なのか、制服姿だった。均整の取れた体つきとその佇まいのせいか、制服なのにイブニングドレスでも着ているかのように見える。
「そう言ってもらえると救われるわ。優しいのね」
「え、いえいえ、そんな」
「お仕事中にごめんなさいね。ひとつだけ、教えて欲しいの。沖島で一泊した夜、ミランダ、夜に出かけたでしょう?」
「は?」
マリアラはぽかんとした。
「え――そうなんですか?」
イェイラの輝く瞳が、じっとマリアラを見ていた。ややして彼女は首を傾げる。
「知らない?」
「ええ、知りませんでした。……ほんとに出かけたんですか? すごい吹雪だったと思うけど」
あの夜――と言うか、この季節のエスメラルダは、ほとんどいつも吹雪に覆われているようなものだ。沖島にいた日も例外ではなかった。本土よりもっと激しい吹雪に襲われていたような気さえする――いや、夜中にわざわざ外を見たりしなかったから、本当に吹雪だったかどうかはわからないけれど。
「あの日、ミランダはちょっと、疲れてしまったそうで……夕食も部屋で取ると言って、すごく早く部屋に入ったんです。その後は……」
「ふふ」
イェイラはまた笑った。ちょっとからかうような笑い方だった。
「そうなの、わかったわ。それなら、何かの間違いかも知れないわね」
「そうだと思います。遊びに行くところもないし、寒い、し」
「お時間を取らせて、ごめんなさいね」
イェイラは優しく微笑んだ。マリアラは戸惑った。まさか、本当に、ただそれだけのために、わざわざやって来たのだろうか?
他に何か口実があるのでは、と、思わずにはいられない。イェイラだけでなくザールも制服姿だ。お昼休みに職場を抜け出してわざわざ話を聞きに来たのに、用件がたったのそれだけだなんて。思わずフェルドの方を伺うと、砂場の傍で、やはり困惑した顔をしている。ザールの用件も、同じだったらしい。眉間に皺が寄っているのが見える。
「彼は」
涼やかな声が囁いた。静謐な水のしずくのような、声だった。
マリアラの視線を捉えて、イェイラは言った。
「――自覚する必要があるわ」
「自覚、ですか?」
「物事には、収まりというものがある。世界の全ては、その法則によって定められている。桜の木にはツィスは成らない。薔薇の木に咲くのは薔薇だけ。同じように……彼の居場所は、ここじゃないわ。いつまでこんな境遇に、甘んじているつもりなのかしら」
マリアラは戸惑っていた。いったい、何を言っているのかわからない。
彼、というのは、フェルドのことだろうか。
イェイラの瞳に宿る光が鋭さを増した。飲み込みの悪いマリアラを蔑むような、冷たい光。
「そしてあなたもよ。マリアラ=ラクエル・マヌエル。あなたは彼の相棒に相応しいと、自分で本当に、そう思っているの? 自分にそれだけの価値があると、よく――よくも、思い込めるものね」
「イェイラ、こっちは済んだ」
こちらに戻って来ていたザールが、優しい声で言った。イェイラに向けられるザールの声はとても優しくて甘く、この人の口からこんな音色が出るだなんて信じられないほどだ。イェイラへの感情がとてもよくわかる。
イェイラも蕩けるように微笑んだ。軽く手を挙げて、甘やかな声で言った。
「こっちももう終わるわ。先に行っていて」
「――」
まだ頭の中が痺れているようで、理解が追いつかない。フェルドは砂場にしゃがみ込んで、手で砂を掘り返してみたりしている。その背中に向けるように、イェイラは低い声で言った。
「生まれたてだもの、あなたは多分、知らないのでしょうね。相棒は、どちらかの強い意思表示があれば、解消することも出来るのよ」
「……どうして。どうしてそんな、」
「ライラニーナは全てを知りながら全てを隠して彼を鳥籠の中に閉じ込めている。あなたもその鳥籠の一部なのだと自覚なさい。彼女を、あまり信じない方が身のためよ」
言うだけ言うと、イェイラはさっと踵を返した。子供部屋の入口で待つザールのところへ颯爽と歩いて行くイェイラは、やはり、女王のように気品に満ちて美しかった。
マリアラは茫然とその背中を見ながら、
――ライラニーナって、誰だろう。
そう、考えていた。