孵化と花火(4)
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子供たちの対応に追われる午前を過ごし、ようやく、少し落ち着いて休める時間がきた。
時計を見てマリアラは驚いた。もうとっくに昼食の時間だった。「ダメですよ」穏やかなアイリスの声がして振り返ると、フェルドが叱られていた。と言ってもアイリスは笑っている。
「今日は見学だけって言ったでしょう。お茶を入れるのもダメです。座ってなさい」
追い返されたフェルドがすごすご戻って来て、マリアラは思わず微笑んだ。沖島の時の自分を思い出さずにはいられない。見てるだけで何もするなと言われるのは、暇で楽なようでいて、けっこう辛いものがある。
レオがパネルを操作してお茶と昼食を頼んでいる。アイリスが席を外して部屋を出た。扉が閉まったとき、明るい声が言った。
「あんな言い方しなくてもいいのにねえ」
マリアラは驚いてそちらを見た。明るい声に、確かに、とげとげしい色が含まれていた。見ると、さっき、後からシフトに入った三十代くらいの左巻きの女性だった。濃い褐色の髪色をして、目尻に笑い皺のできた優しそうな風貌である。が、その目に浮かんでいる色がマリアラを落ち着かない気分にさせた。
「あの人ほんと四角四面というか、融通きかないって言うか……悪い人じゃないんだけど、心配りが足りないって言うか。ねえレオー、あの話、どうなったー?」
マリアラは身じろぎをした。なんだろう、居心地が悪い。
注文を終えたレオはこちらを振り返って、困ったように笑う。
「いやまあ……アイリスは、規則を守っているだけですから……」
「規則! エスメラルダの治療行為は左巻きのマヌエルしかやっちゃいけないって、それこそ決まってるじゃない! ねえあなた、えっと、……名前なんだっけ?」
訊ねられてマリアラはまた身じろぎをした。嫌な予感。
「あ、あ、あの……マリアラ=ラクエル・マヌエルです」
「マリアラ? あたしイリーナ=イリエル・マヌエル。よろしく。……ねえマリアラ、アイリスには気をつけた方がいいわよ」
さっき“悪い人じゃない”と自分で言ったのに、イリーナは既に陰口披露の体勢だ。マリアラは困った。ああ、嫌だなあ、と思っていた。イリーナは思わせぶりに声を潜める。
「アイリスと組んで、どう思った? 治療箇所を勝手に指示してこなかった?」
「え、……っと」
「遠慮なんてしなくていいのよ。不快さはちゃんと明言して、〈アスタ〉に蓄積していかなくちゃ。診断の強要は越権行為なんだから、」
「きょ、強要なんてされてません。診断も、その、その、的確だったし、わたしはっ、助かるなあって、思いました――」
「……」
マリアラの回答は、明らかに、気に入らなかったらしい。イリーナはマリアラをじっと見て、不満そうな顔をして、それから、まあね、とごまかすように笑った。フェルドをちらりと見て、頷く。
「あなたは研修で来ただけだもの。普段は相棒と一緒にシフトに入ってるんだもんね、ごめんごめん、今の話は忘れて。そりゃああたしたちと同じ立場でものを見るってのは、無理よねえ」
マリアラは心がきゅうっと縮んだのを感じる。さっきまでの楽しい気分がどこかへ行ってしまった。
一般学生だった頃――専攻が決まる直前までは、こういう気持ちは日常茶飯事だった。毎日、綱渡りしているような気分だった。誰かの陰口を聞かされたり、同意を求められたり。値踏みされ、判断され、レッテルを貼られ、味方かそうでないか、どこに属する人間なのかを決められる。またそれで決まる序列や陣営は、マリアラが把握するよりずっと速いスピードで移り変わっていって、神経がすり減るような気がしていたものだ。
あの頃、大人になるまでの辛抱だと思っていた。大人になって、周りもみんな大人になれば、こんなくだらない勢力争いに翻弄されることもなくなるだろうと。事実、十五歳になって専攻が決まってからは、だいぶ平和になっていたような気がする。
でもイリーナはどう見てもララより年上である。大人になっても、やはりこういうことは続くのだ。なんだかげんなりだ。
――肺炎が流行り始めていますし、また顕著な咳をしていますので、まずは肺の診断から……
アイリスが医師として言った言葉だ。ほかにも、扁桃腺炎やインフルエンザ、ウイルス性疾患……彼女の診断は的確で、指示もわかりやすくて端的だった。マリアラは彼女の診断に従うことを、助かるとしか考えなかった。
――治療行為は左巻きしかしちゃダメって決まってるじゃない。
イリーナはアイリスの診断に従わされることを、越権行為だと、思って、腹に据えかねている。これはどうやら、そこに端を発する問題らしい。
人が足りない。働き過ぎ。過労がマヌエルの健康を阻害している。
医局や治療院の現実を見れば、マヌエルの魔力を節約するために、様々な対策を取ることが悪いことのはずがない。薬のレシピを覚えてしまえば魔力の節約ができるように、マヌエルの治療の前に医師が診断し病気の見当を付けておくことも、魔力の節約には効果的のはずだ。マリアラからは、イリーナの意見は少々頑なすぎるのではないか、と思うが、“同じ立場でものを見るのは無理”と言われてしまうと、そうなのかもしれないとも思えてくる。
ちん、という軽い音を立てて昼食が到着する頃、アイリスが戻って来た。レオがお弁当とお茶を配ってくれ、イリーナは知らん顔で、何事もなかったかのように食べ始めている。マリアラはため息を飲み込み、自分のお弁当に手を伸ばした。
ああ、居たたまれない。こんな気持ちのままここでずっと昼の休憩を取るなんて拷問だ。
お弁当の中身をよく確かめることも出来ずにもそもそ食べていると、アイリスが優しい声で言った。
「マリアラ、それから、フェルディナント。食べ終わったら、悪いけど、上の階に付き合って欲しい」
「え」
マリアラは顔を上げた。アイリスが微笑む。
「今の時間なら皆教室に行ってる。遊具チェックは子供がいない時間しかできないからね。色々なことを説明しながらやりたいから、早めに始めたいんだ。休憩時間の残りは、その後にとってもらえると助かるんだけど」
「あ、あ、はい、わかりました。もちろん、行きます」
思わずホッとした。それを見てアイリスがまた微笑んだので、マリアラはなんだか哀しくなった。アイリスはきっと、自分が席を外したときにどんな会話がされていたのか、分かっているに違いない。そう悟ってしまったからだ。
大人も本当に大変だ。そう思いながら、急いで昼食を済ませた。
幼児階はいくつかの大きなスペースに分けられていた。大人の腰くらいの高さのパーテーションが仕切っている。大人たちは出入り自由だが、子供たちは、他のスペースに移動するには寮母の許可がいるという作りになっているようだ。
その階にはよちよち歩きの赤ちゃんから跳んだり跳ねたりする四歳児までが一緒にいるから、当然の措置なのだろう。身体の大きさも全然違うし、遊び方も全然違う。大きな子が赤ちゃんのスペースに入ったら事故が起きかねない。
詰所を出たところは、一番行動範囲の広い四歳児たちのスペースだ。今は彼らも昼食のために隣の食堂に行っているから、広々として、閑散として見える。
マリアラとフェルドが先に出て、アイリスが続いて出る。扉を閉めると思わずため息が出、またそれがフェルドと同時だったものだから、アイリスが噴き出した。くくく、と喉が鳴る。
「す、済まなかったね。居心地の悪い思いをさせて」
アイリスはそう言って、まだ笑いながら先に立って歩き出した。マリアラとフェルドは顔を見合わせて、急いでその後を追った。食堂を右手に見ながら螺旋階段に向けて歩いて行く。四歳児たちが食事を取っている空間は賑やかで、楽しそう――と言うより阿鼻叫喚の渦だ。
「遊具のチェックも医師の重要な仕事なんだよ」歩きながらアイリスが言った。「本来は、左巻きの魔女は特に同行する必要はないんだけどね。ただ、箒を貸してもらえると助かるんだ。ツリーハウスの強度チェックとか、ブランコの強度チェックとか、人力ではやはり限界があってね」
螺旋階段を昇りながら、アイリスは、安全確認のためのチェック項目を指さしながら教えてくれた。螺旋階段にきしみはないか、手すりのペンキの剥落はないか。上がってからは床を目視でチェックして、それから木に移る。ミフは張り切って――フィに羨ましがられながら――飛び立ち、ツリーハウスの中に飛び込んで歓声を上げた。アイリスに指示されるまま、床や天井、窓枠などの写真を撮り、屋根に上がって穴に柄を差し込んでそっと揺らしてみたりした。それが終わると今度はブランコだ。仕事だというのに歓声を上げてブランコを揺するミフを、アイリスはニコニコして見ている。
「ミフ、遊びじゃないんだよ?」
『分かってるよー! 楽しー!』
「そうそう」アイリスがフェルドを振り返った。「そう言えば君はここの出身だったよね。以前からね、探究心旺盛な子供が、この部屋から旧通路に紛れ込んでしまう事例が後を絶たない。そこへの入口は大人には絶対に報告されず、口伝えに、子供から子供へと受け継がれると聞いてる。先日、お城の中の出入り口が発見されて塞がれたんだけど――他に心当たりない?」
お城の中の出入り口と言えば、先日、フェルドがマリアラを案内してくれた場所だ。あの事件のせいで、あの出入り口は厳重に塞がれてしまったはずだ。探検好きな子供たちにとって、かなり痛手だったことは間違いない。
フェルドはすました顔で言った。
「俺は今日は見学だけで建設的なことは何もしちゃいけないと言われているので」
「責任ある大人として、後輩の子供たちの安全を確保する、良識ある行動を選択して欲しいな」
「俺は今日は見学だけで建設的なことは何もしちゃいけないと言われているので」
「融通きかないな。よくそう言われない?」
フェルドが堪えきれないと言ったように笑い出し、アイリスも笑い出した。アイリスは、自分がどういう評価を得ているか、よくわきまえているようだった。強い人だとマリアラは思う。マリアラ自身、真面目で融通が利かないと言われ続けた過去のことを思い出すと、アイリスの笑顔が眩しいほどだ。残っていた先ほどの居たたまれない空気が、その笑いによってぬぐい去られていく。