孵化と花火(3)
今日は【魔女ビル】四階から五階の、子供たちの部屋で、一日過ごすことになっている。
先日フェルドが連れて行ってくれた場所だ。素敵な、大きな木があった。建物の中だというのにあの木はのびのびと枝を伸ばしていて、子供たちが楽しそうに遊んでいた。楽園のようなあの空間で、今日は一日、突発的なケガや病気に備えて待機することになっている。
沖島の時はマリアラが、フェルドの仕事を見学したけれど、今日は逆だ。今日フェルドは見学で、実際に働くのはマリアラである。それなのに遅刻寸前なんて情けない。廊下から詰所に駆け込んだとき、時計はちょうど九時を指していた。詰所のスクリーンで、〈アスタ〉が笑う。
『はい、セーフ。お疲れさま』
「おっ、遅くなってごめんなさい……!」
詰所は広く、奥の壁が全面ガラス張りになっていて、あちら側で遊んでいる幼児たちや寮母の様子を一望できるようになっていた。また詰所の中央には大きなテーブルがあった。カップがふたつ出ていて、書類やペンなどが置かれているが、その他はきちんと片付けられていて、居心地の良さそうな空間だ。周囲のロッカーにはファイルがずらりと、理路整然と並んでいる。テーブルの周りには座り心地の良さそうなキャスター付きの椅子が数脚。白衣を着た男性と女性が腰を掛けている。ふたりは飲み物を飲みながら打ち合わせをしていたところのようだった。
どうやらふたりとも、医師らしい。女性の方が、明るい穏やかな声で言った。
「おはようございます。マリアラ=ラクエル・マヌエル?」
「は、はい。おはようございます、遅くなって、すみません」
「遅刻したわけではないのだから、そう謝らなくていいよ」
中性的な顔立ちの、すらりとした女性だった。背が高く、凛々しい雰囲気だ。体はしなやかであまり丸みを感じさせず、中性的な雰囲気を醸している。目許のホクロが印象的な、涼やかな風貌だ。マリアラの視線を捉えて彼女はにこっと笑った。医師にしては若い。二十代の前半くらいではないだろうか。
「私は研修医の、アイリス=ヴェルディス。よろしく、マリアラ」
マリアラはホッとした。とてもいい人のようだった。もうひとりの男性も若かった。「僕はレオ」と言いながら彼は奥へ行き、ガラス張りのスライドドアをがらっと開けて声をかけた。
「おおい、相棒が来たよ。って、……大丈夫か?」
開けた瞬間、あちら側の楽しく賑やかな喧噪がなだれ込んできていた。ごく近くで、きいきいきゃあきゃあと興奮して喚く声が聞こえる。「おーら、おりろー」とフェルドの声が言い、一斉に不満の声が上がった。
「やだー!」「もっとー!」「もっとー!!」「もういっかい! もーいっかいぃ!!」
「こらこら、お仕事のお邪魔しちゃいけません。始まるまでって約束だったでしょ」
「やーだーあー!」
どうやらフェルドが幼児たちにまとわりつかれていたようだ。ややしてレオの向こうにフェルドの姿が見えた。肩と腕と腰と足にそれぞれ男の子がへばりついている。よく立てるものだ、とマリアラは思う。寮母がひとりを引きはがし、その子が泣いて嫌がって身をよじったとき、フェルドが言った。
「フィ、相手してやって」
『待ってましたー!』
フェルドの首元からフィが飛び立った。ぎゃああっと悲鳴じみた歓声が上がった。フェルドにしがみついて徹底抗戦の構えだった幼児たちが我がちに飛び降り、フィの後を追って駆けていく。
「そうか、君はここで育ったんだったね。それで初めから箒を出さなかったんだ」
レオが笑っている。なるほど、フィを初めから出していたら、遊びを切り上げるのは並大抵の苦労では済まなかっただろう。その点、フェルドはよくわきまえているらしい。
「おはようフェルド。ごめんね、遅くなって」
「おはよ。謝らなくていいよ、別に遅刻もしてないだろ。工房で朝食べてたんだろ? 〈アスタ〉から聞いた」
フェルドは幼児たちにぐちゃぐちゃにされた髪を適当にかき回しながら詰所に入ってきて椅子に腰をかけた。マリアラを見て、ニッと笑う。
「よく手懐けたよな、あのもやしっ子。――ほんと、謝ることじゃないよ。ありがとう」
マリアラはなんだかどぎまぎした。まさかお礼を言われるだなんて。
「い……いえいえ、どう、いたしまして」
「マリアラ、こちらへどうぞ。今朝の治療対象者はこちらです」
アイリスが言い、マリアラは頷いて、彼女の方へ行った。仕事の始まりだ。
幼い子供は夜中~明け方にかけて発熱することが多い。彼らの容態を診、治療をすることが、今日のマリアラの仕事のひとつだった。
アイリスの後について扉をくぐると、そこは、医局とよく似た作りの病棟になっていた。ベッド数はざっと三十ほどだろうか。広々とした空間に整然とベッドが並べられ、間を白いカーテンが仕切ったり仕切らなかったりしている。その半数ほどがうまっているようだ。また五人ほどの看護師がベッドの間を縫って歩きながらてきぱきと仕事をこなしている。アイリスは手にした書類ばさみをぱらぱらめくりながら、マリアラを、扉から一番近いベッドまで連れて行った。まだ幼い、二歳くらいの男の子だ。ぐったりしている。熱が上がったばかりのようで、顔が赤く、肺のあたりでごろごろという音がしている。
「発熱に気づいたのは明け方五時頃だそうです。ウイルス性の肺炎が流行していますし、また典型的な咳をしていますので、まずは肺から診察をお願いします」
アイリスは丁寧な言い方で言った。マリアラははい、と頷いて、男の子の肺のあたりに左手を翳した。右手で額に触れると、顕著に熱い。翳した左手に炎症が感じられる。アイリスの診断どおり、肺炎で間違いないようだ。早速治療を始めながら、マリアラは感心していた。アイリスの診断はとても的確で、魔力を使わずに容態を診るだけで不調の原因を言い当てていた。
マリアラはアイリスが差し出した気管支拡張剤を受け取って、男の子の体質に合わせて調整し、担当の看護師に投与を依頼した。投与後は男の子の身体に薬が回るのを助け、それと同時に肺の炎症を起こす原因を突き止め、ウイルス除去薬を投与し、免疫系の格闘を手助けした。あっという間に一人目の治療が終わった。二十分もかからないほどだった。
呼吸が楽になった男の子はすうすうと安らかな寝息を立て始めている。あとはゆっくり休んで体力を回復させれば完治だ。顔を上げるとアイリスと目が合った。鳶色の瞳がマリアラを射貫く。
「この子の他の診断は――他の要治療対象者の診察と治療が終わってからにしていただけますか」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「は――え、え?」
「次はこの子です。扁桃腺が腫れています。夜中の一時頃に扁桃腺の炎症を目視。明け方に体温上昇が認められましたが、この季節の医局に担ぎ込んで治療を待つよりも、子供部屋で左巻きの出勤を待つ方が体力消耗が少ないと判断しました」
呼ばれるままに、マリアラは隣のベッドへ移動した。こちらの子は四歳くらいで、真っ赤な顔をしていたが、起きていた。「喉痛い?」と聞くと、うん、と頷いた。アイリスは看護師に向け、てきぱきと、扁桃腺の炎症を抑える薬を持ってくるよう指示を出している。左手でその子の喉を探ると、確かにひどい炎症を起こしている。これでは食事も取りにくいだろう。マリアラはまたアイリスの的確な指示に感心した。
それからしばらく、アイリスと一緒にその後の治療を続けた。医師と共同で治療をするのは始めての経験だったが、こんなにやりやすいなんて知らなかった。全身を魔力で調べる必要がないというのは、なんてありがたいんだろう。ふと気づくともうひとりの左巻きも出勤していて、さっきレオと名乗った男性の医師と一緒に治療を始めている。ちらりと見えたが、その左巻きは三十代くらいの女性だった。
全員の治療が終わると、今度は待機に入る。待機と言っても、転んだり木から落ちたり喧嘩したりしてケガをした子供たちが続々やって来るので結構忙しい。そして、楽しかった。ダニエルがここに“入り浸っていた”という理由はとてもよくわかった。学校に上がる前の子供たちはとても賑やかで、見ているだけで元気になるような気がする。