沖島(16)
〈アスタ〉に聞くと、ミランダは、自室の一番そばの休憩所にいるらしい。
――どうしたのかしらね。なんだか考え事をしているみたい。忙しくはなさそうだけど……
そう〈アスタ〉は言った。それなら気分転換に、お茶に誘っても良いだろう。ちょうどおやつ時でもあるし――そんな大義名分を得てやってきたマリアラは、観葉植物の隙間からミランダを見て、驚いた。
今朝の上の空っぷりが、ひどくなっている。
「はああ……」
観葉植物に囲まれた隠れ家のような一角で、ミランダはため息をついた。帰ってきてから着替えたのだろう、長袖のTシャツに無地のロングスカートという、普段ミランダが好んで着そうな格好をしていた。普段どおりじゃないのは、その姿勢だ。ソファの背もたれに体を預け、足を投げ出して、スカートのときにはあまりそぐわない、だらし無いと言えそうな態度。ミランダがあんな風に座っているところなんて初めて見た。
どうやらレポートか何か、書こうとしているらしい。医局の治療者に登録するために研修を受けているわけだから、それに関するものかもしれない。しかしそのレポートはほとんど白紙のまま、テーブルの上に放置されている。その隣に置かれたマグカップの中身も八割ほど入っていて、すっかり冷め切っているようだ。
「はあああ……」
ミランダはまたため息をつき、ずるずると背もたれをずり落ちて、ソファにだらんと横になった。心ここにあらずというか、上の空というか。
ううむ、とマリアラは唸った。あれは、落ち込んでいるというよりも……
「恋煩い……みたいだなあ……」
呟くとミフが胸元で言った。
『あたしもそう思うよ、マリアラ』
「そんな感じ、だよねえ」
『フィンダルかなあ』
「フィンダルだったら悩んだりしないでしょ。両思いだもの」
『あ、わかった! 思い余ったフィンダルが夜中に忍んできたんだ!』
「……ミフってたまにすごいこと言うよね……」
マリアラは考え込んだ。イェイラに叱責されたことで落ち込んでいる、と、〈アスタ〉は思っていたようだけれど、マリアラの目には落ち込んでいるようには見えない。でも、いったい何があったのだろう? 夕食も取らずに部屋に籠もりきりだったのに。その間に何かがあったのだろうか。ミフの言うとおりだとは思えない――フィンダルはザールがミランダを気に入っていないと知って、尻込みしたようだった――、では、何が。やはり、イェイラの“叱責”に関わると考えるしか、今のところ材料がないのだけれど。
「……何してるの」
考え込むあまり観葉植物からはみ出していたらしく、ミランダがマリアラに気づいて呟くように言った。まだ寝ころんだまま、髪が頬や目の上にかかっている状態で、目も口調も表情もぼんやりしている。マリアラは覚悟を決めた。やきもきしているよりもえいっと聞いてしまった方がずっといい――以前ディアナに言われた言葉を思い出す。意を決して、歩いて行く。
「あ、のー。元気ですか」
「元気ですよ」
どう見ても元気じゃない。
「……昨日の夜、何があったの? イェイラに、何を言われたの?」
「イェイラに?」
ミランダはしばらく考えた。
「……イェイラは関係ないの」
「ないの!?」
「というか、別になんでもないの。昨日ちょっと眠れなかったの。レポートを書かなきゃならないから、必死で眠気に耐えているんです」
「いやー……」
マリアラはミランダの頭の隣にそっと腰掛けた。
「どう見てもそうは見えないな……」
でも眠れなかったのは確かなようだ。目がしょぼしょぼしている。だからこそ尋常じゃなかった。徹夜でこんな姿勢でソファに寝そべっているのに、ちっとも眠そうじゃない。朝ご飯もほとんど食べていなかった。マリアラは心配になって、ミランダをのぞき込んだ。
「お昼ごはん、ちゃんと食べた?」
ミランダの目が泳いだ。
「え……もうお昼過ぎなの?」
お昼過ぎというか、おやつ時だ。
「食べたの?」
「えっと……」
「もー! ちょっと待って!」
休憩所に備え付けの注文パネルに駆け寄る。手軽に食べられるものの方がいいだろう。フライドポテト――いや、あの分では恐らく昨日の夕食もろくに食べていないだろう。三食抜いてしまったと仮定すると、胃にもたれるものは良くないはずだ。
「スープ……ううん、うどんかなあ。サンドイッチかな……キュウリとトマト……生ハムレタス、アボカドクリーム! うーん! 美味しそうだけどミランダ、アボカド大丈夫かなあ」
『マリアラっていつも人の食べ物の心配してるよね。ラスとイーレンのとこにも運んであげてたじゃない』
ミフが言い、マリアラは軽く顔をしかめた。
「そーだ、今夜あたりまた様子を見に行かなくちゃ。絶対食べてないよまた」
『手がかかるねえ、リズエルってみんなああなのかな。没頭すると周囲が見えなくなる人たちが多すぎるよ』
ミフの軽口を聞き流し、生ハムレタス(トッピングにアボカドクリーム)のサンドイッチと、ゆで玉子・キュウリ・トマトのサンドイッチ、野菜スティック(オーロラソース)、トマトスープ、自分用にアップルパイと香茶を注文した。ややして届いた盆をミランダの前に運んでいくと、ミランダは小さな声で言った。
「……お腹すいてないの」
「スープだけでも飲んでよ。お願いだから、ほら」
盆をテーブルに載せ、マリアラが向かいに座ると、ミランダは渋々起き上がった。髪を手で直して、きちんと座り直すと、少し普段のミランダらしくなったが、瞳が芒洋としている。マリアラは自分の飲み物をすすりながら、ミランダがスープを飲むのを見守った。長い長い時間をかけてちびちび飲んで、飲み終えて、ミランダは言った。
「……なんでもないの。本当に」
「……そっか」
「たださ……人間ってなんだろうって……思っているわけですよ」
マリアラは呆気に取られた。なんだそれは。
ややして、言葉を絞り出した。
「深遠な悩みだね」
「うん」
急に、ミランダの背筋がしゃきっと伸びた。ゆで玉子のサンドイッチを取り上げて、文字どおり噛み付いた。たったの三口でサンドイッチが消え、アボカドクリームの方も程なく同じ運命を辿った。ふたつのサンドイッチを食べ終えると野菜スティックに取り掛かった。ニンジンやキュウリ、だいこん、セロリといった野菜が、特製のソースをほとんど付け直されもせずにしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくと食べられていく。その鬼気迫る様子をマリアラはかたずを呑んで見守り、ミランダの視線に気づいて、自分のアップルパイをおずおずと差し出した。
「ど、どうぞ」
「どうも」
それもあっと言う間に全部食べ終えて手と口を拭うや、ミランダは言った。
「あー、お腹すいた!」
「え、えー!?」
「マリアラ、付き合って! 喫茶店で四種のチーズのスパゲッティ大盛りを食べようと思います!」
「……胃もたれなんて気にしたわたしがバカでした、すみません」
ずるずると引きずられるようにして喫茶店まで連れて行かれて、そこで目の当たりにしたミランダの食事の量と言ったらもう、目眩がするほどの量だった。宣言どおりの大皿にこんもり盛られたスパゲッティと、これまた大きなオムライス、大盛りのサラダ、ふんわりしたシフォンケーキ、喫茶店名物の特製パフェ(二種類のアイスとプリンとチョコレートケーキ入り)と木の実のぎっしり乗ったタルト、甘いクリームとチョコレートソースのたっぷりかかったこってりケーキ、チーズケーキも頼んで、おまけに飲み物はクリームソーダだ。マリアラはその量と、それ以上にその勢いに圧倒されて、注文も忘れるほどだった。
見ているだけで甘すぎて吐きそう。
後ればせながら香茶を頼みながら考えた。
マリアラも甘いものは好きだが、いくらなんでもあんまりだ。
それらを見る見る内に食べ終えると、ミランダは再び手を上げて注文した。
「ハニートーストください!」
「えええ!?」
ほどなく運ばれて来た皿には厚切りのこんがりしたトーストが鎮座して、その上にはこんもりとアイスクリームが乗り、さらにたっぷりした蜂蜜の瓶が添えられている。ミランダはアイスとトーストの上に蜂蜜をかけた。たらたらと。丁寧に。執拗に。
「……自棄っぱち?」
呻くとミランダは一瞬動きを止めた。
それから再びたらたらと蜂蜜をトーストの上にかけ始めながら言った。
「孵化したのも相棒ができないのも、……私のせいじゃない」
「もちろん」
請け合うとミランダはマリアラを見て、初めて微笑んだ。
びっくりするくらい、悲しそうな笑みに見えた。
口元にクリームがついたままでなければ、儚いとさえ言えそうな笑顔だった。
「うん。だからしょうがないの」
「……うん?」
「……」
瓶がほとんど空になるまでかけて、ミランダはトーストに挑んだ。ナイフとフォークで切り分けて、蜂蜜とアイスをしたたらせるそれを口に含んで、ゆっくり食べて、飲み込んで、言った。
「甘い」
「そりゃそうだよ……」
「でもしょうがないって諦めたくないの!」
急に話がすっ飛んだ。もはや見ているだけで頭痛がしそうなその甘い甘い食べ物を食べ続けながら、飲み込む合間にミランダは言った。
「でもどうすればいいかわからないの!」
「……」
「何もできそうもないし、」
「……」
「しないって約束しちゃったし、」
「……」
「だから、」
「……」
「……今は待つしかないの。うん。そう。そうなの。そのとおりなの。でも……」
ミランダは手を止めて、ひどく悲しそうに言った。
「……手紙、くれるかな」
「手紙?」
「嘘かもしれない。忘れちゃうかもしれないし。忙しくてそれどころじゃないだろうし。敢えて出さないような気もする。約束した、けど、忘れられたらどうしよう。私、私、魔女、だし、ねえ」
マリアラは事態を整理するのは諦めた。何が何だかさっぱり分からないが、これがミランダの、“禊ぎ”のようなものらしいということだけはかろうじて分かる。
だから代わりに、思い浮かんだことを言った。
「約束したんなら、そりゃ、守るんじゃない?」
ミランダは顔を上げた。
「……そう、かな」
「約束したのに、破りそうな人だったの?」
「……」
しばらく考えて、呻いた。
「……そんなことない」
「じゃあ大丈夫だよ。待ってたらいいんじゃない?」
「でもだって、今日ね、今行けばね、もしかしたら会えるかも、でも、待ってたら会えなくなっちゃうかも知れないの。でも会いにいったら迷惑だし、大騒ぎになっちゃうし、何話せばいいかもわからないし……」
「約束したんでしょう。手紙をくれるって。それなのに今会いにいったら、信じてないってことにならない?」
「それよ!」
ミランダは両手で顔を覆った。
「それなのよ、もう。それそれ、それなの。マリアラ、ほんと好き。良かったらこれ食べて」
それほどに蜂蜜をかける前に言ってほしかった。
「……いや、今はいい、です」
「だからしょうがないのよ。しょうがないのよ、ねえ」
『何言ってんの、ミランダ。どういう意味?』
ミフが囁き、マリアラは首を振る。何が何だかさっぱりだ。
でも“禊ぎ”を経たミランダは、少しふっ切れたようだった。再びトーストを食べ出したが、甘い、と顔をしかめている。もしかして今までは甘さに気づいていなかったのかもしれない。ミランダは食べるうちに、アイスのすっかり溶けたクリームソーダを飲もうとして、げんなりした顔をして、言った。
「マリアラ、お茶、一口ちょうだい」
「……ごめん、お砂糖、入れちゃったんだけど、いい?」
「すみませーん! お茶ください!」
よくなかったらしい。それはそうだろう。
ミランダは憑き物が落ちたような顔をしていた。注文した声にも先程までの怒涛の勢いがなかった。ふっ切れて、いつものミランダに戻ってきたためか、それともお腹が一杯になり過ぎたためだろうか、急に眠そうな顔付きになっていた。お茶を飲みながら、それでも律義にトーストとクリームソーダを全部消費し終え、最後にミランダはあくびをした。
「ふわあ……眠いなあ……」
「眠れなかったの?」
「ん。……うん」
「手紙をくれるって約束した人とは、いつ会ったの」
ミランダはとろんとした目でマリアラをじっと見た。
「……誰にも言わないで」
「言わないよ」
「ありがとう」
ミランダはそこで言葉を切った。説明はそれ以上なかった。
でも、マリアラも、それ以上聞かなかった。“禊ぎ”が完全に済むまで、口に出せないこともあるのだろう、きっと。
論理的に考えれば、昨日の晩、沖島に一泊した夜に、これほどまでにミランダを取り乱させる存在と会ったということになるけれど――それについても、話せる日が来たら、きっと話してくれるだろう。いつか。