沖島(15)
朝食の時間になっても、ミランダは一向に起きてこなかった。
マリアラはそわそわしていた。昨日のミランダの泣き腫らした目元が頭から離れなかった。昨日、ラセミスタの笛を渡したのは、やはり誤りだっただろうか。でも、『嬉しい』と言ってくれた。でも、でも。
まだ寝ているのだろうか。しかし、ミランダという人と寝坊ということが、どうしてもつながらない。研究者たちも、今までこんなことはなかったと口を揃えた。
体調が悪いのかも知れない。だとしたら、放っておけない。
ミランダの使っている客間の前に立ち、躊躇いながらもノックをする。その結果起こった反応は劇的だった。どん、部屋の中で大きな音が鳴った。何かを蹴倒したような、そんな音だ。
「ミランダ!? 大丈夫!?」
「だっ、大丈夫!」
切羽詰まった声がした。マリアラは、ひとまずミランダが起きていて、別段病気でもなさそうなのでホッとした。しかし、どうしたのだろう。寝ぼけているという口調でもなかった。それに、さっきの音。
「……ミランダ? 今の音、」
「こっ、こんな時間……! すぐっ、すぐ行くから先に食べてて!」
起きていたらしいとマリアラは直感した。ただなんらかの事情で、朝食の時間を失念していたらしい。そう思って、内心首を傾げる。いったいどんな事情があれば、そんなことになるのだろう?
昨夜、ミランダは夕食の時間にも姿を見せず、ずっと部屋に籠もりきりだった。そのはずだ。なのに。
「じゃあ……えっと、食堂にいるね?」
「……はっ! はいっ! すぐっ! すぐ行くから!!」
なんだろう。なんだか、少し、予想と違う。昨日イェイラに“叱責”されたことで落ち込んでいるのではないかと思ったのだが、今の様子では、落ち込んでいると言うよりも、何か上の空な感じだ。
それでもまあ、落ち込んでいるよりは少しマシ……かも、しれない。
*
ところが、その後の食堂でも、帰りの“馬車”の中でも、ミランダは上の空だった。食事もあまり取らず、心ここにあらずだった。足元がふわふわしているような、放っておいたらどこかに漂って行ってしまいそうな、そんな危うさを感じる。
帰ったその日は非番だから、報告書を書き上げて提出してしまえばあとは休日のようなものだ。しかし、解散した後も、ミランダの様子が気になってたまらなかった。そわそわしながら部屋に戻る。ラセミスタは当然不在だった。とりあえず制服を脱ぎ、普段着に着替える。洗濯ボックスに畳んだ制服を入れた頃、壁に作り付けのスクリーンがふわっと灯った。〈アスタ〉の優しい声がする。
『マリアラ、今ちょっといいかしら? ララが、時間があれば、少し話せないかって』
「ララが?」
こないだの“無人島”のことだろうか。
『OKなら、あなたたちの部屋に一番近い談話室に行くと言ってるわ。どうする?』
「もちろんいいよ。すぐ行く」
身支度をして部屋を出る。マリアラとラセミスタの部屋の、一番近い休憩所は、エレベーターホールに向かう途中にある。マリアラはまだあまり使ったことがなかった。
【魔女ビル】に住む人間全体に言えることだが、居住のための部屋は概して狭い。その不満に応えるために、休憩所や談話室、更衣室などがある。ララが指定した談話室は個室になっていて、内緒話をするにはもってこいだ。そこに向かう間に、マリアラはなんとか頭を切り換えようとした。ララの用事が先日の“無人島”に関することなら、気を引き締めておかなければならない。
しかし。
ややして現れたララは、予想とは全く違ったことを言った。
沖島でザールに会ったでしょ、と、心配そうに眉をひそめてララは言った。
ララはこないだの疲労からはすっかり快復したらしく、とても元気そうだった。
そして制服を着ていた。ララは数ある制服デザインの中でも、一番ボーイッシュなタイプを好む。小柄で颯爽としたララに、パンツスタイルの制服はとてもよく似合っている。
「ごめんね、あんまり時間ないのよ。日勤だから」
入ってくるなり単刀直入にララは言い、お茶を頼もうとしたマリアラを止めた。マリアラは少なからず驚いた。日勤なのに、出動の待機時間に、ダニエルに留守を頼んで、わざわざ出てきたのだろうか? 話をするために?
「呼び出しあったらすぐ行かなきゃいけないから。――ごめんねマリアラ、非番なのに時間取らせて」
時間がないと言ったとおり、ララは座りもしなかった。彼女に向き直ったマリアラをじっと見て、ララは慎重な口調で言った。
「あのね。……沖島に、ザールが行ったって聞いたから。夜、ミランダに、イェイラから通信が入らなかった?」
「話って、それなの?」
マリアラはもう一度驚いた。てっきり“無人島”についての話かと思ったのに。
「入ったの?」
重ねて訊ねられ、マリアラは頷いた。
「う、うん。その……わたしはその通信の内容までは聞いてないんだけど、イェイラから通信があったのは確かだよ。それからその、ミランダが……」
その先はいいあぐねた。落ち込んでいるように見えた、と言おうとしたのだが、でも、今朝になってからの印象は違う。落ち込んでいると言うより、上の空のようだった。時間がないララに、マリアラの勝手な印象に過ぎないその変化を、わざわざ話すのはどうだろう。
ララは、わかっていると言うように頷いた。
「落ち込んでいたんでしょ。それはそうでしょう、わかるわ。急な話だったし、ザールが告げ口したんじゃあ、イェイラの神経も逆撫でされたでしょうから。
ひとつ……その、言っておこうと思ったのよ。他の人からヘンに聞かされるより、あたしの口からちゃんと言っておいた方がいいと思って」
何だろう。打ち明け話の気配。
ララは一瞬逡巡したが、すぐに意を決したように言った。
「イェイラはあたしを憎んでるの。昔少しその、……いざこざがあったものだから」
「えっ」
マリアラは目を見張った。憎んでる――とは、またずいぶん衝撃的な単語だ。
「ミランダがフェルドと一緒に行動するのをイェイラは喜ばない。それは、あたしのせいなの。フェルドがあたしの【息子】だからね……。だからね、だから……ミランダがあんたたちと一緒に沖島に行った、その事実がイェイラの神経を逆撫でした。それでイェイラはミランダを通信で叱責した。……それも、あたしのせいってことになる。ミランダのせいじゃない。八つ当たりみたいなものよ。なのに落ち込んでいるなら、できれば、それはあなたのせいじゃないって、言ってあげたいの」
「うん……」
「でもあたしがミランダに近づいたら、イェイラの神経をもっともっともっと逆撫でしちゃうことになるじゃない」
「……うん……」
「だからその……できれば、その。あなたたちは明日からまたミランダと一緒に行動することになるんでしょ、だから」
ララが何を言おうとしているのかわかってきて、マリアラは慌てて言った。
「あ、あの。明日からじゃなくて、明後日から。明日はミランダは休日だから……」
「え、でも、あんたたちは日勤でしょ?」
「だってペナルティだもの」
そう言うとララは、ようやく表情を緩めた。くすっと笑うようにして、眉を下げる。
「それはお気の毒に。明後日、花火大会なのに、当番なんでしょ」
「うん、それもキシュ地区の保護局出張所で待機」
キシュ地区は、花火が打ち上げられるひょうたん湖の、【学校ビル】を挟んで反対側にあるのだ。花火は全く見えないに違いない。
「……それはお気の毒に」
「だってペナルティだもの」
繰り返すとララは声を立てて笑った。いつもどおりのララの様子にホッとする。
「そっか。じゃあその時にでも、ミランダにね、その、……何か美味しいものでも食べさせてあげて、話、聞いてあげて、できればその、楽しい気持ちにさせてあげてくれない? フェルドだけじゃなくあなたまで巻き込んで、ほんと申し訳ないんだけど……これ、軍資金。フェルドとミランダと三人で、お肉でもピザでも海の幸でも食べて」
「え、いいよ、そんな……」
辞退したが、ララは無理矢理マリアラの手に銀貨を数枚、押し込んだ。返そうとしたが、ララの顔を見て諦めた。代わりに頷いて見せる。
「……わかった。当番日は晩ご飯出るけど、当番明けたらすっごく豪華なご馳走食べる」
そう言うとララはホッとしたように微笑んだ。
「雪祭りの食べ歩きに使ってもいいわよ。あ、その日も仕事なの? 気の毒に。でも休憩時間にお祭ちょっと見るくらいはできるでしょ」
雪祭りの日は花火大会の翌々日だ。
「左巻きふたりだから、一緒に休憩取るのは難しいと思うんだよね」
「ああ、そうねえ。……ごめん、もう行かなくちゃ。マリアラ、ほんとごめん。でもありがとう」
「ううん、どういたしまして」
ララが慌ただしく出て行き、ひとりになったマリアラは、やっと、ララが押し付けた銀貨の数を数えることができた。数えてみて、驚いた。銀貨が五枚。ひとりで最高級の焼肉をたらふく食べたとしても銀貨一枚でお釣りが来ることを考えると、三人分にしてもかなりの金額だ。
「こういう場合、お釣りはどうすればいいの……?」
返せばいいのだろうか? でも受け取ってもらえなかった場合、どうするべきなのだろう? 着服するなんてできないし、さりとて、こんな金額を使い切ることができる高級店など、行ったことはもちろん心当たりさえないし、そんなお店に三人で行く口実など思い浮かばない。
「ダニエルに相談しよう……」
でもダニエルは今は仕事中だ。それに、使うのはまだ先のことだ。マリアラは気を取り直し、銀貨をお財布にしまってから、ミランダを捜しに行くことにした。今朝のことも気になっていたし、ララの話もあることだし。