沖島(14)
「そうね……医局で使う薬を作っているわ。それから、週に一度、沖島に行くの。今回もそれであの島に来てたの。健康チェックをしたり、持病の発症を抑えたり、薬の補充をしたり」
「いい仕事だな。感謝されそうだし」
「ん。みんな大歓迎してくれる。他には……私左巻きなの、だから、医局の正式な治療者の登録を目指してて……研修受けたりしてるわ。たまに治療に入ったりもする」
「水の左巻きって、すごいんだってね。魔女の治療ってすごく気持ちいいんだって、聞いてる」
「受けたこと……」
ないんだ。ミランダは残りを飲み込んで、違うことを言った。
「気持ち良すぎるのが問題なの。病み付きになっちゃう人がいるから。わざとケガして戻って来たりするの、それはすごく困るの。常連さんとかいるのよ。そういう人には、軽いケガなら自力で治してくださいって包帯巻いて追い返すんだけど、そうするとわざとすごいケガして戻って来たりするから……やりすぎてうっかり死んじゃった人も前にいたんですって。そんなことになったら、後味悪すぎるわよね」
「そんなになんだ。すごいな」
ぽつぽつと話すうちに、前方に、うっすらと、島が見えて来た。南の大島の周囲を取り囲む諸島のひとつだ。灯台が立って、煌々とした明かりを周囲に投げかけている。
「どの島?」
「西からだと……三つ先かな」
「どうして海に落ちたの?」
「漁に出てたら海が荒れて」
「やっぱり漁人なの?」
「そうだよ。山男とか漁人にはルクルスが多いんだ。力仕事だからね」
ぽつりぽつりと明かりの灯った島の上を飛び越して、再び海の上に出た。すぐに次の島が見えている。このデートももうすぐ終わりだと思うと、名残惜しい気分になった。居心地のいい人だ、とミランダは考えた。一緒にいて肩が凝らないし、人見知りの気のある自分には珍しく、初対面だというのに緊張しない。気遣いがうまい人なのだろうという気がする。
三つ目の島が見えて来た時、彼が言った。
「……さっきの話だけどさ」
「え?」
「元老院にたてついて、自分の居心地が悪くなるようなこと、するなよ」
「……」
ミランダはうつむいた。
せっかく月光と海の香りと、人の腕の中にいるという居心地のよさとで洗われつつあった、さっきの悲しさがよみがえって来た。
「……うん」
「よかった。……あ、ここでいいよ。ルクルスの中には偏屈な奴もいるから」
彼の誘導に従って、三つ目の島の、海岸に植えられた、松の林の陰に降りた。彼が離れると急に寒くなった気がした。浮遊感も失せたためか、体がまた重くなった。空中と海中はよく似てる、といつもながら思う。
「疲れてないか? 今からまたあの道程を戻るんだよな。遠くまで、ありがとう」
ミランダは微笑んで首を振り、辺りを見回した。偏屈なルクルスはもちろん、人影ひとつ見当たらなかった。ただ、向こうの方で、人が起きている気配はしていた。遠くの方で、誰かが集まって、集会でもしているような、そんなざわめきがかすかに聞こえてくる。
彼も気づいていたらしい。そちらを見て、葬式始まっちゃったかな、と言った。
「今戻ったら、みんな驚くだろうな。幽霊扱いされるかも」
「ふふ」
「じゃあ、気をつけて。本当にありがとう。礼もできなくて、悪いね」
あっさりと、彼は言った。ミランダは唐突に、胸が痛むのを感じた。
このまま別れる気なのだ。
それはそうだ。当然だ。魔女は人を助けたことを、恩に着せたりしないものだ。彼にはこれ以上ミランダと関わる必要はない。早く戻ってみんなを安心させたいだろうし、できるだけ早く、アナカルシスに行く準備をしなければならないだろう。
それに、わかっていた。偏屈なルクルスが存在するのは当然のことのように思えた。素養がないからと隔離されて、エスメラルダの国民なのに、その恩恵を十分に受けられずにいる人達は、魔女を見たら一体どう思うだろう。偏屈なルクルスもいる、と彼は言ったが、むしろ、彼の方が例外なのではないかという気がする。
だからそういう人達が、ミランダを排斥したりしないように。
ミランダが、これ以上、『知らなくていいこと』を知らないで済むように。
早く帰してくれようとしているのだろう。そう、わかっている。
でも、言わずにはいられなかった。
「……あのね、私、今日、とても落ち込んでいたの」
「そうなんだ」
「そうなの。私の監督役……というか、お目付役のような人に、ひどいことを言われたの。何よりひどかったのは、それがとてももっともで、真っ当な指摘だった、ってこと。私、いつも、勇気が出なくて……誰かと一緒にいなければ、引っ張ってもらわなければ、行動することができなかった」
「そうなんだ?」
「……でも、今夜、ひとりで、人魚の儀式を邪魔しに行った。それが正しいことだと、信じたから。自分の足で踏み出したの、だから、……だから」
「うん」
「だからお祝いに」ミランダは彼を見上げた。「あなたの名前を教えて」
彼は沈黙した。
ルクルスだからなのか、これ以上ミランダと関わることはないと、思い定めているからなのか、聞かなければ教えてくれないだろうという気がした。このまま別れればそれっきりだ。元老院はルクルスを排除しようとし、ルクルスは普通の人や魔女をあまり好まないという、悲しい現実は歴然と存在している。
でも、それがなんだというのだろう。
元老院の過ちを指摘して、自分の立場を悪くすることはしないと、さっき言ってしまったけれど、でも。
ルクルスと魔女だからって、友達になって悪いわけがない。魔女だって人間だし、ルクルスだって人間だ。それは絶対そのとおりだ。
「私の名前は、ミランダ。ミランダ=レイエル・マヌエル。アナカルシスの鉄道の駅で、仕事について、住む場所が決まったら、……手紙を書いてね。【魔女ビル】のミランダ宛てに出してくれれば届くから。遊びに行くから。アナカルシスの鉄道って、一度乗ってみたかったの、案内、して、くれるでしょう。私、命の恩人なんだからね。忘れないで」
彼はひどく、悲しそうな顔をした。
「魔女なのに……ルクルスなんかに、これ以上関わるなよ」
「迷惑?」
「そうじゃないよ。そうじゃなくて、」
「あたしがルクルスじゃないからって、差別するの? ひどいわ」
彼は微笑った。それは絶望にも似た、苦しそうな、悲しげな笑顔だった。
「……わかった。手紙書くよ」
「本当? 本当ね? 書いてくれなかったら、この島の中に乗り込んで、偏屈なルクルスたちに行方を聞いて回るからね」
「どうなってるんだよ……変な魔女だな」
苦笑が色を変えた。苦しげな陰が消え失せて、しょうがないなというような、面白がるような笑顔になった。
「わかったよ。書くよ。本当に書くから。でもしばらく時間はかかると思うけど」
「わかった」
ミランダはほっとして、メイにまたがった。ふわりと浮かんだ。視線の高さが合った。無言で促すと、彼は、口を開いた。
「名前は――」
彼が告げたその名を、ミランダは大事に胸にしまい込んだ。
ミランダが初めて自分の覚悟で助けた人で、そして。
自分が生きている世界が、決して至上の楽園ではなかったのだという事実を、ミランダに初めて、教えた人の名前だった。