沖島(12)
水から出ると体が重い。
陸に上がるや否や、まず真っ先にミランダは彼を乾かした。この温度では、ただの人間である彼には濡れているだけで命取りだ。続いて自分も乾かして、巾着袋から、防寒具を出した。この季節に海に落ちたというのに、彼は簡素で着古したシャツと綿のズボンだけという格好だった。無理矢理防寒具を押し付けて、自分も同じものを着た。ずっと裸足だったということに気づいて、靴を出して履く。
それでようやく少し、息がつけるようになる。
人魚たちは追ってこないようだった。
まさか逃げることができるとは。ミランダは水面を見つめ、改めて、ため息をついた。うまくいった。――うまくいったのだ! 我ながら、信じられないけれど。
「ありがとう」
彼が言い、ミランダは彼を振り返る。月光に照らされて、彼の姿が肉眼でもよく見える。
背の高い人だった。がっしりした体つきで、いかにも力が強そうだった。水の手助けのないこの場所では、この人が何か重い犯罪を犯して筏に乗せられたのだと、信じてしまいそうになる。
そう、水の助けを借りて『見た』姿と、自分の目で見た姿では、少し違うことが多いのだ。彼の場合は思ったより日焼けしていた。もともとは平均的な肌色なのだろうが、海のそばに住む人らしく、強い日差しが彼の顔や手をこんがりと焼いていた。月明かりでは目や眉を判別するのも難しく、漁人かもしれない、と思った。漁人はエスメラルダ近辺の豊富な海産物を漁って生計を立てる人達の総称である。みんな海上の強い日差しを毎日毎日浴び続けて、こんがりと肌が焼けている。まさに、この人のように。
でも、まだ若いのに、と疑問に思った。フェルドと同じくらいではないだろうか。まだ一般学生の身分でもおかしくないのに、もう随分長いこと漁人として働いているかのような日焼け具合だ。
「ほんとに、ありがとう」
ミランダをのぞき込んで、もう一度彼は言った。ミランダは首を振った。
「風邪を引かせるわけにいかないもの」
「……」彼は呆気に取られたようだった。「……違うだろ」
「なにが」
「そうじゃないだろ。助けてもらったことに対して、言ってるんだ。手と首と、大丈夫だったか? 悪かった、人魚だと思ったもんだから」
ミランダはまじまじと彼を見上げた。何を言っているのか良く分からなかった。でも、ややして、思い出した。水の牢獄の中にいた彼に、手を伸ばした時に、いきなり手をねじり上げられたことを。
思い出して、ミランダは呻いた。
「【水の世界】の真っ只中で人魚にあんなことしたら、水に殺されるわ」
ミランダの危機にさえ、水は敏感に反応した。ミランダがとっさに押さえなかったら、彼はあそこで殺されていただろう。
彼はうなずいた。
「やっぱり。そうしようと思ったんだ。それしかないと思った」
「……なんで」
「生きながら引き裂かれるよりは、溺れ死ぬ方がマシだと思ったんだ」
冗談を言っているわけではないらしい。
ミランダはしばらく考えていた。
少しずつ、頭に血が上っていった。
信じられない、と思った。許せない。冗談じゃない。そんなの、ない。
「……何それ。溺れ死のうと思ったの? あそこで? 儀式で殺されちゃう前に? ちゃんとしたレイエルが、助けに来たかもしれないのに!?」
言ううちに怒りが全身を支配していた。衝動を抑えるのに力を込め過ぎて、わなわなと体が震えた。
死ぬつもりだった。レイエルを待たずに。勝手に諦めて。
この人は、魔女を信じていないのだろうか。
やっぱり、自分は〈アスタ〉と元老院に見捨てられても仕方のない人間だって、思っているのだろうか。
「私が――私たちが助けたいと思っているのに、助けに、行ったのに、それを、それを、待っててくれないなら、私たちはどうすればいいの!?」
「……悪かった」
彼は頭を下げた。
「信じてなかったんだよ。俺は『呪われ者』だから。魔女がルクルスのためなんかに派遣されるなんて、本当にそんなことがあるなんて、思わなかったんだ。仲間内じゃ、人魚に捕まったらもう諦めろって、言われてたし」
「『呪われ……』」
一瞬意味が分からなかった。それほどに、思いがけない言葉だった。
ルクルス。素養のない者、という意味だ。何千人かにひとり、生まれるという、魔力を行使する素養を全く持たない人間のことだ。体の中に生命を維持するために流れている魔力がごく少ないか、あっても表に出すことができない人間も含まれる。一般の人の使う魔法道具さえ使うことができない。誰かに点けてもらわなければ、明かりを灯すことさえできない。
ミランダは今までひとりも見たことがなかった。
だからあまりそのことについて考えたこともなかった。
けれど。
「普通の人……なのね」
思わずつぶやいた。外見も、魔女として存在から感じる波のようなものも。それにそう、さっき水の助けを借りて感じ取った彼の人となりも、すべてが、エスメラルダに普通に住んでいる、普通の人と変わらなかった。
彼が微笑った。嬉しそうに。
「魔女からそう言われると自信がつくな。……ふうん、見ただけでわかったりはしないんだ、魔女でも」
ミランダは首を振った。まだ信じられなかった。
そんな蔑称で呼ばれていい存在だなんて、どうしても思えなかった。
【水の世界】にいたのはそれほど長い間ではなかったようだ。双つの月はまだ天頂近くにある。忠実な箒はミランダの隣に寄り添っている。その柄を握り締めて、ミランダは言った。
「ルクルスだから……見捨てられても仕方ないって、思ったの?」
「というか」彼は困ったように笑った。「助けがくるはずがないって、思ってたんだ」
「どうして……」
魔力の素養がないという、ただそれだけの理由で?
人を殺したわけでも、傷つけたわけでもない。何かを盗んだり、誰かを騙したり、して、捕まったわけでもない。
それなのに――そんなことを理由にして、〈アスタ〉は、元老院は、彼を見捨てようとしたのだろうか。
「ルクルス仲間はみんな口を揃えて、人魚に捕まったらそれで終わりだって言ってたからね。人魚への贄はどうしても必要なものだ。儀式がもう始まってるってのに、人魚に角を立てて、貴重なレイエルを危険にさらす、そのふたつのリスクを冒すくらいなら、ルクルスなんかを助けたりしないって」
「ルクルス、仲間……?」
「そう。俺みたいなのは、別に希有な存在ってわけじゃないんだ。百人にひとりくらいは生まれる――それも知らなかった?」
頷くと、彼は、やっぱり、と言った。
「生まれてすぐの検査でほとんどが隔離されるから。俺だって魔女をこんなに間近で見たの、初めてだ」
「隔離、されるの?」
「されたの。正常な人間に悪影響を与えないようにって、」
彼は唐突に言葉を切って、苦笑して、すっかり乾いている自分の頭をかき回した。
「……でも誤解だったよ。人魚に捕まったルクルスのことも、魔女はちゃんと助けてくれるんだ。ありがとう。仲間に話したら喜ぶだろうな」
「私……」
「ここってどこかな。俺、南の大島の近くの島にいたんだけど」
「私、」
ミランダはしゃがみこんだ。頭が混乱して、うまく考えられなかった。
ルクルス。
呪われ者。
レイエルのペアは来ない。アスタの説得に従って、ミランダは一度は諦めた。もし夜中に目が覚めなかったら。イェイラに叱責されてなかったら、真冬の真夜中に窓を開けてみたりしなかったはずだ。人魚の歌声がまだ続いているのに気がつかなかったら――
――この人は死んでた。見捨てられて。
普通の人なのに。ただ、魔力の素養がないと、その理由だけで。
彼は困ったように身をかがめてきた。
「……大丈夫か? 悪い、つい口が軽くなっちゃって」
「私、出来損ないなの。どんな人とも、上手く相棒関係を築くことができないの。今日も」
しゃがみこんで、顔を両手で覆った。言っちゃいけないと思うのに、言葉が止まらない。
「……行くはずじゃなかったの。〈アスタ〉が、ちゃんとしたレイエルのペアが捜しに行くからって……でも、真夜中近いのにまだ歌声が聞こえて、だから、」
「……」
「……ごめんなさい。ごめんなさい。ちゃんとした魔女が助けたわけじゃないの。私が勝手に……」
「じゃあ余計に、じゃないか」
ミランダの目の前にしゃがみこんで、優しい声で彼は言った。ミランダの伏せた頭に触れたりはしなかった。のばしかけた手を引っ込めたのがわかった。ミランダはしゃくり上げた。触ってくれればいいのにと、恨めしいような気持ちを抱いた。
「感謝するよ。ありがとう。自分の担当じゃないのに、来てくれるなんてさ」
「……っ、」
「……知らなくていいことまで知っちゃったんだ。魔女にとっては辛いこと、なんだろうな」
可哀想にと、思っているのがわかった。人魚が、言ったように。そなたはまだ幼い。大人の事情というものじゃ。見たことのない顔じゃの。初仕事というところか。気の毒じゃのう……。労るように、幼子をあやすように、そう言った。
ちゃんとしたレイエルたちは、みんなこのことを知っているのだろうか。
どうして、平気で仕事を続けていられるのだろう。