沖島(11)
目を閉じて、しばらく呼吸を整えた。大きく水を吸って、ゆっくりと水を吐く。肺の中は清浄な水で満ち、身体に異常は感じられない。それどころか、陸の上にいるときよりも遙かに居心地が良かった。
もう少しで【水の世界】に入る。
入ったらもう、人魚の魔力の中に入ったも同然だ。ミランダは目を閉じて、意識を集中した。近くにレイエルのペアがいるはずだと、信じて疑わなかった。真夜中までもう少し。人魚の儀式のクライマックスも、あともう少しだ。いくら人手不足だとは言え、今の今まで誰も救出に来ていないなんて考えられない。
――なのに。
周囲を見回しても、水たちに頼んであたりを探ってもらっても、それらしき存在はどこにもなかった。
人魚の儀式も途絶える様子がない。歌は一糸乱れぬ様子で紡がれ続け、着実に高まり続けている。
ミランダは少し待った。さっきの激昂も激情も、今は少し落ち着いて、がむしゃらに突き進みたいという衝動も治まっていた。
月の光に照らされて、海の中はとても美しかった。【水の世界】がここまでやって来ているのは、人魚の儀式には月光が必要だからなのだろう。吹雪が止んで月光が射したのもそのせいかもしれない。月の光と、それから水の助けを借りて、ミランダは【水の世界】を探った。意外に小さい。差し渡し、十数メートルと言うところだろうか。
祭壇のようなものが中心にある。よじれ合った木の枝で作られた球体がその上に鎮座しているようだ。恐らく、あの中に、捕らえられた人間がいるのだろう。人魚たちは少し離れた場所で舞い踊っている。ミランダは少し違和感を覚えた。人魚たちが警戒している様子が、全くないのだ。
人魚の歌声は佳境に入っていた。美しい言葉と旋律が命の貴さを歌い上げていた。人魚たちは儀式に没頭し、歌を紡ぐことに全ての神経を注いでいるように見える。どうしてだろう。どうして、人魚たちは、周囲を警戒していないのだろう。人間を捕らえたら、魔女が助けに来る。その摂理を、知っているはずなのに。
そして、救出に来ているはずのレイエルも、どこにもいない。
――どうして。
ミランダはじりじりした。人魚たちの歌はもはや堂々たるフィナーレに入っていた。中央で一団となって謳っている人魚たちがいて、その周囲を乱れ舞う者たちもいて。音の流れは渦巻き、もつれ、からみ、複雑に組み合わさり、人魚たちの円舞の放つ光と一体となり、ひとつの豪奢な芸術作品を完成させようとしている。もはや一刻の猶予もない。
歌声で縒り上げるあの精緻な作品が完成したとき、ひとりの人間の命が喪われる。
――私の、目の前で。
叱られたってかまうものか。出し抜くことがなんだというのだ。この期に及んでどこかで足止めを食ってグズグズしている方が、悪いのだ。
ミランダはついに、【水の世界】に飛び込んだ。
とにかく時間との勝負だ。【水の世界】の水たちはミランダを歓迎し、海水以上に易々と目的地までミランダを運んだ。水たちはミランダを人魚だと勘違いしている。ありがたい。
絡み合った木の檻に辿り着く。檻の柵は荒く、捕らえられている人間が隙間を通るのは簡単なはずだが、逃がすなと命を受けた水たちが、その隙間をぴったりと塞いでいるのだ。ミランダは柵の隙間から中を覗き込んだ。若い男の人が座り込んでいる。俯いて身じろぎもしない。顔は見えないが、どうやらとても若い。ミランダより少し年上と言った程度に過ぎないようだ。
水の伝えてくる情報に、ミランダは少なからず驚いた。
――嘘。
手を伸ばしながら考えた。
――嘘みたい。居眠り、してる。
普通捕らえられた男の人は恐慌状態にあるか、怯えきって縮こまっているか、逃げようと努力するか、大声でわめくか、暴れるか泣くかといった行動をとると言われる。それがどうだろう。この人ときたら柵に寄りかかってぐっすり眠っているようだ。気持ち良さそうとさえ言えるようなその態度は、もちろん暴れられるよりはありがたいが、状況が分かっているのだろうか。
「あの――」
思わず囁きかけた時、彼が動いた。え、と思う間もなくミランダの手をねじり上げて、彼はミランダを羽交い締めにした。首にがっしりした腕が巻き付いた。ぐっ、と首が鳴って息がつまり、目の前が真っ白になった。周囲の水がいっせいに彼に襲いかかろうとし、ミランダは喘いだ。
「待っ……て」
「あれ」
低い声が耳元で聞こえた。
「失敗か。結構冷静なもんだ」
ミランダはなんとか水を抑えた。彼の腕は既に緩んでおり、ミランダが咳き込む間、その背を軽く叩きさえした。
「悪いね。痛い目に遭わせる気はなかったんだ」
じゃあどうするつもりだったんだ。混乱しながら考えた。
でも、事態を整理している間も、問いただしている暇もなかった。
人魚たちが騒ぎに気づいていた。儀式はまだ続いているが、何人か、こちらへ泳いで来ている。ミランダは呼吸を整え、彼の手首をつかんだ。メイの柄を掴ませて、
「逃がしてもいいですか」
一応聞いた。これは義務だ。もし彼が人魚の儀式で生きながら引き裂かれたいなら、それを邪魔する権利はミランダにはないからだ。
彼は「嘘だろ」、と言った。
「……魔女か?」
「いいの!?」
「頼む」
答えは簡潔だった。ミランダは今さら、人の目では今何も見えないのだということを悟った。今の今まで、彼はミランダを人魚だと思っていたのだ。メイが勢いよく水の中を滑り出した。先程までと違って、水はミランダに協力していいのかどうか、決めあぐねているようだった。ミランダは居丈高に水に命じて、辛うじて前進を阻むのだけはやめさせた。余裕がない。人魚が追いつく前に【水の世界】から出なければならないし、出たら出たで人間の呼吸が続くうちに陸へ上がらなければならない。
それでも、それは無理だった。ふたりを乗せて滑る箒が、人魚の泳ぎにかなうわけがなかった。【水の世界】から出る寸前、ミランダの目の前に人魚が回り込んだ。方向を変えて逃げようにも、既にそちらにも回り込まれている。追ってきた人魚は三人だが、もはや、逃げおおせるとも思えない。
「やれやれ……二本足かえ」
ひとりの人魚が言った。
「よもや気づかれるとは思わなんだ」
「カルロスは何をしておるのかのう」
「知らせれば吾子を傷つけるだけじゃというに」
「二本足」
人魚はなだめるように言った。
「その男はもはやわしらのものじゃ。そなたには酷なこととわかっておるがの、聞き分けた方がそなたのためじゃ」
人魚はどうやら、ミランダを『足のある人魚』だと認めてくれるようだった。言葉は思いやりに満ち、聞き分けのない幼子をあやすような響きをもっていた。ミランダはそっと、三人の人魚を見回した。余りに美しく気高い美貌が三つ。正面の人魚がミランダをあやすように、愛おしむように、微笑んでくる。
「気の毒な話じゃがの……」
人魚たちは口々にミランダに言った。
「そなた、【アスタ】の指示でここへ来たわけではないじゃろう」
「世の中には取引というものが存在する。大人の事情というものじゃ。わしらには男が必要じゃし、生き物には清浄な水が必要じゃろう。その男が何をしたかは知らぬが――」
人魚は明言はしなかった。けれどミランダが事実を悟るには十分なところまで話した。ミランダは顔から血の気が引くのを感じた。そんな。そんなのって。まさか。
――男の罪人は筏に乗せられて大海原へ追放される。
――処刑する手間もいらなかった。
――血なまぐさい話だが、時の権力者たちは誰しも、人魚の、脅迫という名の要請を受けていたはずだ。
以前習った。同級生の男の子たちがひそひそと、そんな末路だけはごめんだと囁きかわした声まで覚えていた。
「そなたはまだ幼い」
「見たことのない顔じゃの。初仕事というところか」
「気の毒じゃのう……」
人魚の囁きから身を振りほどくようにして、ミランダは彼を振り返った。水の助けを借りて、その表情や外見をつくづくと見た。整った容貌の持ち主だった。まだ若い。髪は短く切り揃えられていて、鼻筋が真っすぐ通っていて、目は細くて切れ長で、薄い唇は一文字に引き結ばれている。近寄り難いほどに厳しい顔立ちだと思うのに、目尻や口元の辺りに人の良さが漂っているように思う。
もしここが陸の上だったなら、ミランダも確信が持てなかったに違いない。
でもここは水の中だった。水が彼の人となりを悟る手助けをしてくれていた。
この人が処刑されなければならない理由なんかどこにもない。
そのはずだ。
ミランダは囁いた。
「……あの」
「何も聞こえておらぬ。目も見えておらぬ」
背後で人魚が言った。
「わしらの言葉を聞いたはそなただけじゃ」
「誰も責めたりせぬ。その男をそこへおいて立ち去ればよい。救う価値のない男じゃ、どうせ陸へ戻っても、もはやカルロスの庇護を受けられぬ身じゃろう。救っても誰も褒めてはくれぬ」
「久々の上玉じゃ。聞き分けてはくれぬかえ。そやつは下等な人の身とは言え、なかなか良い男での、泣いたりわめいたりといった見苦しき醜態をさらさぬ。恐怖はあるようじゃが怯えてもおらぬ。見栄えも悪くない。わしらの糧となる誉れを受けるにふさわしい。ここで死ぬのじゃからそなたを恨んで害をなすこともできまい。さ、出て来やれ」
――〈アスタ〉!
泣きたい気持ちで考えた。
――『レイエルのペアを向かわせる』と言ったのに!
今の今まで、疑いもしていなかった。来ていないのは不思議だと思ったが、どこかで、何らかの事情で、足止めを喰らっているのだと信じて疑わなかった。
でも違ったのだ。
初めから、来ていなかったのだ。
マリアラが通報するまで、〈アスタ〉は彼が落ちたことに『気づいていなかった』。発信器を持っていなかったのだろうと〈アスタ〉は言った。恐らくはそれも嘘だった。〈アスタ〉は、元老院は、この人を犠牲にすることに決めたのだ。マリアラの通報も、ミランダの通報も、黙殺した。
仕方がないことなのかも知れない。〈アスタ〉は、エスメラルダ全体のことを考えなければならない、この人ひとりを犠牲にして、それで今までどおり清浄な水が手に入り続けるなら、その決断だってするだろう。否それを決めるのは元老院だ。元老院がこの人を見限ると決めたなら、〈アスタ〉にはそれに逆らってまでレイエルのペアを派遣する権限はないのだ。いくら高性能でも、いくら〈アスタ〉でも、ただの魔法道具に過ぎないのだから。
――でも、私は違う。
頭のどこかで、ミランダは思った。
――私は魔女だ。
何が出来るかはわからない。ここで言い張り、あくまで人魚に立ち向かうとして、それでどうなるというのだろう。人魚には、ミランダを排除することなど簡単なはずだ。ここで立ち向かったって、事態は変わらないだろう。何もできないだろう。彼を助けることなど、不可能なのだろう。
それでも、立ち向かうことは、必要だ。
――いつまでもわたしがそんな理不尽を許したままでいると思わないで。
少し前に聞いた優しい声を思い出す。そうだ、と、思った。理不尽は許したくない。何もできないにしても。ここで死ぬことになっても。
自分をこれ以上嫌いになるよりは、よっぽどマシだ。
――頼む、と彼は言ったのだ。
ミランダは静かに呻いた。
「……私は目の前で助けを求めている人を見殺しになんかできない」
「やれやれ、幼くとも二本足じゃのう」
ため息混じりに人魚が言う。ミランダは呼吸を整えた。何かできることを探さなければ。初めから諦めてしまっては立ち向かうことにはならない。
何かないだろうか。何か。水を使わずに。めくらましのような。人魚を驚かせて、その隙をついて逃げられるような何か。何か。何か、
――これ、ラスが。
優しい声が囁き、ミランダはとっさに、さっきマリアラからもらったばかりの笛をつかみ出した。うまくいくと思ったわけじゃない。ただこれしか思い浮かばなかっただけだ。
魔力の結晶を使って作られた笛は水の中で、陸にいたときよりも繊細に震える音を紡いだ。
唐突に、清浄な【水の世界】を満たす水の塊が身体の周囲にあふれ出たように感じた。人魚が狼狽の声を上げる。
「あれ、どこへ行った」
人魚は視界に頼る生き物だ。人間と同じに。
聴覚に働きかけて錯覚を起こさせるその笛は、人間にも人魚にも良く効いた。
メイはその期を逃さなかった。ふたりを乗せたまま勢いよく飛び出した。人魚は彼らの勢いによって生まれた波に押しやられた。
儀式は向こうでまだ続いていた。人魚が警戒していなかったのは当然なのだとミランダは思った。
〈アスタ〉がレイエルを寄越すはずがないと、彼女たちは良く知っていたのだ。
ミランダは笛を吹き続けた。【水の世界】から飛び出して海水の中を突き進む間も、肺を満たす水を使って、感情を解き放つように吹き続けた。この気持ちは一体なんだろうと、ミランダは考えていた。怒りだろうか。悲しみだろうか。恐れだろうか。
絶望だろうか。