沖島(10)
唐突に、目が覚めた。
ひどく壮絶な夢を見ていた。心臓がドキドキと脈打っている。いったいここはどこだったか、把握するのにしばらく時間がかかった。
今、何時?
声に出さずに訊ねると、首元で、ミランダの箒、メイが、情報を送ってきた。真夜中まで、あと少し。
ミランダは目を閉じ、もう一度目を開いた。体がこわばっている。少しだけ、自分の今置かれている状況が蘇ってきた。心配してくれたマリアラを振り切るように、宛がわれた客間に逃げ込んだ。寝台の上に寝転がって煩悶しているうちに、考え疲れて、眠ってしまったに違いない。
眠る前のことを思い出すと同時に、イェイラの、冷たい声もまざまざと甦ってくる。
寄生――と、イェイラは言った。
その言葉がこんなにショックなのは、それが真実の一端をついているからだ。
いい加減にひとりで立て。それも、ミランダがずっと、うすうす、自分で思っていたことだった。
少し前までは、ジェシカに。ジェシカと決裂してからは、マリアラに。渡り歩くようにして。あるいは、乗る船を変えるようにして。
ジェシカと一緒にいた日々は、楽しいとは言い難かった。ジェシカの価値観はミランダと合わず、全く思いがけないことで怒り出したりするので、気が休まらなかった。何より、魔力の弱い子たちを見下す態度と、自分たちが優位に立つために色々と画策したりするのが、嫌で嫌で堪らなかった。
なのにどうしてジェシカの傍にいたのか、拒絶することができなかったのか。
それは、ひとりになりたくなかったからだ。
居場所が欲しかった。ここにいてもいいのだと許される居場所。それがどんなに居心地が悪くとげとげした場所だとしても、ないよりずっとマシだと思っていた。ジェシカの行為がどんどんエスカレートしていき、製薬所を“支配”していくのを見ていたのに――それどころか自分がそれに荷担する形になっているのを知っていたのに、怖くて、恐れて、見過ごしてきた。
マリアラが来たとき、ここにあったと思ったのだ。
誰かを下にすることで自分の優位を周囲に喧伝するような、ギスギスした日常ではなくて。
ただ一緒に仕事をして、人の悪口ではなく、お菓子や美味しいお店の食べ物や、そんな他愛のない話をして笑い合えるような――そんな居場所が、ここにあったのだと。やっと見つけたのだと。
思ったのに。
いい加減にひとりで立て。
ミランダはわななく息を吸った。溢れた涙が目尻から零れ、こめかみを通っていった。濡れた場所がすうすうする。
イェイラの怒りはもっともなことだ。ミランダは、居場所を探すことさえしていなかった。ただ口を開けて、誰かからもたらされるのを待っていた。そこへマリアラが通りかかったから、大喜びで飛びついた。マリアラの作っている穏やかな居場所に、入れてもらうことしか考えていなかった。
本当だ。イェイラは正しい。ミランダはただ、寄生しているだけだ。
穏やかな場所が欲しければ、自分で作らなければならなかった。
ジェシカを諫め、怒らせてでも、対立してでも、立ち向かわなければならなかったのに。――あの時、マリアラが、やったように。
手のひらの中に、丸く小さな感触がある。握りしめたまま、眠っていたらしい。もはやミランダの体温と同じ温度にまで温まっているが、もらったときは、水滴のように冷たかった。
ラセミスタがくれたという、笛だ。
ラセミスタのときも、ミランダは逃げた。口を開けて待っていても、ラセミスタがミランダに、穏やかな場所をくれようとしなかったからだ。
もし去年の冬、ミランダがマリアラのように、ラセミスタに働きかけていたら。
ラセミスタは、この笛をミランダにくれていたはずだ。マリアラを介するのではなく、自分の、手で。
「ああ……」
掠れた声が出た。何て情けないのだろう。マリアラが全てを変えていく。ラセミスタの笛さえ、彼女からもたらされた。ココアをくれて、心配してくれて、沖島への同行も、嫌がらずに受け入れてくれて。
でも、今のミランダに、マリアラの横に座る権利はない。彼女の優しさを利用して寄りかかるのではなくて、自分の足で、立てるようになるまでは。
どうすればいいのか、わからないけれど。
笛を目の前に翳し、まじまじと見た。丸みを帯びたフォルムが可愛らしかった。いかにも吹きたくなるような佇まいだ。
唇にあてて、吹いてみた。
涼やかな音が響いた瞬間、ミランダは、全身が優しい水で覆われたような気がした。
びっくりして笛を唇から離し、まじまじと見る。左右を見回しても先ほどと変わらない、研究所の客間だった。
なんだろう、今の。
今度は目を閉じて、もう一度、笛に息を吹き込む。
涼やかな音が響いたと同時に、瞼の裏に、鮮やかな青い世界が広がった。良く晴れた日に、水の深いところに潜って、中から明るい外側を見つめているときの風景とよく似ている。水面はゆらゆらとゆらめき、それにつれてちらちらと光が踊った。むき出しになった頬や手を、水が優しくなでているのまで感じられる。
──……【水の世界】だ。
涙がにじんだ。イェイラとスーザンに何度かつれて行ってもらったあの場所に、今、ひとりでいる。錯覚だとわかっているけれど、その感覚が余りに鮮烈で。
ささくれ立って、頑なになっていた心が、水に揺らされて緩んでいく。落ち着いて、色々と考えられるようになっていく。
【水の世界】はいつでも清浄な水で満ちていて、ここにいていいのだと、心の底から信じさせてもらえるような安らぎを感じる。あそこに行ってからずっと、いつでも、頭の片隅でそこのことを考えている。いつでも戻りたいと考えている。そんな場所だった。息が尽き、急いでもう一度吹いた。青く清浄な世界がふたたび広がり、ミランダはそこで、優しい声を聞いた。
――今は勤務時間中なのに。
――ダニエルだったら、そんなことはしない。
マリアラはあの時怒っていた――イェイラに対して。確かに、言われてみれば、イェイラの振る舞いは思いやりがあるとはいえない。確かに、帰ってからでも良かったはずだ。イェイラが連絡してきたのはミランダが治療をとっくに終えたときで、イェイラも、もはやミランダが忙しくないことをわかっていてあの時間にかけてきたのだろうが――それにしてもダニエルならば出張中に苦言を呈するようなことはすまい。帰ってからにするだろう、言われてみれば確かにそうだ。
イェイラの行いが、“正しくない”ということもある。
そして、それは、当たり前のことだ。
再び息が尽き、【水の世界】の感覚が消えた。瞼の裏の青い世界もかき消えた。ミランダは目を開け、起き上がった。
窓辺に歩み寄る。窓の外は、昼間のように明るかった。二色の明かりが満ちている。今夜は双満月。二色の月は、一番勢力を増している時期だ。青の光と銀の光に照らし出された屋外は、ため息がでるほど美しかった。こんもり積もった雪は二色の光を浴びてキラキラ光っている。ふんわりもこもこしていて、触り心地が良さそうだ。
そっと窓を開く。冷気が流れ込んできて、刺すような寒さに驚く。窓から月見をするにもコートが必要だ、と思った時、ミランダは息を呑んだ。
人魚の歌が、まだ聞こえている。
歌は昼に聞いた時よりも厚みを帯び、色彩を濃くしていた。最高潮に向けて今正に盛り上がっている、そう思った時には既に、ミランダは窓枠を乗り越えて外に出ていた。一度戻って〈アスタ〉に事情を聞くべきだと、頭の中の冷静な自分が叫んでいる。でもそうすることはできなかった。“ひとりで立て”そう言ったイェイラの冷たい声が、冷静な自分の声を圧するように響いていた。私はあなたのレイエルとしての素質にはなんの問題もないと思っている――身勝手で、自分のことしか考えられない未熟さが――医療者には相応しくない。
確かにそうだった。ミランダは身勝手で愚かで未熟で、誰かに寄生することでしか自分の居場所を作り上げることができなかった。
でもこれからは、そうでありたくなかった。
自分の居場所を勝ち取りたいならば、行動する必要がある。これからレイエルとして、また医局の正式な医療者として、仕事をこなしていくために。真夜中まではあとほんの一時間ほどしかないのに、人魚の歌はクライマックスに向けて盛り上がっていっているのに、吹雪が止んだのに、〈アスタ〉は、真夜中までには救出されるはずだと言ったのに。それなのにまだ遭難者が捕らえられたままだという非常事態に、何も関われないのだとしたら、それこそ、レイエルとして生まれた意味がない。
人魚の手の中に堕ちた人間を助けられる存在がいるとしたら、レイエルだけだ。
〈アスタ〉に叱られたって構うまい。ザールとイェイラに更に呆れられ叱責されたとしたって、それがなんだというのだ。出動しているはずのレイエルは、ミランダが来たらきっと怒るだろうし余計なお世話だと言うだろうが、それでも、もし何か手伝えることがあるならば、ミランダの手を借りることまで拒んだりはするまい。
ルールなど構っていられなかった。
人を助けるという目的の前では、〈アスタ〉や元老院が定めたルールになど、なんの意味もない。
寒さはちっとも感じなかった。ミランダは自分の箒、メイを元の大きさに戻し、跨がった。歌の方に柄を向けると、すぐに、キラキラ輝く水面が見えて来る。
――マリアラならばどう言うだろう。
海に飛び込むとき、ミランダは思った。
――ミランダの行動を知ったなら……マリアラはどう言うだろう。怒るだろうか。それとも、この気持ちを、……理解してくれるだろうか。
*
【水の魔女】の箒は特別仕様だ。空を飛ぶよりやすやすと、水の中を移動する。
また、レイエル自身も特別仕様だった。空気と同じように、水の中で呼吸することができる。
ミランダは肺の中の空気を全部吐き出し、呼吸を水中用に切り替えた。体の中が水で満たされる瞬間はちょっと息苦しいが、すぐに慣れる。
海の中で、人魚の歌は、よりいっそうひときわ高らかに響いていた。救出に来ているはずのレイエルは、どのあたりにいるのだろう。右巻きと左巻きはどのように連携を取りながら救出に向かうものなのだろう。相棒のいないミランダは、その辺りのノウハウについては教えられていないままだった。人魚のただ中に素直に飛び込んだって実があるとは思えないし、
――もしイェイラだったら?
それに思い至ってしまい、ミランダは思わず箒を止めた。
他のレイエルのペアだったなら、こっぴどく怒られるにしても耐えられる。しかし、もしイェイラが来ていたら。
イェイラは激昂するに違いない。一生赦してもらえるとは思えない。何より、あんな風に怒られた後で、更に怒られる材料を作るなんて、耐えがたい。
イェイラとスーザンは救出シフトが終わったばかりだ。だから出動しているはずがない。それは、わかっていたけれど、人手不足が深刻ならば、万一と言うこともありうる。
「……どうしても必要な時以外、見つからないようにしよう」
そう呟いて、ミランダは落ち込んだ。この期に及んで、まだ保身を考えるのか。情けないにもほどがある。