沖島(9)
*
ミランダが戻ってこない。
談話室の時計を五度目に見上げたマリアラは、ミランダが出て行ってから十五分が過ぎたのを知って思わず腰を浮かせた。
いくらなんでも、長すぎないだろうか。
ミランダの戻ってこない談話室にはどことなく翳りが落ちて、みんなしょんぼりしているように見える。イェイラはミランダに、いったいどんな用があったのだろう。いくら何でも、そろそろ終わっていてもいいはずだ。様子を見に行った方がいいのではないだろうか。いや、でも、まだ話が終わっているとは限らないし――でも、何か突発的な事態が起こったのでは――いや、そうならこの部屋にも〈アスタ〉の通信設備があるのだから、〈アスタ〉がそう教えてくれるはずだ。
そわそわしていると、ギダールがマリアラを見ているのに気づいた。
目が合うと、ギダールは微笑んだ。この大きな研究所の所長は、目元に皺のある優しいおじさんだ。彼はゆっくりとこちらにやって来ると、小さな声で囁いた。
「ちょっと様子を見てきてやってくれないか」
見透かされていたようだ。
「――はい。でも、邪魔じゃ……ないでしょうか」
「そんなことはないと思うよ」ギダールの声もとても優しかった。「温かいココアか何か、持っていってあげてくれ。誰かから怒られたときには、甘い物が要る」
「怒られたんでしょうか」
「まあ、そうだろうね」
ギダールは事情をよく知っているようだった。彼は痛ましそうな顔をして、首を振った。
「ミランダにはもっと広い世界が必要なんだ。ガラスの箱に入れて閉じ込めるのではなくてね」
両手にひとつずつココアを持って廊下に出ると、静けさが滲みる。
マリアラは左右を見た。沖島研究所の配置はまだ把握していない。と、首元でミフが言った。
『通信室は左だよ。次の角を更に左』
「ありがと」
返事をすると静まり返った廊下に響いて、マリアラは身を縮めた。ザールはどこにいるのだろう、ミフの指示に従って歩き始めながら思った。“怒られたときは甘い物が要る”とギダールは言った。ミランダがイェイラからこんなに長い間叱られているのだとすれば――と考えて、マリアラは足を止めた。
ギダールは確かに、“怒られる”という言い方をした。
“叱られる”ではなく。
『マリアラー? ココア冷めちゃうよー?』
ミフに不思議そうに訊ねられ、マリアラは再び歩き出した。一体イェイラはなんの用事だったのだろう、と考えた。
通信室の扉を見つけ、ノックをする。通信室は完全防音になっているはずだから、このノックはミランダを呼ぶためではなく、〈アスタ〉への合図だ。〈アスタ〉は無言だったが、しばらくして、ノブが動いた。マリアラが来たことを伝えてくれたのだろう。そっと扉が開いて、ミランダが出て来る。
マリアラは思わず息を呑んだ。髪が幾筋か貼り付いた頬と目元が赤い。泣いていたのだろうか。
「あの、戻ってこないから、心配で……話、終わった?」
「うん」
ミランダは掠れた声で言った。ミランダはマリアラよりほんの少しだけ背が低く、うつむけたその表情は、前髪に隠れて見えなかった。覗き込むことも出来ず、マリアラはココアを差し出した。
「良かったら飲まない?」
「……ありがとう」
その声は相変わらず掠れている。いったいどうしたのだろう。何があったのだろう。イェイラは本当に、“怒る”ために、連絡してきたのだろうか。
ふたりは、廊下の途中に作られている休憩スペースに行ってソファに座った。ミランダは黙りこくったままだったが、ココアをひとくち飲んで、ほうっと息を吐いた。マリアラは、考えた。イェイラの用事がなんだったにせよ、急いで【魔女ビル】に戻らなければならないというような用件だったわけではないらしい。
「【魔女ビル】に戻らなくて、大丈夫?」
念のために訊ねると、ミランダは驚いたように顔を上げた。「え?」
やはりその目元が赤い。マリアラはふつふつと腹の底で何かが煮え始めたのを感じる。真面目で頑固で融通が利かないと、色んな人から言われた自分の“欠点”が、またぞろ自己主張を始めたのを感じる。
“怒られる”とギダールは言った。――“叱られる”ではなく。
気をつけなければダメだと、自分に言い聞かせながらも、言わずにはいられなかった。
「今は勤務時間中なのに、」
出てきた声は我ながら険を含んでいて、ミランダがびくりとした。その濡れた黒い瞳が不安そうに動いた。「え……」
「イェイラの用件がなんだったのかはわたしにはわからないけれど……よっぽど緊急の、重大な、用事だったのかと思ったの。【魔女ビル】でミランダが作った薬に何か間違いがあって、対処のために薬を作ったときの状況を聞くとか、そういう、火急で、どうしてもミランダに連絡を取らなきゃいけないことだったんだろうって。だって、休憩してたのは確かだけど、今はミランダは待機でしょう。急患とか怪我人とかが出たら、治療をしなければならないのに。ダニエルだったら、よっぽどの事情がない限り呼び出したりしないだろうから。だから」
ましてや“怒る”ためだけに。――“怒る”のは、帰ってからでもいいはずではないか!
ミランダはまじまじとマリアラを見ていた。多分呆れているのだろうとマリアラは思う。頑固で真面目で、融通が利かない。今までずっと、何度も何度も、色んな人に言われてきたことだ。イェイラはもちろん左巻きの仕事には詳しいのだから、離島の研究所に滞在するときに、いつ頃なら勤務の邪魔にならないかをよく知っていたに違いない。だからそんなことを気にするのは融通が利かなさすぎるのだろうとわかっているが――それでも、と、思わずにはいられない。出張先にいるときにわざわざ呼び出して、目をこんなに赤く腫らすほど怒るのは、理不尽だとしか思えない。
ダニエルだったら、こんなことはしない。他の人にだって、絶対にさせないはずだ。
ミランダはしばらく考えていた。ココアを飲んだ。もうひとくち飲んで、それから、彼女は、囁いた。
「……そっか。そう言う考え方もあるのね」
「え?」
「ううん、何でもないの」
ココアを飲み干して、ミランダは微笑んだ。哀しそうな笑顔だった。
「……心配してくれて、ありがとう、マリアラ」
「え、いえいえ、その、」
「大丈夫よ。別に大した用でもなかったし、用件はすぐ済んだの。ただちょっと、疲れちゃって、休んでいただけ」
「そ、そうなの?」
「心配かけてごめんね。昨日、よく眠れなくて……。私ちょっと、休んできてもいい? あ、でも、もし急患が出たら起こしてね。私の仕事なんだから、マリアラが代わりに治療するなんてダメよ」
そう言って、立ち上がった。マリアラも立ち上がった。引き留めたいような気がした。でも、何て言って引き留めたらいいのかがわからなかった。休みたいというのだから、休ませてあげなければ。そう思うのに、まだ何か言うべきことがあるような気がして――
その言葉が、出し抜けに、マリアラの口から零れ出た。
「ラスがね、」
「えっ?」
ミランダが振り返る。マリアラは意を決して、ポケットから、今朝預かったばかりのあのホイッスルを取り出した。
「これをミランダに、……って」
広い世界が必要なのだと、ギダールは言った。ガラスの箱に閉じ込めるのではなく――。
今のマリアラがミランダにあげられるものはこれしかない。新たな世界に通じる鍵になるもの。道連れにしちゃうかも、と、ラセミスタに心の中で謝りながら、それを手のひらに載せて差し出した。
「これ、人の聴覚に働きかけて、【水の世界】にいるような錯覚を起こさせる笛、なんだって」
ミランダが目を丸くした。「何それ?」
「吹いたらわかるって、言ってた。昨日のほら、ドーナツのお礼、だって。あのね、同室だったときに作ったけど、勇気が出なくて、渡せなくて、しまっておいたものなんだって」
ミランダが、おそるおそる、マリアラの手のひらの上からその笛を取った。
水滴でできたようなその魔法道具は、ミランダの細い指先にしっくりと落ち着いた。ミランダの肌はまるで水面のように透き通っているとマリアラは思った。さざ波が立たないのが不思議なくらいだ。笛は指先に吸い付いて、今にも溶け込みそうに見えた。ミランダはしばらくそれを手の中でひねくり返して、それから、ぎゅっと握った。
泣き出しそうな声で、ミランダは言った。
「……嬉しい。ありがとう」
「いえいえ、いえ、どう、いたしまして」
「ひと晩寝たら、元気になるわ。ごめんね、今、だけは、少し放っておいて。夜ご飯は部屋でも取れるから、気にしないで……」
笛を握って、マリアラの視線を振り切るようにミランダは背を向けた。
その細い背中が、こちらを拒絶しているように、見えて。
あの笛を渡したのが悪かったのか、それとも良かったのか、マリアラには判断ができなかった。




