沖島(8)
人気のない通信室は、寒々しかった。
空調は建物中同じ温度のはずだから、多分、これから待ち受ける話の予感のせいだろう。嫌な話に決まっている。そうじゃなかったら、談話室の通信機で話してもいいはずたからだ。ミランダは深呼吸をし、椅子に座った。ぺちんとひとつ頬を叩いてから、通信機の通話ボタンを押す。
スクリーンに現れたのは、水のように――あるいは人魚のように美しい、イェイラの顔。
ああ、本当に、イェイラはとても綺麗な人だ。人魚にだってひけをとらない。顔立ちが整っているのはもちろんのこと、何よりその美しさを引き立てているのは、さざ波が立たないのが不思議なほどに透き通った肌と、輝く夜のような髪だ。勤務明けのはずだが疲れた様子もなく、今日も彼女は美しかった。
その美貌を前にして、ミランダは内心固唾を飲んだ。イェイラはやはり、怒っているようだった。
医局の責任者、ジェイディスは、マリアラとフェルドの研修にミランダの研修を無理矢理“押し込んだ”。ディアナの治療院での研修の翌日に沖島出張、などという、かなりタイトなスケジュールになったのには理由がある。
昨日からイェイラと相棒のスーザンが当番勤務に入っており、遭難者の救出と送還に、今日の午後までかかる見込みだったからなのだ。
今日のことをイェイラは聞いていなかった。帰ってきて事態を把握したのだろう――もちろん、ザールが知らせたに違いない。覚悟していたことだが、やはり、叱られるのは気が重い。
「ごめんなさい、お待たせして――」
『何を考えているの』
案の定、イェイラの口調は初めから叱責だった。彼女の美しい黒々とした瞳が軽蔑するような色を湛えている。睫が長い、とミランダは思った。彼女の美しさには説得力がある。彼女が言うならそうなのだろうと信じてしまいたくなる、何かがある。
いや、イェイラの怒りは理不尽だとわかっている。そもそも既に仮魔女期を終え、きちんとした魔女になったミランダの行動について、もはやイェイラにいちいち口出しをされる筋合いなどないし、ましてやそれに従って行動を変える必要など全くないのだ。ジェイディスもダニエルもそう言って励ましてくれたし、ギダールも事情を全てわかったうえで、今回も沖島に来るようにと言ってくれた。
けれどやはり、水の魔女の見本のようなイェイラに叱責されるのは哀しい。
『あなた自分が何をしているかわかっているの? よりによってラクエルの研修を邪魔するなんて、どういうつもりなの。いくらお友達だからって、甘えるにもほどがあるわ』
イェイラは決して声を荒げると言うことをしない人だ。いつも無風の水面のように静かで落ち着いている。
だからこそ、その叱責は胸に刺さる。ミランダの願望などイェイラにはお見通しだろうから。
そうだ。イェイラに言われなくても、自分に“下心”があることはわかっていた。医局の人手不足を解消する一助となるために、ちゃんとした治療者になりたい。そのために研修をこなさなければならない、という、大義名分があるのをいいことに、マリアラとフェルドのお荷物になることを自分に許した。――マリアラと一緒に、いたかったからだ。
『そもそも研修というのは右巻きと左巻きの比率を合わせて受けなければ意味がないのよ。規則に明示されてないからとジェイディスは言っていたけれど、だからといって――ふたりの左巻きを守らなきゃならないフェルディナントの負担を考えなさい。魔力が強いという理由で余計な負担を架されることの理不尽さを、あなたはよく知っているはずでしょう』
全くもって、仰せのとおりだ。イェイラの言い分は、いつも正しい。
フェルドの負担についても、ミランダはわかっていて目をつぶってきた。彼の【親】であるララ=ラクエル・マヌエルが、問題ないと言ってくれたし、万一何かあったらすぐに出動できるように待機しておくと言ってくれた。そんな事実を、大義名分にして。
『私はあなたのレイエルとしての素質には何の問題もないと思っているわ』
イェイラの声は更に冷たく、氷のように透き通っていく。ミランダは椅子に座ったまま、ただ、イェイラの美しい唇が刃のような言葉を紡ぐのを見ていた。
『だから私があなたの医療者登録に反対しているのは、孵化の手助けをした【親】が、イリエルだからじゃないわ』
冷たい雪が、静かに降り積もるように。イェイラの言葉とそれに乗る意思が、ミランダの心の上に、覆い被さってくるようだった。
『――あなたのその身勝手で、考えなしで、周りの迷惑を考えられない未熟さが、医療者には相応しくない。私はそう思う』
ミランダはただ、俯くしかない。女王のようなイェイラの怒りを前に、ただただ、縮こまるしかない。
イェイラはいつも正しい。きちんとしていて、自信があって、自分の足でちゃんと立っている。だからミランダは祈るしかない。未熟で愚かなミランダが、イェイラのようになれないことを、許して欲しいと。諦めて欲しいと。まるで女神に祈願するような気持ちで、ただひたすら。
その時、イェイラの声が少し変わった。
ごくわずかに、嘲りを含んだ。
『そしてその未熟さを糺そうともせず初めから諦めているあなたの狡さも。……ジェシカとの関係も、自分で改善することができなかったものね。ジェシカと一緒にいられなくなったから、今度はマリアラに、寄生することに決めたの?』
ミランダは思わず顔を上げた。「そんな、」
『いい加減、ひとりで立ちなさい。それができるまで、医療者の資格なんか望まないことだわ』
ぶつん。
言うだけ言って、イェイラは通信を絶ち切った。
最後に見えたイェイラの冷たい氷のような眼差しが、心臓に深々と突き刺さっている。
ミランダはそろそろと手を上げて、口元に当てた。――吐きそうだ。
イェイラの放った言葉の刃はまだ心臓に刺さっている。鼓動に合わせて、繰り返し、繰り返し、新たな痛みを刻んでくる。私は寄生しているのか、イェイラにはそう見えるのか。そうなのかもしれないとミランダは思った。私は、ひとりで、立っていないのか。だからイーサン=イリエル・マヌエルの相棒にも相応しくないと思われた。真っ当な人間関係を築けないから、医療者にも相応しくないと――思われた。
寄生。
寄生だなんて。
ミランダは通信室のカウンターに突っ伏した。
消えてしまいたかった。