沖島(7)
今夜中に、と、〈アスタ〉は言った。
この豪雪だ。救出に向かえるレイエルのペアも、出払っているのではないだろうか。
「私――行きましょうか?」
気づくとそう言っていた。さっき聞いた人魚の歌が、胸の奥底でまだ流れている。人魚に捕らえられた人は、今どんな気持ちでいるだろう。落ちてしばらく経つのにまだ魔女が助けに来ない。周りを人魚に取り囲まれて、これからの運命を高らかに歌われながら、引き裂かれるその刻が一秒一秒近づいてくるなんて、大変な恐怖だ。
レイエルが、こんなにすぐそばに、いるのに。手も空いているのに。
レイエルは、【水の世界】に入り込んでも人魚に咎められないとイェイラから聞いた。人魚はレイエルを、『二本足』と呼ぶそうだ。足が二本あるだけで、ほかは自分達と変わらない。対等な存在だと、呼んでくれるのだそうだ。だから助けに行ったって、危険なことが起こるはずはない。
『……ダメよ、ミランダ』
〈アスタ〉は困ったように言う。そうだろうなとミランダは思う。思うが、胸の奥底で未だに流れ続ける人魚の歌声が、ミランダの神経をささくれさせていた。体中の細胞全部が、助けなければ助けなければと執拗に言いつのっているような気がする。
「どうしてダメなの?」
ダメな理由なんて重々わかっているのに。
「私に右巻きのレイエルの相棒がいないから?」
それが真実だとわかっているのに。
【水の世界】は遭難救助規程の対象区域だ。町中ではないから、救出に向かうマヌエルは、必ずペアでなければならない。〈アスタ〉が困ったように眉を下げている。わかっている。わかっていた。〈アスタ〉が意地悪な気持ちでミランダを仲間はずれにしているわけではないのだと――遭難救助規定は遵守しなければならない、だから、ここにいるレイエルがミランダではなく、例えばイェイラだったとしたって、〈アスタ〉は出動命令を出さない。それはわかっている。
わかっているのに、考えずにはいられなかった。
――私が、出来損ないだから?
親がイリエルだったから――ちゃんとしたレイエルじゃないから――イェイラの“瑕”になるお荷物だから、ダメなの?
自分の誇りにかけても、そのことを口に出すことは出来なかった。〈アスタ〉にぶつけることが出来たらどんなに楽だろうと思いながら、ミランダは、必死で、その苦い言葉の塊を飲み下した。
「ごめんなさい。ちょっと……あんまり……歌が、ショックで」
『そうね』〈アスタ〉はホッとしたようだった。『私は魔法道具だからあなたの焦燥を完全に理解することはできないけれど、人魚の儀式の歌がどれほどあなたたちの心をささくれさせるか、データではよくわかっているわ。もうすぐマリアラとフェルドが帰ってくるでしょう。美味しいお茶を飲んで、楽しくお喋りしたら、きっと気分も晴れるわ。大丈夫。大丈夫よ。儀式のクライマックスまでには、絶対に助けられるから』
〈アスタ〉の口調はとても穏やかで。優しくて。
ミランダが引き下がったことに、心底ホッとした、と言う顔をしていて。
これが現実なのだと、ミランダは思う。ミランダには相棒がいない。レイエルの右巻きは、左巻きに比べてごく数が少ない。“出来損ない”のミランダにその稀少な相棒がつくことはあり得ないし、イリエルの右巻きと組むこともうまくいかない。医療者になるために必須の研修さえ、マリアラとフェルドの研修にお邪魔させてもらわないと受けられない。
そんな自分が、人を救出するために【水の世界】に派遣されるなんて、あり得ない。
「ごめんなさい、取り乱して。それじゃ」
ミランダはかろうじて笑顔を浮かべて、通信を切った。
しばらくぼんやりしていた。孵化したばかりの仮魔女の頃、イェイラと、彼女の相棒であるスーザンに、【水の世界】に何度か連れて行ってもらった。そのときのことを、思い出していた。
あそこはとても――とても、いいところだった。自分が本来属している場所はここだったのだと、しみじみ思った。静かで、清涼な水に満ちていた。どんな生き物もあそこで窒息することも水圧を感じることもない、という説明を受けて、そうだろうと思った。恐らく生きとし生けるものは全て、あそこから生まれるのではないだろうか。胸の奥がじんと滲みるような、あそこにいつかまた帰る日を、切望せずにはいられないような、そんな感慨を抱いた。
あそこに、もう一度行くことは、きっと、未来永劫ないのだ。
つくづくとそれを思い知る。あの場所に足を踏み入れていいのは、ちゃんとした水の魔女だけ。
――私に、その権利はないのだ。
「ミランダ、ただいま」
出し抜けに横から声をかけられて、ミランダは我に返った。
見ると、未だもこもこに着ぶくれたマリアラが、すぐそばにニコニコして立っていた。防寒ブーツは脱いでスリッパを履いていたが、その他の装備はまだそのままだった。帽子を取りマフラーを取ると、マリアラの頭が現れた。長い長い亜麻色の髪、小さな顔、穏やかな灰色の瞳、人好きのする笑顔。
「あー、動きにくかった」
マリアラはそう言って照れくさそうに笑う。彼女の後ろからフィンダルとフェルドがやってくる。マリアラはコートを外し、防寒ジャケットを脱いでハンガーに掛ける。その中にセーターまで着込んでいたのを見て、ミランダはようやく呪縛から解放され、立ち上がった。
いつの間にか時間が過ぎ、帰ってきたのだ。ということはつまり、さっきまで切望していたお茶の時間だ。重苦しい胸の重りが少し軽くなり、ちょっと嬉しくなる。
ミランダは、我ながら完璧に微笑んだ。
「お疲れさま。クィナのパイを焼いてきたの。皆で食べない? あ、フェルドにはミートパイもちゃんと焼いてきたわよ」
ミランダがそう言うとマリアラは「わあっ」華やいだ声を上げ、フェルドは苦笑した。「お手数かけます」
「いえいえ、ちょっと待っていて」
ミランダはいそいそと荷物のところへ行き、手のひらサイズの運搬用ケースを取り出した。中に小さく縮めたパイを二枚、それからミートパイを一枚、入れてきた。隙間にはクッキーとマドレーヌも詰めてきた。昨日、ディアナの治療院での仕事を終えた後にこれだけの量を焼いてしまった。自分がいかに浮かれていたかがよくわかる。
その後のお茶の時間で、ミランダのささくれ立った気持ちはだいぶ救われた。小さく縮めていたおかげで、パイ皮はまださくさくだったし、クィナの甘煮も絶妙な美味しさに出来ていた。黒砂糖を使ったのが功を奏したようだ。マリアラは大喜びしてくれ、美味しい美味しいと褒めてくれ、お代わりまでしてくれた。フェルドもミートパイを喜んでくれたし、研究者たちからも褒められた。ザールの姿もずっと見ていない。楽しい時間を過ごすうち、少しずつ、人魚の歌の記憶も薄れ、気分も軽くなっていく。
ところが。
夕食まであと少しになった頃、〈アスタ〉から通信が入ったとき、また凍りつかずにはいられなかった。
イェイラがミランダを、呼んでいるというのだった。