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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の現実
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沖島(6)

 離島の訪問は左巻きの魔女にとってとても重要な仕事であり、同時に、おおむね負担のない仕事でもある。

 ここに来てたったの二時間で、ミランダを待っていた患者の治療はすっかり済んだ。一週間分の薬の補充も終わった。あとはのんびりとお茶を飲んだり、研究所の人たちとお喋りしたりしながら待機して、急患に備えるだけでいい。急患が出ることはめったにないから、ほとんど自由時間と変わらない。

 その長い自由時間を、マリアラと一緒に過ごせる。

 この研修が決まった時から、それがとても楽しみだった。彼女と一緒にいると、なんだかすごく居心地がいいのだ。リラックスできて、のびのびした気持ちで、楽しいことがいっぱい起こりそうな気分になる。フェルドも気のいい人だから、この日が来るのが待ち遠しかった。


 そこにザールが来ていたことで、その楽しさが少し阻害されてしまったのは否めない。マリアラとフェルドに、恥ずかしいところを見られてしまったのが何より嫌だった。でもよく考えれば、ふたりが一緒にいてくれたお陰で、ザールの影響が軽減されたとも言える。


 今マリアラは仕事に出ている。

 早く帰ってこないだろうか。


 マリアラと一緒に食べたくて、クィナのパイを焼いてきた。甘い物を食べないフェルドのためにミートパイも焼いたから、みんなで一緒に食べられる。唯一の懸念はザールだが、あの人は勤務日に無理矢理沖島へやってきたものだから、書類仕事や部下への対応に追われているらしい。たぶんお茶の時間に出て来ることもないだろう。そんなに忙しいならわざわざ嫌みを言いに来なくてもいいのに、と思うけれど、ザールが忙しいこと自体は歓迎だ。


 ミランダはまた時計を見た。針の進みは遅々として、ほとんど進まないように思える。

 何度も、自分に言い聞かせなければならなかった。沖島研究所はかなり広大な建物だ。半分とはいえ、東側の壁面と屋上の氷雪を全て溶かし、目視でコーティングの劣化をチェックするのはかなり時間がかかるはずだ。だからまだまだ帰ってくるはずがない。でも、そろそろパイを切っておいた方が――いやいや、既に切り分けられたパイを渡されるより、大きな丸いパイを目の前で切って渡された方が嬉しいはずだ。じゃあお湯を沸かしておいた方が――いやいや、あと数時間は帰ってこないはずだから、今沸かしてお茶を入れても冷めてしまうだろう。

 本を読むなどして時間をつぶそうとしても、ぜんぜん文字が入ってこない。


 ミランダは立ち上がった。意味もなく〈アスタ〉のスクリーンの前に行ってみたり、周囲の忙しそうな研究者たちを眺めてみたり、窓の外に目をやってみたり――して。

 降雪が強まっているのに気づいた。風はさほどでもないが、雨だったら土砂降りだろうと思うほどの雪。


 フェルドがいるのだから大丈夫だ。

 危険なことなど何も起こるはずがない。


 それは重々わかっているが、ミランダはやはり建物の外に出てみることにした。もしかしたら、マリアラがもうそこまで帰ってきているかも知れない。






 結論から言うとマリアラもフェルドもフィンダルもまだ帰っていなかった。コートを着込んで扉を開けると極寒の冷気が吹き付ける。視界は完全に真っ白だ。積雪の多い沖島でも珍しいのではないだろうか。出かけるときにもこもこに着ぶくれていたマリアラを思い出せば、できるだけフェルドの厄介にならないようにしているだろうことは疑いなかった。もちろん大丈夫だとわかっているが、わかっているが、でも万一と言うこともある。様子を見に行ってみようか。マリアラはラクエルだ。まだまだ明るい時刻だとは言え、この吹雪では、自分を保温するだけで大変だろう。ミランダはレイエルだから、周りの雪に働きかけることは簡単だ。だから――と考えて、ミランダは自分を戒める。だめだめ。


 マリアラは、魔力が弱いことで、先日ジェシカに嫌がらせをされたばかりだ。今ミランダが手助けに行ったとしたら、どういう気持ちになるだろう。

 手助けなんて口実に過ぎないのに、本当はただミランダが仲間に入れて欲しいだけなのに、真面目なマリアラは、きっとそうは思わない。

 万が一にも、マリアラに、侮られたなどという誤解を与えるわけにはいかない。彼女は相棒もいる一人前の魔女だ。ミランダの手助けなんて余計なお世話だし、フェルドにも失礼だ。だめだめ。

 そう自分に言い聞かせる。それでも引き返すことができないまま雪を見続けるミランダの耳に、その歌声が、聞こえた。


 人魚の歌だ。


 【水の世界】に、誰かが落ちたのだ。


 とっさに雪を押さえ、風を押さえ、更に耳を澄ませた。間違いない、人魚の歌声だ。聞き覚えのある旋律が、重なり合い、よじれ合い、絡み合いながら、緩やかに続いている。

 人魚の儀式で用いられる主となる旋律は、三つある。〈祈り〉〈儀式〉〈栄光〉と名前が付けられている。人魚の儀式の歌は、この主となる三つの旋律を複雑に絡み合わせながら紡がれる。時に調を変え、リズムを変え、何度も揺り戻しながら、調べは次第に高まっていきクライマックスを迎える。が、今はまだその前段階、の、ようだ。人魚が男性の身体を切り裂きその精を利用するのは儀式が最高潮を迎えたときで、それまでにはまだ少し余裕がありそうだった。

 しかし。

 ミランダは後戻りして、扉を元どおり閉めた。コートを脱ぎ、小さく縮めてしまいながら、足早に、今来たばかりの廊下を戻った。

 放っておくわけにはいかない。


 魔女は人間を助けるのが仕事だ。義務であり、権利でもある。それはどちらかといえば、本能的なものに近かった。今このすぐそばの海で、誰か人間が人魚に捕まっている。それを思うだけで、血が音を立てて引いていくような気がする。

 人魚は人間にとって先達であり、教師であり保護者であったと聞いている。人間の文明の揺籃期に、まるで幼児を導くように、色々と教えて手ほどきしてくれたのは人魚だ。その性質は温厚で高潔で慈悲深いと言われている。ただ唯一の欠点は、繁殖の時に人間の男性を引き裂いてその精を利用する、という、ことだ。人魚はやはり別の種族であり、別の倫理観に従って行動する生き物だ。絶対に、放っておけない。


 先ほどの談話室に戻り、


「〈アスタ〉」


 スクリーンに向けて話しかけると、すぐに、〈アスタ〉のふくよかな顔が浮かび上がった。

 〈アスタ〉は、“お母さん”という単語を具現したらこうなるのではないか、と思うような存在だ。慈愛に満ちた優しい笑顔を見ると、いつでもホッとする。


『どうしたの、ミランダ。何か問題?』


 訊ねられ、ミランダは頷いた。


「さっき、人魚の歌が聞こえたの。まだ猶予はありそうだったけど、第二段階に入っていたわ。今夜あたり双満月でしょう? 通報は義務だと習ったから」

『ああ、あなたも聞いたのね。通報してくれて、ありがとう。さっきマリアラからも連絡があったの』

「え、マリアラから――?」


 ミランダは驚いた。マリアラはレイエルではない。人魚の歌や儀式についての詳しいレクチャーは受けていないはずだ。なのにあの歌の意味に気づいたというのだろうか。〈アスタ〉は微笑み、頷いた。


『そうなの、詳しい場所も聞いたから、大丈夫よ。豪雪で出動が遅れているけれど、レイエルのペアが準備を整え次第すぐに出動するわ。真夜中までには必ず救出されるはず。心配しないで、あなたは自分の仕事をなさい』

「そう……そうなの、それなら安心ね」


 そう答えて、ふと。

 ミランダは、違和感を覚えた。


 マリアラが通報するまで、〈アスタ〉は、【水の世界】に誰かが落ちたことに、気づかなかったのだろうか?


「発信器は――?」


 そう訊ねると、〈アスタ〉は一瞬口ごもった。ミランダを見て、困ったように笑う。


『鋭いわねえ。沖島近辺の発信器の危険信号は受信していないのよ、たぶん、運悪く携帯していないときだったんでしょう。稀にあることだわ。だから通報してもらえて、本当に助かったの』

「そう……」


 発信器をうっかり携帯していなかった、ということは、まあたまにはあることかもしれない。

 でもこんな真冬、海辺に出かけるときに、発信器を持たずに出るなんて、ずいぶん剛胆な神経の持ち主だ。そう考えて、ミランダは身震いした。

 持っていなかったのならいい。でももしかして、発信器の緊急ボタンを押すことができなかった、ということも、考えられる。

 思い至ると、そっちの方が起こる確率が高いような気がする。だとしたら、今頃、その誰かは意識不明の状態にあるのではないだろうか。もしくは、拘束されているとか、大ケガをしているとか――。ミランダはまた身震いをする。

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