沖島(5)
ギダールの言ったとおり、その後通された研究所の一室に、ザールの姿はなかった。
広々とした談話室だ。給湯設備も備えられ、娯楽のためのもろもろも置いてあり、和やかな雰囲気だった。ソファーやスツールがあちこち設えられ、また壁に作り付けのスクリーンとプロジェクターも備えられていて、くつろぐことも討論することもできるようになっている。その部屋のそこここで、休暇明けの研究者たちと残っていた人たちの間で引継ぎが始まっていた。またミランダは早速、滞在していた研究者たちの健康チェックを始めた。マリアラは注意深くその様子を眺めた。救出したお客さんたちの健康チェックはマリアラの重要な仕事のひとつだ。ミランダのように腕の良い人の仕事を間近で見られるチャンスは滅多にない。
と言っても、あまり参考にはならなさそうだった。人の体内の水に直接働きかけることができる水の魔女は、やはり治療において別格の存在だ。ごく軽い不調程度なら、ミランダの診察を受けただけで飛んで行ってしまうのではないだろうか。そう思うほど、診察を受けた後の人は皆すがすがしい顔をしている。
発熱を伴う風邪を引いている人がふたり。もうひとり、この一週間に喘息の発作があり薬で抑えた人がいて、ミランダはこの三人に特に時間をかけていた。他に、慢性皮膚炎が再発した人がひとり。それからごく軽いケガ、打ち身のある人たちが幾人か。歯痛と腰痛の人もいる。彼らはごく軽い不調で、ミランダの治療を受けられるのが嬉しくてたまらないというように、ニコニコしながら順番待ちをしている。
「マリアラ、打ち合わせするからこっちに来て」
フィンダルに呼ばれ、マリアラはミランダの治療から目をもぎ離してそちらへ行った。今回、マリアラは治療の担当ではない。フェルドと一緒に、建物やシステムのチェックをし必要があれば補修をすることになっている。本来これはミランダと一緒に来た右巻きの仕事であり、マリアラは、『右巻きの仕事を経験することで相互理解を深めることを目的とした研修』のためにここに来た。だから見学が主な任務なので、どちらかと言えばマリアラの方がお荷物なのに、と、思う。思うが、ザールの姿がない今、そんなことを気にする必要もないと思えるようになってきた。
フィンダルの隣に年かさの女性が座っていた。マリアラとフェルドが二人の前に座り、フィンダルがふたりを紹介してくれる。聞き終えて彼女は軽く頭を下げた。
「初めまして、ネル=ウェリントンです。ネルって呼んでね」
とても有能そうな人だった。どことなく、医局のジェイディスを思い起こさせる。彼女はローテーブルの上に広げた大きな地図を指し示し、てきぱきと本題に入った。
「これが沖島全体の見取り図よ。研究所はこういう配置になっています。西側のチェックは先週終わっているので、今回は東側をお願いします。該当箇所の壁に着いた雪や氷を溶かしていただき、保温コーティングを目視でチェック。破損箇所が見つかったら、フィンダルが補修しますので、その間、風雪の排除をお願いします」
「はい」
フェルドは慣れているらしい。既に知っている事柄を再確認していると言う感じだった。マリアラには新鮮だった。右巻きの“独り身”はかなり色々な仕事をすると聞いたが、確かにそのとおりのようだった。エスメラルダの真冬は過酷で、沖島のような離島ならば尚更だ。ここでの脅威は雪、低温、強風だけではない。海から来る潮風も入るのだ。建物全体に施されている保温・除湿ための樹脂コーティングは快適な生活のために不可欠だけれど、潮風がひっきりなしに吹き付けたら、コーティングの劣化は著しいだろう。
「マリアラさん」
ネルに呼ばれてマリアラは顔を上げた。「はい」
「今回あなたは見学なので、自分の保温と安全確保だけ気をつけてください。普段これは右巻きと技術者だけで行う作業です。左巻きの恩恵を今日だけ特例的に受けられるという状況は好ましくありません」
マリアラは身を縮めた。「……はい」
「次に右巻きだけで作業をする時、こないだは良かったなー、しもやけもあかぎれもすぐその場で治してもらえたのになー、なんてフィンダルが思ってしまったら困るんです。あなたがしていいのは見ていることと自分の安全を守ることだけ。お願いしますね? くれぐれも」
「は、はい」
「ザールが来てるでしょ」ネルの口調が急に砕けた。「あの人ほんっとーに面倒な人なのよ。粗探しに来てるようなもんなのよ、もーほんと嫌な感じなんだから。ミランダが来るって知ったらすぐ駆けつけてきてさあ、ほんっと嫌みったらしいんだから」
「でも――あの人保護局の中でもエリートなんでしょ」
フィンダルがそう言った。その言い方に、マリアラは違和感を覚えた。
今ちょっと、ちょっとだけ、何かがひっかかった。なんだろう。
マリアラの違和感をよそに、フィンダルは奥歯に何かが挟まったような言い方で続ける。
「異例の出世を遂げてるって聞きましたよ。将来警備隊長にもなれるくらい優秀なんだって。最終的には元老院議員にまでなれるんじゃないかって噂」
「まあね、優秀なのはそうなんでしょうよ。でもだからといって、ミランダみたいな子に理不尽な態度を取るのはいただけないわ」
フィンダルが困ったような微笑みを浮かべたのをマリアラは見た。気弱そうな、しょうがない、というような、何か諦めたような笑み。
それを見て、違和感の正体に気づいた。
“馬車”の中でフィンダルは、ミランダに恋をしているようだった。丸い眼鏡の奥で、その目はずっとミランダばかり追っていたように思う。
なのにザールがミランダに理不尽な言葉を投げつけたとき、フィンダルは黙っていた。そのことが、マリアラに、ごく僅かな失望を抱かせた。ミランダのことを好いているなら、あの場でザールに立ち向かって欲しかった。そんな身勝手な願望を、抱いてしまう。どうしても。
そして今も。ミランダにあんなひどいことを言ったザールに、でも彼は優秀だから、だからしょうがないのだと、そういう結論を導き出したのが、残念だ。
ネルが話を締めくくった。
「――だから気をつけてね、マリアラさん。ザールはでっち上げてでもミランダを攻撃する材料を作る奴よ。ミランダと同じ左巻きであるあなたが、その材料としてあいつに利用されないように」
「わかりました。気をつけます」
マリアラは深々と頷いた。マリアラを持ち上げることでミランダを堕とすことも、マリアラをけなすことでミランダを道連れにすることも、いかにもあの人がやりそうなことだ。それはもう、重々、気をつけなければならない。
外に出る前に、できうる限りの防寒対策をした。マリアラは見るだけで建設的な仕事は何もしてはならない、と言われてしまったのだから、この上更にフェルドに寒さを防いでもらうなんて絶対にダメだ。手袋をはめ、支給の耐寒ジャケットを着、その上にコートを羽織った。マフラーから目だけを出して毛糸の帽子を被り、更にもこもこの裏打ちのあるフードをかぶり、風で飛ばないよう口元のボタンも留める。靴も膝までの防寒ブーツに替える。雪は降っていたが風が弱まっていたので、ゴーグルまではかけずに済んだ。もこもこに着ぶくれたマリアラは、打ち合わせをしながら歩くフィンダルとフェルドの後をえっちらおっちらついていった。防寒は万全で全然寒くないが、少々動きづらい。自然と、少し遅れがちになる。
防風林の向こうに、白く凍り付いた海が見える。その先に、聳えるような【壁】がある。
その向こうは、青空だった。
アナカルシスは、今日も晴れている。だから【壁】は今、光り輝いていた。神々しいまでの青空と、のどかにもこもこ浮かぶ、真っ白な雲。さんさんと降り注ぐお日様の光を浴びてキラキラ輝く水面。マリアラは目を細めてそれを見た。アナカルシスも季節は冬のはずなのに、あちらの海はいかにも温かそうに見えた。もし今あの【壁】に穴があいたなら、きっと湯気が立つだろう。
ここから見るアナカルシスの海は、楽園そのものだ。
自然に、以前、フェルドと一緒に遭遇した、“すっげーレア”なお客さんのことを思い出した。海流に乗って【壁】を目指し、自由になろうとした“アシュヴィティア”の信徒のことを。
確かに、と、思った。あの輝かしいほどの青空。ほんの目と鼻の先に輝く楽園に比べると、こちらの、凍り付いて灰色で、寒々しい極寒の地はいかにも味気なくむなしく思える。少し手を伸ばせばあちらにたどり着けそうなのに、実際にはこのままあちらに出るのは不可能だ。【壁】によって隔離され、閉じ込められている、そんな錯覚を抱いてもおかしくない――かもしれない。
その時。
歌が聞こえた。
ごくごくかすかな、歌声だった。あれっ、と思った時、蒸気の音がそれを吹き消した。フェルドが、研究所の壁に積もった雪や氷を溶かしたのだ。いつもどおりその蒸気もあっという間に一掃され、マリアラは、そちらに注意を向け直した。今は仕事中だ。ただ見ているだけだと言ったって、サボっていいことにはならない。
フェルドが魔力を使うところは、何度見ても飽きない。水も氷も雪も蒸気も、大喜びでフェルドの命令に従っているように見える。ミランダもそうだ。風邪やケガや身体の不調が、大喜びでミランダの命令に従って身体から逃げ出しているように見える。豊富な魔力は、それだけで才能だ。
出来損ないだなんて、とんでもない。
彼女の【親】であることが、イェイラの経歴に瑕をつけるなんて、あり得ない。
そう思っていると、また、海の方から歌声が聞こえた。マリアラが海を振り返ると、気づいたフィンダルが声をかけてきた。
「なんかあった?」
フィンダルの言葉は不思議そうだ。
歌声は今も続いている。耳の奥底でかすかに聞こえるその歌は、フィンダルには聞こえないのだろうか。マリアラだけに聞こえる、幻聴なのだろうか。
マリアラはフィンダルを振り返った。
「聞こえませんか?」
「聞こえる? 何が?」
「何か、歌声――みたいな。今も聞こえる」
「歌声? 女性の?」
「ええ」
確かにその声は、女性の声だった。それもひとりじゃない。複数の女性の声が、寄り集まり絡み合い、またほぐれて、高くなり低くなり響いている。何て綺麗な歌声だろう。歌詞はアナカルシス語ではないようだけれど、確かに鼓膜を振るわせている。幻聴だなんてことはない、はずだ。
「おやおや、それは大変だ」
フィンダルはのんびりとした口調で言った。大変だと言いながら、あまり大変そうじゃない言い方だった。壁の目視を終え、破損箇所なし、と言いながら手にした書類ばさみにチェックをして、「じゃあ次はそっちの壁、お願いします」と言いながら歩いて行く。
それから、振り返った。
「初めて聞いた? 人魚の声だよ、それ。多分ね」
「人魚――?」
「人魚は繁殖の時に人間の男を引き裂いて食べてその精を利用するって、聞いたことあるだろ? あれ」
「え、……えええ!」
「誰か落ちたのかな、この真冬の海にね。大丈夫だよ。今頃〈アスタ〉が出動の指示出してる頃だよ。【水の世界】に落ちた人を、そのまま放っておくわけないからね。レイエルのペアが、救出に向かうはずだ」
フェルドが次の壁を溶かしている。盛大な蒸気の音が巻き起こる。フィンダルも、もう何も気にする必要はないというように歩いて行く。マリアラはもう一度、海の方を振り返った。
誰かが落ちた。この真冬の海に。
人魚の儀式。誰か落ちた人を引き裂いて、その精を利用するという――。
つまり今まさにこの近くの海で、誰かが死のうとしている、ということになる。マリアラはフェルドとフィンダルの方を振り返った。彼らはまた少し遠ざかっていた。海の方に視線を戻し、また彼らの方に視線を戻し、何度か繰り返した挙げ句、マリアラはついに海に背を向けて、フェルドとフィンダルの後を追いかけた。後ろ髪を盛大に引かれながらも、今ミフに乗ってその誰かを探しに行くことが、この上なく愚かな行為だと言うことはよくわかっていた。【水の世界】に行っても良いと言われるのはレイエルだけだ。それも、右巻きと左巻きが揃った、救出シフトに入っている魔女だけ。やらなければならない仕事を放り出してただ闇雲に海に飛び出したって、その誰かを見つけることができるとは思えなかった。今ひとりで飛び出したらフェルドとの約束を破ることになるし、といって、フェルドの仕事を中断させてその誰かを探しに行くのも建設的だとは思えない。
もこもこに着ぶくれた身体をえっちらおっちら動かしてフェルドとフィンダルの後を追いかけながら、マリアラは自分の心を宥めるために、手袋を外して無線機を取り出した。【アスタ】に通報して救助を派遣してもらうというのが、今取れる唯一にして最善の行動だろう。