第三章 仮魔女と魔物(3)
*
ひどく静かだった。
何の音もしなかった。遠くから轟音がじわじわと這うように進んで来るのが感じられるが、その分、マリアラの周りは本当に静かだった。
もう鼻が慣れてしまったのか、焦げ臭ささえ感じない。
――来た。
全身の毛が逆立ってから、マリアラは、その炎を見た。
悪夢のような光景だった。静寂の中、一筋の炎が辺りに炎を振りまきながら、躍るようにこちらに向かって来る。火の玉みたいだ。進んで、はねて、止まって、揺れる。進んで、はねて、止まって、揺れる。不思議にリズミカルな動きだ。揺れた拍子に周囲に火の粉を撒き散らすのか、一瞬置いてから、周囲にいくつもの炎が生まれる。
――あれだ。
また進んで、はねて、つんのめるように止まって、揺らいで。
続いて――
獣の咆哮が、闇をつんざいた。
炎が飛び散った。黒焦げの森の残骸の中にポッ、ポッ、と炎が上がる。ああしてこの山火事は広がって来たのだと、マリアラはどこか冷静に考えた。
と悟る間にも〈それ〉はこちらに迫っている。そこここに咲いた炎に照らされているのに、〈それ〉はあまりに黒い。光を受けても輝かない、全てが禍々しいほどに黒い、それは。
――魔物だ。
どうして魔物がここにいるのか、どうして魔物が火事を広げているのか、何もかもが謎だったけれど、魅入られたようにマリアラは動けなかった。炎に照らされた魔物は巨大な牛に似ていた。曲がりくねった角、濁った瞳、鼻面や開いた顎から飛び散る毒の飛沫が焼け焦げた木に飛び散りじゅうっと音を立てた。
どっ。
全身を揺すぶる轟音に我に返った。逃げなきゃ――思い至った時には、〈それ〉は既にマリアラの目の前にまで迫っていた。金臭いこの香りは、〈毒〉の匂いなのだろうか。熱い。焼け焦げと〈毒〉の匂いが襲いかかってくる。地響きで、よろめいた。魔物は巨大だった。小山ほどもある漆黒の塊が迫る。鼻面が既にマリアラの体くらいある。蹄が下生えを抉り、木がへし折れ、木くずがマリアラの頬をかすめた。邪魔になった木を易々と引き裂き踏みしだきながら〈それ〉はマリアラに狙いを定めて襲いかかって来た――
寸前に、マリアラの手を硬い柄が掠めた。
反射的にしがみついた。ぐうっと体があがった。〈それ〉の曲がりくねった角がマリアラのブーツをこすった。『マリアラ――!』ミフの悲鳴じみた声を聞くのと同時に、マリアラは、開けた視界の中、〈それ〉の背に取り付けられた足場にあの赤い髪の狩人が乗っているのを見た。斜めに見える狩人の唇が嬉しげに歪んだ。
「へえ……」
呟きが背後に流れていく。ミフはマリアラを乗せ旋回した。マリアラは呼吸を整えた。自分がまだ生きているのが信じられなかった。
心臓がどくどく脈打っている。どうやら、まだ生きているようだ。
それなら、やるべきことをやらねばならない。
マリアラはミフの柄を掴み直した。
『ちょっと、マリアラ!?』
「温泉街に向かってる!」
叫んでマリアラは、歯を食いしばった。歯の根が合ってない。情けない。
ミフはマリアラの思うとおりに〈それ〉の後を追いかけはじめながら喚いた。
『バカー!!! マリアラのバカ! バカバカバカバカ! 弱いくせにー!』
「ごめん、でも」
『だってあいつ銃とかゆーの持ってんでしょう!? いくら〈毒〉に強いラクエルでもっ〈毒〉の塊撃ち込まれたら即動けなくなっちゃう!』
「でも手伝って……! 手伝って、お願い、ミフ!」
『手伝うよ! もちろんだよ、あたしマリアラの箒だもん! でも何を!? 何が出来んのよー!』
確かに、何もできそうもなかった。
グールドと名乗った狩人は、危なげない身のこなしで〈それ〉を乗りこなしていた。追いすがるうちに少しずつ状況がつかめてくる。狩人が乗っている足台は魔物の体に直接穿ち込まれた二本の楔に板を渡したもので、〈それ〉が身をよじる度に楔の根元から真っ黒な体液がどろり、どろりと溢れては森に落ちている。マリアラはぞっとした。魔物には痛覚がないのだろうか?
狩人は時折身を屈めては、落ちたその体液を、左手に掲げた松明で燃やしている。どろりとした体液は松明が近づくだけで燃え上がる。魔物の〈毒〉があんなに燃えやすいなんて知らなかった。
魔物が急に体を撓めたわめ頭を振り立てて咆哮を上げた。顎から角から、楔の根元から、体液が溢れ出て周囲に飛び散る。追い越してしまったミフは一度上空に舞い上がった。梢の隙間から、狩人の持った松明が、狩人の真っ赤な髪を煌めかせた。きしゃあああああっと魔物がまた叫び、あまりの苦悶に耳を塞ぎたくなった。狩人がナイフを魔物の背に突き立て、魔物はまた弾かれたように走り出す。
『苦しんでる……!』
ミフが呻いて、追跡を再開した。そう、それは歴然とした事実だった。魔物は苦しんでいた。さっきはあれほどの脅威に思えた魔物は、実際は傷つきもがき苦しむ気の毒な存在だった。ナイフがその背を抉り、体液が飛び散る。苦悶の叫び声が紅い闇を震わせる。
魔物は温泉街を焼こうとなんてしていない。
ただ暴れ回っているだけだ。ただひたすら。背後から突き立てられる痛みと苦しみから逃れたくて――
マリアラは覚悟を決めた。
「ミフ、お願い」
『覚えてろー!』
ミフは叫んだが、もう、マリアラを怒ってはいないようだった。
木々の間から、ちらりと、温泉街の明かりが見えた。あそこにはリンがいる、大勢の人達がいる、絶対に行かせるわけにはいかない。マリアラはミフの柄に身を伏せた。
何をする気か悟ったのだろう、グールドは松明を投げ捨てどこからともなく大きな金色の銃を取り出した。有名な、狩人の〈銃〉だ。魔物の〈毒〉を加工して強めたものが弾に使われるという。ラクエルは他の魔女よりは〈毒〉への耐性を持っているが、それでも、狩人の〈銃〉に撃たれたらすぐに動けなくなってしまう。
――でも、即死まではしないはず。
松明の明かりが遠ざかり辺りはほとんど真っ暗だ。木々の間を鋭い炸裂音がして、前髪を金臭い何かがかすめて近くの梢が揺れた。ミフが一気に幅を詰めた、と、魔物が急加速して狙いが外れた。
魔物の背に突き立てたナイフで速度をコントロールしている。悟って吐き気を覚える。
「遊んで――くれんの――?」
グールドが振り返る。楽しげな、まるで子供みたいに無邪気な笑顔だ。銃を構えた瞬間にミフが加速して、グールドの撃った弾は後ろに流れていく。
「面白いね」
『どこがよ!』
ミフが毒づき隣に並んだ。間髪入れず、そのまま横ざまに体当たりをしかけた。グールドは嬉しげに銃を構える。「ヤケになったの?」愛おしむような囁きが聞こえる。
と、
ぶわっ、と保護膜が膨れ上がった。
「!?」
半透明の保護膜越しにグールドの呆気に取られた顔が迫る。マリアラは歯を閉じ目も閉じた。ずしん、重い衝撃と共に、グールドは保護膜に包まれたミフとマリアラもろとも、魔物の足台から転がり落ちた。