沖島(3)
“馬車”の中はあたたかく、とても賑やかだ。同乗している研究者たちが、底抜けに明るい人たちだったのだ。
本土から離れた沖島には、観測所・研究所の他には人工物は存在していない。そこに駐在している研究者たちは、娯楽施設もなく親しい人とも離れた沖の孤島で、来る日も来る日もひたすら【壁】のデータを取らなければならない。島の周囲をぐるりと取り囲むように勢いの強い海流が流れており、海流はそのまま【壁】に吸い込まれていくので、船での行き来は推奨されていない。沖島へ人員や物資を運ぶのは、マヌエルの仕事だ。それはつまり、マヌエル以外の客人が来訪することも滅多にない、ということだ。
一週間に一度の魔女の来訪を、研究者たちはひたすら心待ちにしているそうだ。
――それならば、休暇が明けて沖島任務に戻る研究者たちは、もっと悲壮な様子であっても良いはずだ。と、マリアラは思うのだが、彼らは本当に、ひたすらに、底抜けに、明るかった。“馬車”の中央に設えられたローテーブルの上に持参の飲み物や菓子を満載して、海上の吹雪を見ながら楽しく騒ぐ“馬車”の中は、まるで宴会だ。
マリアラは後ろめたかった。フェルドが寒い外にいて安全に気を配りながら“馬車”を動かしているというのに、相棒である自分が暖かな“馬車”の中で、おまけにお茶やお菓子を振る舞われているなんて。後ろめたさに視線をやれば、“馬車”の正面に切られた大きな窓に、フィに跨がったフェルドの背中が見えていた。外は吹雪だ。フェルドはコートを着ていたが、吹雪にも寒さにもまったく翻弄されていないことはここから見てもよくわかった。が、後ろめたさは変わらない。
その背中を見て、初めて出会ったときのことをまた思い出した。三人の若者たちが、彼ひとりに雪かきを押しつけた時のこと。
あの時フェルドは、どんな気持ちでいただろう。そして今も、どんな気持ちでいるだろう。ぼんやりそう考えていると、ミランダの優しい声がした。
「気にしないで欲しいって、言ってたわよ」
「えっ?」
振り返るとミランダは、マリアラを見て微笑んだ。あなたの気持ちはとてもよくわかる、と言うように。
「フェルドには聞いてないけど、イーサンには聞いたわ。イーサンは笑ってた。そんなこと気にしないで欲しいって」
「わたしが何考えてるか……」
言いかけるとミランダはくすっと笑った。
「そりゃわかるわよ。左巻きがみんな通る道ですもの」
「そう……なの?」
「ついでに言えば、ララも気にしないで欲しいって言ってたわ。適材適所というものだって。今左巻きが外に出て一緒に吹雪に耐えたとしたって、正直に言えば足手まといになるわけだしって」
「た、確かに」
「一緒に“馬車”の中に入ってお茶を飲んでたら、不慮の事態に対応できないかも知れないわけだし」
「うん……」
「だから仕方ない。これが右巻きの仕事だから、って、言ってたわ。フェルドも多分そう言うと思うわよ」
「そーそー、だから気にしないことさ」
ミランダの隣から顔を出したのは、休暇明けで沖島に戻る技師、フィンダルだ。
フィンダルは計測機器を扱う技師だ。就職したばかりだそうで、沖島に駐在する人たちの中で一番若いと聞いた。ほとんどフェルドと変わらないくらいの年頃に見える。面長で、色が白く、丸い眼鏡をかけているフィンダルは、とても大人しそうで、とても親切そうな人だ。そして彼は“馬車”に乗ったときからずっと、上機嫌だった。ミランダの隣に座れたのが嬉しくてたまらないのだろう、と、初対面のマリアラでさえ悟れてしまうほど内心がダダ漏れだった。丸い眼鏡の奥の目をニコニコさせながら、フィンダルはミランダの隣であれこれと気を使っている。
フィンダルばかりでなく、沖島研究所の責任者であり研究者たちのリーダーであるギダール、フィンダルより少し年かさで先輩風を吹かせているランディ、と言った面々はとても親切で、また上機嫌だった。ミランダは彼らにとても可愛がられているようだ。彼らにとって、ミランダは、健康管理を担当する左巻きの魔女、というより、アイドルに近い存在なのではないだろうか、と思わずにはいられない。ミランダも、研究者たちとはすっかり打ち解けていた。ジェシカと一緒にいたときのような居心地の悪そうな様子はどこにもなく、マリアラは嬉しくなる。
予定では、あと十数分で到着のはずだ。到着後、ミランダは沖島に滞在していた人たちの健康チェックを行い、必要があれば治療をすることになっている。フェルドとマリアラはその間に研究所や観測所の補修とメンテナンスを行うことになっていた。その後はひと晩滞在し、明日の朝、休暇を取る研究者たちを乗せて帰路につく。スケジュールどおりに全てが進めば、明日の午前十一時に【魔女ビル】で報告を済ませて解散の予定だ。
「それにしても」フィンダルは馬車をぐるりと見回す仕草で話を変えた。「この“馬車”ってほんと、いいよねえ。揺れないし暖かいし快適だし、いいよなあ。リズエルの仕事ってほんと、芸術的だよなあ」
フィンダルは技師という職業を選ぶだけあって、魔法道具の技術が大好きらしい。ララとは対照的だ。ララは魔法道具の技術全般に不信感を持っているそうで、箒以外の乗り物に頑なに乗ろうとしない。
「毎回同じことを言うんですね」
ミランダが笑い、フィンダルも笑った。
「そりゃあもう、“馬車”に乗れるっていう理由で沖島任務を希望したくらいだからね」
マリアラは目を丸くした。「そうなんですか?」
「だって本土勤務じゃ乗れないだろ。……いや、さすがに“馬車”だけが理由じゃないけどさ。沖島は本当に【壁】に近いから、計測機器も最新式のものが揃ってるんだ。だから」
「こいつちょっと怖えーんだよ」いつもフィンダルに先輩風を吹かせるランディが、フィンダルの肩を叩いて言った。「計測室に籠もってさ、機器が動いている様子をさ、じーっと眺めてんのが好きで好きで堪らないんだと。異常じゃね?」
「異常じゃないですよ! 人を変態みたいに言わないでください。全ての機器が正常に、スムーズに、働ける状況を維持するのが僕の任務なんです。ただそれだけです。……それにしてもほんと、この“馬車”、いいよなあ。マヌエルの道具は芸術品だよ……」
フィンダルはうっとりとまた“馬車”を見回した。“馬車”に乗れると言う理由で離島の任務を希望したというのもあながち冗談でもないらしい。ラセミスタと話が合うかも知れない、とマリアラは思う。
沖島や南大島と行った場所へ研究者たちを運ぶためには、今乗っているような、箒によって引っ張ることができる“馬車”を利用する。
あまり使用頻度が高いものではないので、魔女の巾着袋の中には入っていない。マリアラは“馬車”を使ったことはないし、当然乗るのも初めてだった。エルギンとニーナに会った時、この乗り物が巾着袋の中に入っていたなら、ヴァシルグから逃げる時にあれほど苦労しないでも済んだはずだ。箒一本に引かれているのに全く揺れないし、研究者たちも思い思いの場所に座っているのに傾かず、とても快適な乗り物だった。もちろん正式名称は他にあるのだが、マヌエルの関係者はみんな簡便さとノスタルジックさと異国情緒を楽しむために“馬車”と呼んでいる。
「どんどん便利になるのは結構だが、昔の苦労を忘れないでもらいたいもんだね」一番年かさのギダールがぶつぶつ言った。「“馬車”がグレゴリー=リズエル・シフト・マヌエルによって開発されるまでは、真冬の最中でも船で行ったもんだよ。同行する右巻きが波を押さえてくれたが、真冬の海の上を船で進むというのは余り楽しくない経験だった。今の快適さはそう言う苦労の上にだな――」
マリアラとミランダとフィンダルは、それからしばらく、ギダールの苦労話を拝聴した。ランディは、また始まった、とばかりにそっぽを向いて、違う研究者に話しかけたりしている。その様子を見るに、フィンダルも既に聞き飽きている話だろうと想像できるが、フィンダルは辛抱強く黙って頷きながら聞いている。いい人だなあ、とマリアラは思う。
「南大島はやはり住民の数も研究者の数も違う。優先度が高いからな、一番初めに“馬車”が導入されて、そりゃあ羨ましかったもんで――」
南大島、と聞いて、マリアラは、先日の出来事を思い出した。“過去”へ行ってしまう前、南大島で魔物に会った。それからラルフとルッツ。あの風変わりな境遇にあるふたりの子供は、いったいどうやってこの過酷な冬を越しているのだろう。
これから向かう沖島と、先日行った南大島の間には、小石で筋を書いたかのように小島が散らばりながら続いているはずだ。ラルフとルッツを送っていった島は、沖島から数キロしか離れていない。
あの島には、エスメラルダの町中にあるような、過酷な冬をやり過ごすための設備などがあるとは思えない。雪はただひたすら積もり、居住区は人の手で雪かきをしなければならないはずだ。考えるだけで目眩がするほどの重労働だ。彼らの衣類を思い出せば、充分な防寒具さえ持っているかどうか、わからない。
呪われ者。何万人にひとりしか生まれないとされる、魔力の素養を全く持たない人のことだ。
ラルフとルッツは、きっとルクルスだ。本当は、それほど希有な存在ではないのかも知れない。どうして彼らはあんな風に、本土の人たちから隠されているのだろう。そう考えて、マリアラは身震いした。その理由を、なんとなく、推察できるような気がしたからだ。
現代のエスメラルダで、魔力を持たない人は、まともに暮らすことが出来ない。お風呂に入ることも、部屋の明かりをつけることもできない。エレベーターにも乗れないし、トイレで水を流すことすら出来ない。エスメラルダの便利で快適な生活は、全て魔力の行使の上に成り立っている。
もし、ルクルスがエスメラルダに、無視できない程の人数、住んでいたとしたら。
現在のように、魔法道具が発展した便利で快適な生活は、なかったかもしれない。新たな技術が生まれる度に、ルクルスとの間に軋轢が生じたに違いないからだ。
――だからだろうか。
マリアラはまた、ゾッとした。
現代のエスメラルダで、ラルフやルッツのようなルクルスが、南大島近くの島のような、辺鄙な場所に追いやられている――その原因の一端は、もしかして、そう言うところにあるのではないだろうか。