沖島(2)
ジェイディスは窓を閉め、ラセミスタに言った。
「お友達に免じて、あんたも休みなさい。このままじゃこの子、あんたが心配で、おちおち仕事にも行けないじゃない。今日は当直で、沖島で宿泊研修なんだ。あんまり心配かけるもんじゃない」
「はい……」
「今日はイーレンタールは戻ってこられないから」てきぱきとジェイディスが言う。「あんたも明日の朝まで休みなさい。今日はダニエルとララが非番だから、様子を見てくれるように頼んでおくから」
だから大丈夫だよ、と、ジェイディスが、マリアラに言ってくれているのがわかった。マリアラはホッとした。ラセミスタを促して、立ち上がらせる。
「ラス、部屋に戻ろう? あのね、ミランダから、お菓子の差し入れをもらってるんだよ。パウンドケーキとドーナツ、わたしももらったけど、すごく美味しかったよ」
「ミランダから?」
ラセミスタが目を瞬かせた。やっと少し正気に戻ったらしい。ふわあ、とあくびをして、ふらふらと工房を出る。マリアラはジェイディスに会釈をして、ミランダの差し入れを回収して、ラセミスタに続いて工房を出た。並んで歩き出すと、ラセミスタの足取りはふらふらしているが、表情は意外にはっきりしている。そう思った時、ラセミスタがこちらを向いた。
「マリアラ、ミランダに会ったんだ」
「うん、昨日ね。今日も――というより、この一週間くらいね、ミランダと一緒に行動することになってるの。昨日はディアナさんの治療院で一緒に研修したし、今日は沖島に……」
「ああ、そっか、医局の研修のか」
「あの、ラス」
マリアラは声を潜めた。昨日のミランダの発言がどうも引っかかっていた。万一にもミランダを攻撃する意図があると誤解されないよう、気をつけて言葉を選んだ。
「昨日ね、ミランダが、できるだけ邪魔にならないようにするからって言ったの。……なんでそんな発言が出るのかな……」
それは相談というよりは、自分の疑問を口に出し、できるなら共感してもらえれば、というつもりだったのだが、ラセミスタはすぐに、ミランダの心情がわかったようだった。
うん、と頷いて、ラセミスタも声を潜めた。
「ミランダは医局の正式な治療者の登録を目指してて、色んな研修受けないといけないんだよ。でも、去年……」
去年。ミランダが製薬所の左巻きたちとトラブルになり、ラセミスタとのルームシェアを解消した、去年の冬の話は、ミランダからも聞いた。陰鬱で寒々しい、淋しい話だった。
「去年の冬は、ほとんど研修が受けられなかったみたい。主に、人間関係のトラブルによって、と、〈アスタ〉の記録に書いてあった」
「ふうん……?」
「冬の研修は、左巻き一人じゃ受けられない。危ないし、何かあったら大変だから。だから右巻きと組まなきゃいけないけど、ミランダが一緒に行動できそうな右巻きがいなかったんだって」
「待って待って。ラス、詳しいね」
「うん、昨日知ったばかりだよ。昨日、候補者の選出したから」
「候補者の?」
「国家機密ですが、今のプロジェクトは、左巻きの安全確保と行動範囲の拡大を目指したものですから――あたしはミランダに受けて欲しくて、ちょっと詳しく調べたの。といっても〈アスタ〉のデータを見ただけだけど……とにかくミランダは、何人か右巻きの候補を挙げられたけど、結局みんな、うまく行かなかったらしい。フェルドもね」
「そう、なの?」
仲が良さそうだったのに。フェルドもミランダも、お互いにいい人だといっていたように思うのに。マリアラの疑問の声に、ラセミスタは首を傾げる。
「フェルドとはなんか、どこかから横やりが入ったんだったかな。〈アスタ〉の判断だったか、医局の要望だったか……」
エレベーターホールについた。ラセミスタはまたあくびをし、マリアラを見上げた。
「これから出勤だよね? 時間……」
「大丈夫、あと三十分くらいあるし、どっちみち集合場所は二十階だから上に行くし、ドーナツの感想聞いて、ミランダに話さないとだし」
「そっか」
エレベーターホールには他に誰もいない。ラセミスタは周囲を見回し、エレベーターの回数表示に視線をやった。エレベーターがこの階に馳せ参じるのを眺めながら、ラセミスタは言う。
「……だから今回、マリアラたちが沖島行くのに合わせて、ちょっと強引なやり方で、ジェイディスがミランダの研修を押し込んだみたい」
「押し込ん……」
「や、まあ……そこまで行かなくても……でも急遽決まったのは間違いないよね、三日前には決まってもなかったんだし。ジェイディスはこないだの製薬所の一件で、マリアラとミランダが仲良くなったでしょう、フェルドともミランダは仲良いし、チャンスだ! って思ったんじゃないかな。ミランダは、だから、気にしてるのかも。無理やりおじゃまさせてもらってるって気持ちになるのは、しょうがないんじゃないかな」
その気持ちはあたしわかるよ、と、ラセミスタは、厳粛な口調で言った。エレベーターが到着し、ふたりは乗り込んだ。既に乗っている人がいたので、会話がそこでとぎれた。
――その気持ちはあたしわかるよ。
マリアラは十六階に着くまでの間、黙って考えていた。確かに――確かに、今までトラブル続きで、今年の冬に相棒になれそうだったイーサンというイリエルとも、うまく行かなかったと、昨日言っていた。そんな、自分ではどうしようもない状況の中で、相棒同士の任務に便乗する形になったミランダが、後ろめたさを感じるのは、仕方がないことなのかも知れないけれど。
――ヘンなの。
今日もまた、そう思った。
どうしてそんなに横やりだのなんだのが入るのだろう。
部屋に帰り着くとラセミスタはベッドに倒れ込んだ。マリアラはテーブルの上にミランダの差し入れの入った箱を置き、お茶を注文した。ラセミスタのさっきの食べっぷりを見れば、まだ食べ足りないだろうことは疑いなかったし、できればこれから会うミランダに、ラセミスタの感想を伝えられれば――と、思ったのだが、ラセミスタは疲れすぎてそれどころではないかもしれない。と、ラセミスタが起き上がった。寝たわけではなく、ベッドヘッドの引き出しに入れてあったなにかを取り出しただけだったらしい。
「これ、ミランダに……渡して、もらえないかな」
ラセミスタは少し迷うようにしながらそれをマリアラに差し出した。マリアラは受け取ったそれを手の中でひっくり返した。
「笛……?」
そう、それは、笛だった。それも、楽器ではなくスポーツなどで合図をするためのホイッスルである。どうやら陶器でできていて、ぽってりとした丸みが可愛らしい。白に見えるが、光に翳すと様々に色を変えてさざ波のように表面が揺れる。まるで水そのものでできているかのような不思議な質感だ。
「そう、それはね、去年、作ったの。ただ、渡していいかどうかがわからなくて……。もしかして……イヤかもしれない、って、思ったりして……」
「いや?」
「うん、だからね。だからそれ、まず、マリアラにもらって欲しいの」
マリアラは驚いた。「わたしに?」
「うん、そうなの。それでね、もし、もしも。マリアラがね、ミランダにあげてもいいかなって思ったら、あげてくれて構わないし、かっ、代わりにその、判断してもらえないかなあ。こんなこと頼むのって、失礼だったら、申し訳ないんだけど……」
それは、吹くと、【水の世界】にいるような錯覚を起こさせる笛なのだと、ラセミスタは言った。
「相棒のいないミランダは、たぶん、今後もずっと、【水の世界】に行くことを、許可されないと思うんだ」
「どうして……?」
「それは……【水の世界】は、【毒の世界】や雪山や、吹雪のさなかと同じで、危険区域に指定されているからなの。そこが人間じゃなくて、人魚の世界だから……人魚は話が通じるし、水の魔女であるレイエルのことは、自分たちの仲間だと認識していて、危害を加えてきたりはしないけれど……それでもやっぱり、繁殖の時には人間の男を捕まえて引き裂いて食べるっていうし、別の種族であることには代わりがないから、レイエルたちも、誰か人間がその中に落ちたりしない限り、できるだけ立ち入らないようにしてるの」
「うん……」
「でもね……ダニエルが言うには、【水の世界】って、すごく……すごく、いいところなんだって。穏やかで、静かで、調和が取れていて。普通の生き物にもそうだけど、レイエルには特に、本来いるべき場所というか……いつでもずっと帰りたくて、いつまでもそこにいたいような、ところなんだって。ミランダはレイエルなのに、そんな素敵な場所に一生、立ち入ることを許されないのだとしたら。それってあんまり、気の毒だと思って……でも……これはただの代替品だし、その、ただの錯覚に浸れるだけで、本当に行けるわけじゃないし……こんなもの渡したら、その、余計にその、嫌な気持ちにさせるかもしれない、でしょ。ミランダのことを考えれば考えるだけ、どっちが正解なのか、わからなくなっちゃって……あたしそういう、経験がその、全然ないから……だから」
だからそれをマリアラにもらってほしい、と、ラセミスタは小さな声で言った。
ミランダが怒るかそれとも喜ぶのか、渡していいのか悪いのか、その判断を、マリアラに任せたいのだと。
マリアラは胸の底が震えるのを感じた。まだ挨拶から始めたばかりの間柄だというのに、もうそれほどまでに信用してくれているのか、という気持ちと、そんな判断を委ねられたことに対する、気後れと。マリアラは手の中で笛を動かした。冷たくて、まるで水そのものが形を変えて出来上がったかのようなその鈴を。
「……もう、行かなくちゃ」
「うん。……気を、悪くした?」
ラセミスタが心配そうに訊ね、マリアラは顔を上げて、微笑んだ。
「まさか。でも……わたしが判断を誤ったら、ミランダが、もし、もらって嫌な気分になったりしたら……もしわたしに、その、怒るようなことがあったら。ラスも、道連れになっちゃうよ」
「そんなの当たり前だよ。作ったのはあたしだもん。……待って、もうひとつ」
そう言ってラセミスタは、箱の中からドーナツをひとつ取りだして、噛みついた。もぐもぐ噛んで、味わって、嬉しそうな顔をした。
「美味しい。すっごく美味しい。差し入れもらって、本当に嬉しい。……伝えて、くれる?」
「うん、もちろん。じゃあ……ラス、それを食べたらベッドでちゃんと寝るんだよ?」
「そうする」
ラセミスタは微笑んだ。とても幸せそうな顔をしていた。美味しいドーナツのお陰だろうか。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
ふたりはしかつめらしく挨拶を交わした。挨拶から始めると決めた以上、きちんとしておかなければ。