第二話 沖島(1)
次の日の朝。出勤時刻の一時間ほど前。
すっかり準備を整えた上で、マリアラは、三階にあるリズエルの工房の前に立っていた。
扉の前で、深呼吸をひとつ。前にここに来たときには大変な目に遭った。昨日の夕方にも来ているのに、今もまた、思い出さずにはいられなかった。扉が中に吸い込まれ、開いた中は電気嵐の渦で、バチバチ暴れ回る稲光が視界を切り裂いていた。ばすばすがすがすと突き刺さるボールペンや様々な工具。椅子の座面で何とか身を守りながら喚いていた、ラセミスタの小さな姿。
あの時砕けたはずの扉は新しいものに付け替えられていたが、マリアラは今回も、ノックする前に、ちょっと触ってみずにはいられなかった。でも大丈夫、静電気のような刺激は感じなかった。苦笑して、こんこんこん、とノックをした。中からの返事はない。
「入りまーす」
声をかけて、扉を開いて。
マリアラは、うっ、と息を止めた。
臭い。昨日の匂いが、さらに酷くなっている。
男性が数日お風呂に入らず寝泊まりしたときに必ず漂うあの匂い。むさ苦しい、というやつだ。マリアラは中に風を送り、それから足を踏み入れた。ラセミスタは相変わらずこの匂いには全く気づいた様子もなく、昨日の部屋着姿のまま、作業台の上に載せられた複雑な機械の上に屈み込んでいた。昨日の帰りに様子を見に来たときと、全くと言っていいほど姿勢も変わっていない。
マリアラは絶句し、それからあっと声を上げた。昨日の夜に差し入れた食事とミランダのお菓子が、手つかずで残っている。それも、二人分。
「……ラス、ご飯食べた?」
「んー」
ラセミスタは顔も上げなかった。昨日はもう少し反応が返ってきた。帰れないかも知れないけどちゃんと休むよ、と言っていたのに、休んだ形跡もまるでない。イーレンタールはと言えば、壁に作り付けの巨大なスクリーンに向かっていた。めちゃくちゃな勢いでキーボードを叩きまくっている。目が血走っている。壮大な隈ができている。無精髭、それからぼうぼうの蓬髪。数日部屋に戻っていないことは明らかだ。恐らく、リズエル工房が片付けられたその日から、ここに籠もっているに違いない。
「ラス、ご飯……」
「そこ、置いといて」
「ダメでしょー!」
一睡もしていないばかりか、一口も食べていない。それどころか、水すら飲んでいないのではないか。マリアラの大声にラセミスタははっと顔を上げ、イーレンタールが手を止めて、間延びした口調で言った。
「ん、あー。そろそろ、晩飯にすっかー」
「もう朝ご飯の時間です!!」
マリアラは壁に作り付けの注文パネルに駆け寄った。そして、この二人が今の今まで誰にも邪魔されずに没頭し続けられた理由に気づいた。〈アスタ〉のカメラはガムテープで封じられ、スピーカー近くの端子には見覚えのない小さな機械が刺さっている。それを引っこ抜き、ガムテープを引き剥がすと、ぱっとスクリーンが灯った。
『ジェイディス……じゃなかった、マリアラなの? あら、様子を見に行ってくれたの? ありがとう』
「アスタ、昨日の晩ご飯が手つかずだよ」
『だろうと思った。朝食の注文時間が七時ジャストだったことがわかったから、今医局からジェイディスが様子を見に行ったところ。もうすぐ着くと思うわ』
「朝ご飯……届いてないみたいだけど」
『そうなの、その人たちはリズエルだから、私の健康管理をパスするために、注文したっていうデータだけ伝えるなんてそれこそ朝飯前なのよ』
何と言うことだ。
マリアラは呆れた。思わず苦笑する。
「朝ご飯、頼んでおくね」
『ありがとう。マリアラ、でも、あなた今日は出勤でしょう? 時間はまだあるみたいだけど、その人たちのことはそんなに心配しないでいいのよ。いつものことなんだから。医局に任せて、時間になったらちゃんと待ち合わせ場所に行くのよ』
「うん、そうする」
と答えたものの、このまま放っていけるわけがない。ラセミスタの顔色は顕著に悪く、一睡もしていないどころか、一休みさえしていないことは明らかだ。幸いまだ時間はある。ミランダから預かった差し入れも、意識のある状態で改めて渡したい。朝ご飯が届くのを待つ間に空気清浄機を強にして、締め切られたままのカーテンを開け放った。ラセミスタが、ううー、と言った。
「眩しい……」
「ラス、ラス。ねえ、ちょっとってば。朝ご飯、食べないとダメだよ」
「食べたら眠くなるんだもん……」
「ラス、お願いだよ」
本当ならラセミスタの肩をつかんでこちらに無理矢理向かせたいところだったが、さすがにそれはできなかった。だって彼女はリズエルだ。国家プロジェクトに携わっているところだ。インスピレーションや数々の考えが、マリアラの邪魔立てのせいで吹っ飛んでしまったら、国家的な損失になる。それでもこのままでは早晩倒れてしまうことも明らかだ。隣に座って懇願するしかない。
晩飯にすっか、と言ったイーレンタールは、あれから背もたれにもたれてぼんやりしていたが、何か閃いたらしくまたキーボードを叩き出している。と、チン、という軽い音と共に食事の取り出し口にトレイが届いた。今朝のメニューは、ベイクドポテトの入ったシーザーサラダと目玉焼き、ソーセージ、クロワッサンとトースト、ポタージュだ。マリアラはイーレンタールのことはとりあえず後回しにして、ラセミスタの隣にトレイを運んだ。トーストにバターを塗り、目玉焼きに少しだけ熱を加えて黄身が流れ出ない固さにし、半分に折ったトーストに挟んで、万一にもパンくずが機械の上に落ちないようお皿を添えて、ラセミスタの口の前に差し出した。
「はい、あーん」
ひくひく。
ラセミスタの鼻が動いた。
そして、そのまま噛みついた。食べた瞬間、美味しかったのだろう、目がかっと開いた。ドライバーを放り出し、パンを掴んでそのまま二口で食べた。クロワッサンに移り、手づかみでソーセージを掴んだ。鬼気迫る食べっぷりだ。
「よく噛んで、ラス」
「んー!」
「あれ、マリアラ」
入口から声がかけられたのはその時だ。マリアラはホッとした。ダニエルだ。
ダニエルはその巨体を屈めるようにしてリズエル工房を覗き込んでいた。苦笑しながら中に入ってくる。
「親切だなー、マリアラ」
「え?」
「横に座って食べさせてやるなんてさ。俺には無理だ。鼻つまんで無理矢理押し込んでやりたくなる」
「うわ、くっさ」
ダニエルに続いて、見覚えのある女性がきびきびと入ってきた。製薬所で会った、医局のジェイディスだ。がっちりした厳つい体つきはいかにも頼もしい。彼女は遠慮なく顔をしかめながら入ってきて、がらっとばかりに窓を開けた。
「あ、あー!」一心不乱に食べていたラセミスタが我に返った。「風で色々飛んじゃいます!」
「大丈夫、あなたの制作中の大事な魔法道具にはカバーを掛けておきます」
言いながらジェイディスは言葉どおり、部屋の隅に積まれていたつるつるした素材のカバーを作業台の上に掛けた。
「さ、これで安心でしょ。マリアラ、食べさせてくれたの、どうもありがとう。――いいですか、イーレンタール。これからあなたは八時間の休息時間に入ります」
イーレンタールが声を上げる。「え、八時間? そんなに?」
「作業効率の観点から見ても、適度な休息と適度な食事、清潔の維持はリズエルの、権利ではなく義務です。今後もリズエルとして国家から研究環境を保証されたいなら、指示に従っていただきます」
「で、で、でもでも、勤務時間は守ってますよ、夜九時になったら戻りますから」
「昨日も聞いたわそれ。もう朝の八時だっつーの!!」
ジェイディスは事務的な口調をかなぐり捨て、ダニエルに合図した。ダニエルは苦笑を頬に刻んだまま、イーレンタールの前に箒を出した。イーレンタールは信じられないと言う顔で、自分の前に浮かぶ箒を見た。
「いい加減に風呂入れ、お前」ダニエルは言う。「それで飯食って、睡眠取れ。もう三日目だ。倒れるぞ」
「今が佳境だぜ、眠れねーよ」
「わかったわかった。じゃあ自分で歩けるよな? 風呂に入って、飯食って、三十分でいいから医局で横になれ。三十分眠れなかったら工房に戻っていいから」
「風呂とか飯とか、そんなんやってる場合じゃねえっつうの、頭ん中のあれとかこれとか、全部逃げちまったらどうしてくれるんだよ」
「大丈夫だよ、逃げやしないよ。お前の頭はそんなヤワじゃないよ」
「でもさあ――」
イーレンタールはまだぶうぶう不平を言ったが、ダニエルはなんだかんだとなだめすかしてイーレンタールを工房から連れ出した。ジェイディスはマリアラを見て、微笑んだ。
「マリアラ、ありがとうね。ラセミスタはまだ一日目だから、強制退去まではさせないけど、でも休ませた方がいいというのはわかるだろ?」
「はい、わかります」
部屋の空気はすっかり入れ替わっていた。今日は吹雪でこそないものの、外の空気は冷え切っていて、工房の空調がフル稼働を始めている。