ペナルティ(5)
と言っても、午後の患者の数は朝ほどの人数ではなかった。
一時半にフューリーが患者の受入れを始めたが、待合室が埋まったのも半分程度であり、三人で治療したら三時半には待っていた患者が全員いなくなった位だった。マリアラはホッとしていた。かすかな頭痛と僅かな倦怠感を覚え始めていたところだった。もしこのペースで五時まで治療を続けていたら、明日に差し障りが出たかも知れない。
しかし実際にはベネットは一足先に詰所に戻り、フューリーは今日の報告書に着手し、左巻きの三人は治療ブースの片隅に置かれた丸テーブルで、コオミ屋のケーキ(赤スグリジャムの入った焼き菓子生クリーム添え)と熱い香茶を囲むことになった。ディアナの表情は明るかった。疲れてはいたが、安堵と充足感の混じった微笑みを浮かべている。
「あー、このタルトがあたし、一番好きだわー」
ディアナは焼き菓子にフォークを突き刺しながら嬉しげに言った。
「甘くて酸っぱくてスパイシーで、なんて言うか、絶妙な味わいだわ。芸術的」
「これ、自分でも作れたらいいんだけど」ミランダがしげしげと焼き菓子の断面を見ながら言った。「このジャムが難しいんですよね。煮詰めすぎても緩すぎてもいけないし」
「ふたりとも、今日は本当にありがとうね。フェルドが迎えに来たら、今日はもう帰りなさいな。明日は、何だっけ、島の定期訪問があるのよね?」
「はい、そうです。泊まりがけで」
マリアラは頷く。リスナ=ヘイトス室長の持って来たスケジュール表によると、明日はミランダと一緒に、沖島、という島を訪問することになっている。
沖島は【壁】に近く、データを取るために重要な拠点である。が、本土からかなり離れているために、駐在している研究者たちは長期間に亘りその島に籠もらなければならない。その間の生活物資や必要物品、精神衛生上必要な様々なものは、マヌエルによって定期的に運び込まれる。その際、健康チェックと治療のために、左巻きの魔女が同行する。
ミランダは何度かその島に定期訪問に行っているそうで、マリアラとフェルドが、明日、彼女と同行することになっている。様々な物資を運ぶことに加え、悪天候や不測の事態からミランダを守るのが任務だ。
「そう言えばあの子――イリエルの、誰だっけ。何とかって子」
ディアナがこめかみに手を当て、ミランダはちょっと首をすくめるようにした。
「イーサン?」
「そうそう、イーサン=イリエル・マヌエル。前回はあの子と行ったんでしょ。どうだったの?」
ミランダはカップの持ち手に置いた指先を落ち着かなく動かした。その表情を見て、ディアナが言う。
「ダメだったの?」
「ええ――その、とてもいい人だったんですけど……。〈アスタ〉が言うには、魔力量の釣り合いとか、相性の齟齬とかが、あるそうで……」
「そう……」
「しょうがないですね」ミランダは困ったように微笑んだ。「あたしはやっぱりその、少し、変わり種ですから……。でも、イェイラに申し訳なくて」
イェイラ。
マリアラはその名を聞いて、ちょっと、ドキリとした。イェイラ=レイエル・マヌエル。ミランダと同じ左巻きの水の魔女で、とても美しい人だった。フェルドの疲労を一瞬で霧散させたあの時の手つき、それからマリアラを一瞥したときの、あの視線を思い出す。
「イェイラは、あたしを一人前にしようって……本当に、頑張ってくださっているので、またダメだったのか、って、がっかりさせてしまって……」
「あの子は真面目でひたむきだからねえ。でもあなたのせいじゃないんだから。イェイラだってちゃんとわかっているわよ」
「そう……ですかね」
「そうよ」ディアナは左手を伸ばしてミランダの手に触れた。「あなたの魔力はちゃんとしたレイエルのもの。れっきとした水の魔女であって、他のレイエルと何ら変わりはないんだから」
「……そうですね」
ミランダは小さな声で言って、マリアラを見た。へへへ、と彼女は笑う。
「あたしの【親】は……イリエルだったの」
「……そうなの?」
マリアラは目を見張った。そんなことが、あり得るのか。
通常、孵化する前に、そのたまごが孵化したらどの種類の魔女になるのか、ということは予測される。その精度はかなり高いと聞いた。マリアラは突然孵化したが、それでも医局に担ぎ込まれた時の診断で左巻きのラクエルと推測され、〈親〉が選出された。すなわちダニエルである。
でも、確かに、それは推測に過ぎない。精度がいくら高くても、100%じゃない限り、外れることだってあり得るのだ。
「あたしはずっと……子供の頃から、いつか孵化するだろうって言われてて、孵化しそうな子供ばかり集められた寮で、 育ったんだけど……ずっと、イリエルの左巻きだろうって言われていたの。あたしもそうなるんだと思ってたわ。いよいよ孵化が始まったとき、イリエルの左巻きが来てくれて……でも、起きてみたらレイエルだったの。すごく驚いた」
「そう……」
「だから……あたしの手助けしてくれたのもイリエルだったから、厳密な意味での〈親〉というのがあたしにはいないの。ワケありって、わけなのよ。だから……たぶんちゃんとしたレイエルの相棒は無理だろう、から……イリエルの右とレイエルの左を組ませるって話が出たときに、イェイラ……あたしの〈親〉代わりをしてくれた人が、〈アスタ〉に働きかけて、くれてたんだ。でも、ダメだったの。イーサン=イリエル・マヌエルはね、いい人だったわ。相棒になれたらいいねって言ってくれて、あたしも、イーサンだったらうまくやれるかなあって思ったんだけど」
しょうがないわ、とミランダは言った。あたしは変わり種だからね、と。マリアラは何も言えなかった。ミランダがそんな目にあっていたなんて全然知らなかった。マリアラたちが非日常を過ごしていた間にも、エスメラルダの現実は続いていたのだ――考えてみれば、当たり前だけれど。
「ごめんなさい、こんな話になっちゃって」ミランダは困ったように微笑んだ。「気にしないで。あたし、どうしても相棒が欲しいってわけじゃないんです。治療ができればあたしはそれでいいの。医局の仕事、楽しいし。今日の研修もとっても有意義だったし、沖島や南大島の定期健診に行くのも面白いわ。マリアラとフェルドには申し訳ないけど――」
「え?」
「明日もとっても楽しみにしてるの。ごめんね、できるだけ邪魔にならないようにするから」
マリアラは呆気にとられていた。ミランダが一体何を言い出したのか良くわからない。
「ちょっと待って、邪魔ってなに? どうして――」
その時、扉の外で、蒸気が上がる音がした。
マリアラは腰を浮かせた。フェルドだ。
ミランダも立ち上がった。扉が開いて、過たずフェルドが顔を覗かせた。外の吹雪は止んでいて、道を行き交う人々の姿が見えている。フェルドは中に入ってくるとぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
ディアナがのんびりと応じた。
「フェルド、お疲れさま。お茶でも飲んでいったら?」
「いや、今雪かきの方でもらってきたばっかりです。腹いっぱい」
「雪かきは体力勝負だから、お茶も食べ物もふんだんに支給されるんですって」ミランダがマリアラに言った。「イーサンは、霜降りになりそうだって言っていたわ」
「そーそー、どっかに出荷する気なんじゃないかって冗談言うくらいでさ。ふたりとも、もう出られる? 予報では今は吹雪の晴れ間なんだってさ。今のうちに戻ろう」
「ふたりとも、今日は本当にどうもありがとうね。お陰で助かっちゃったわ」
ディアナに礼を言われ、報告書に集中していたフューリーまでもが顔を上げてふたりに丁重に頭を下げた。マリアラとミランダは挨拶をして、コートを羽織りながらフェルドの方へ行った。ミランダが先に出て、マリアラが後になった。と、見送りに出てきたディアナがマリアラに囁いた。
「ミランダのこと、よろしく頼むわね」
暖かな手がマリアラの背をぽんと押す。マリアラはディアナを振り返った。皺の刻まれたディアナの表情には、寮母のような優しい色が浮かんでいた。
「あんなに能力があって、優しくて、気立ての良い子なのよ。――レイエルの素質なんて、それで充分じゃない?」
「はい、わたしもそう思います」
「ええ。ありがとう」
ディアナが微笑み、マリアラは思わず顔を綻ばせた。ディアナこそ、とても親切な人だ。まるでダニエルみたいに、周りの人みんなに気を配っている。
「それじゃあまた」
マリアラは挨拶をして、ミフに跨がった。吹雪の晴れ間というだけあって、風と雪こそ止んでいたものの、空はどんよりと曇っている。ディアナに手を振って、三人は【魔女ビル】へ向けて飛び立った。
――変わり種だから。ちゃんとしたレイエルの相棒は無理だろうから。
どこか恥じるように言った、ミランダの声を思い出す。彼女は【五ツ葉】であるという話だった。マリアラより遙かに魔力が強く、魔力の枯渇に怯えたりせずに一日中だって治療を続けられる能力の持ち主だ。おまけにレイエルだから、ラクエルであるマリアラよりずっと、大勢の人を治療することができる。体内にある水に直接働きかけることができるレイエルは、治療において別格の存在だ。
それで充分だと思うのに。
実際には、そうじゃない、と見なされるのだ。
――ヘンなの。
マリアラはそう思った。