ペナルティ(3)
真っ白で何も見えない。エスメラルダは今日も吹雪だった。
マリアラはフェルドの後ろに乗っていた。否応なしに、初めて会った時のことを思い出す。
あの時は自分の弱さとふがいなさが情けなかったけれど、相棒と仕事をするようになってからわかってきた。右巻きにとって、左巻きの魔力を温存するのは当然のことで、その左巻きの魔力の多寡にはあまり関係がないらしい。吹雪の最中に風と寒さに対抗する魔力を使うのは右巻きの役目で、それが当然で、ララとダニエルもそうしている。あのメイカとジーンでさえ、である。
『初めはそりゃ居心地悪かったよ。俺は見た目でかいし強面だから余計にな』
その話題のとき、ダニエルはそうぼやいて見せた。大の男である自分が小柄なララの後ろに乗せてもらい寒さと風から守ってもらうという構図である。傍から見て滑稽だろうと思うと本当に居たたまれなかった、と。
それを考えればお前は幸運だ。そう言われたら、確かに、と納得するしかない。そもそも保護膜を張られるし、辺り一面猛吹雪なのだから誰も見ていないし、万一見られたとしても誰もなんとも思わない。それがわかってきて、マリアラの情けなさもだいぶぬぐい去られた。
フェルドの保護膜の中は外界から遮断されたかのように暖かく、静かだった。現実感が遠のき、夢でも見ているような気分になってくる。
マリアラは、ニーナのことを考えた。それからエルギンのことを。
皆、どうしているだろう。充分なお別れもできずに来てしまった。もちろん、“帰り道”が開いたらすぐに帰ると言うことは、ランダールもゲルトも承知していた。でもやはり、心残りだった。ニーナはまだ泣いているだろうか。あの子に納得してもらえる時間が取れなかったのが、返す返すも残念だ。
でも、なんだか、この吹雪を見ていると、あの一連の出来事が、まるで夢だったかのようで。
何百年――下手したら千年以上も昔にタイムスリップしてました、なんて。〈アスタ〉やダニエルに、話したいとも思えなくなっていた。信じてもらえるような気がしなかった。ニーナの泣き声はまだ胸に突き刺さっていたけれど、ペナルティも科されたし、エスメラルダは吹雪で、みんな忙しくて、今から向かう治療院は戦争みたいになっているだろう。ニーナとエルギンは少なくとも生き延びて、自分達の生活に戻れるようになり、エルギンがルファ・ルダの統治権を得て、国民たちがマーセラ兵たちに殺されるなんてことも回避された。そこまで見届けて、マリアラは帰ることを選んだ。今さら戻ってニーナを慰めるなんて不可能だ。だったら、と考える自分がいる。折り合いを付けて、現実に向き合わなければならない。
薄情だと、思いながらも。
ディアナの治療院は繁華街ウルク地区のただ中にある。
この辺りは地下道が整備されているので、外から見ても、治療院が混雑している様子はわからなかった。というより入口が雪ですっぽり埋もれてしまっている。フェルドはまず治療院前の雪を全部溶かし、猛烈に吹き上がる蒸気を一掃して、治療院の玄関先にマリアラを下ろした。保護膜を取るとごうごうと吹きすさぶ風の音が大きくなったが、この辺りだけ風が入ってこない。マリアラが治療院に入るまで、フェルドが押さえてくれているのだろう。
フェルドはコートを着込んでいた。真っ白な町の中、マヌエルの制服である漆黒のコートはとても目立つ。もこもこの縁取りの隙間から覗くフェルドの顔色は悪くなかった。毒の影響はもう、外から見てもわからなくなっている。
――その膨大すぎる魔力が脆弱な肉体を。
思い返して一瞬ゾッとしたとき、フェルドの普段どおりの声がそれを吹き払った。
「じゃあ俺、雪かきの助っ人に行くから」
「――うん。気をつけてね」
「三時までだから、終わったら迎えに来るよ」
「わかった。無理しないで」
「そっちこそ」
フェルドは笑った。マリアラもホッとして、治療院の扉を開いた。と、愕然とした。中には人がぎっしり――文字どおり、誇張でもなく、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。聞きしに勝る混雑ぶりだ。フェルドが中に向けて声を張った。
「道を空けてください! 左巻きの助っ人です! 通してください!」
中の人々が一斉にこちらを見た。マリアラは思わず息を呑んだ。一番手前にいたおじさんが、がらがら声で言った。
「酷い混雑で通れないよ。地下道からも無理だ」
確かに、ここをかき分けて通っていくのは無理そうだ。そうマリアラが思ったとき、おじさんはニヤリと笑った。
「ここで治療を始めてくれたらいいじゃないか」
そうだそうだというようにおじさんの回りの人たちが頷き、奥から、ずるいぞ、順番守れ、と不平の声が上がる。マリアラはどうしていいかわからずおろおろしたが、フェルドが更に声を張った。
「こんな寒いところで治療なんかできるわけないですよ、熱ある人をここに出して服脱がせたら人権問題だ」
「ハウス建てりゃいいじゃないか」
「そうだそうだ、納税者の権利として――」
「指定場所以外での治療行為には届け出が必要なんですよ。――フューリーさん! 左巻きの魔女の助っ人です!」
「はい、はいはい、道をあけて道をあけて!」
奥からふたりの人が声を上げながら人々をかき分けてやってきた。
ひとりは先日も会った、治療院の事務員だ。もうひとりは強面の大柄な男で、保護局員の制服を着ている。保護局員とフューリーは丁寧に、しかし断固として人々をかきわけてマリアラの前に道を開いた。さっきのおじさんや周りの人は素知らぬ顔で道をあけている。意外に隙間があったらしい。
「――頑張れ」
フェルドがそう言い、マリアラは振り返ってうなずいた。
「ありがとう。頑張ってくる」
フューリーと保護局員の間に挟まれて、マリアラはつつがなく治療ブースまでたどり着いた。先日来たときにはほんわり優しい雰囲気の居心地のいい空間だったのに、今はまるで野戦病院である。先日は広々としていた治療ブースは今、白いカーテンで三つに仕切られ、その真ん中にディアナがいた。彼女は一心不乱に治療をしていたが、マリアラが来たのに気づいて顔を上げた。
「ああ、マリアラ、来てくれたの? ありがとう!」
「ディアナさん、お疲れさまです。製薬所から薬の補充も預かってきました」
マリアラが差し出したケースをフューリーが受け取り、白い手袋をはめた手でてきぱきと元の大きさに戻し、中身を取り出して、しかるべき場所に保管していく。マリアラはコートを脱いで片付け、手を洗った。そして、ディアナの隣のブースに入って座った。「次の方、左のブースへどうぞ!」保護局員が患者を案内してくる。マリアラは腕まくりをし、呼吸を整えた。
さあ、現実の始まりだ。
あっという間に午前が終わり、あっという間に昼食時も過ぎた。我に返ったときには待合室にいた患者は全員いなくなっていて、ディアナがカーテンの向こうで、最後のひとりに説教している声が聞こえてきた。
「いいですか、風邪は予防できるんです。うがいと手洗いを習慣にしてください。適度な温度と湿度を保って、栄養を取って休養も充分取って、予防に努めていただきたいの」
「はいはい、わかりました、先生。どうもありがとうございました」
そう答えたのはどうやらさっきのがらがら声のおじさんだ。ディアナの説教も効いた様子がなく、半日近く待っていたというのにげんなりした様子もなく、機嫌よく帰って行く。彼が地下道の扉を開けて出て行くと、フューリーがそこに鍵をかけた。ふうう、とディアナがため息をついたのが聞こえる。
「お疲れさまでした。どうぞこっちへ」
保護局員がマリアラを差し招き、マリアラはよっこらしょ、と立ち上がって治療ブースを出た。と、そこで、保護局員の声に応じて待合室へやってきたのが、マリアラとディアナだけでないことがわかった。そこに立っていた同じ年頃の少女を見て、マリアラはちょっと驚いた。いつの間に来たのか、ちっともわからなかったので。
「マリアラ、お疲れさま」
マリアラとフェルドの“特別な任務”の関係者であるミランダ=レイエル・マヌエルが、さらさらの黒髪を揺らして微笑んだ。マリアラも微笑んだ。ミランダにまた会えて嬉しかった。ラセミスタに科せられたペナルティはラセミスタにとって望ましいものだったが、マリアラに科せられたペナルティもまた、マリアラにとって、望ましいものだった。
過酷な冬に立ち向かうため、現在の勤務状況を見直し、さらに効果的で効率的な体制の構築のため、様々な取り組みが始まっている、と、ヘイトス室長は語った。その一環に、イリエルの右巻きとレイエルの左巻きを組ませるというものがある。ミランダはその候補の筆頭に挙がっているそうだ。
フェルドとマリアラはラクエルだが、【毒の世界】への“穴”が開かない限り、仕事はイリエルと変わらない。この一週間、ミランダと行動を共にして、年齢の近い若者同士の親睦を深めつつ、レイエルの仕事とイリエルの仕事、お互いの状況についても理解を深め合う。これが今回の“ペナルティ”の内容であった。ヘイトス室長の威圧感と話し方が思わせぶりだっただけで、〈アスタ〉は別にペナルティを科したつもりもなかったに違いない。