第一話 ペナルティ(1)
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バチバチと暴れ回る放電の渦の中に身を乗り出すララの姿が見える――そう思った時ラセミスタがその先に転げ出たのが見えた。と、ララの腕がフェルドの袖と、マリアラの腕を掴んだ。引きずり出された、その瞬間、マリアラは周囲が既に静まり返っているのに気づいた。
もはや、稲光の渦はどこにもなかった。そこはどうやら、居間の、ようだった。居心地の良さそうな部屋だった。食器やお茶の道具が並ぶガラス棚のそちこちに、本が詰め込まれている。
ダイニングテーブルの上には、複雑な機械が所狭しと並べられていた。その脇に立った男の人の腕の中にラセミスタがいた。マリアラの隣にはフェルドがいて、ふたりの正面に、ララがいた。ララは真っ青だった。フェルドの袖を掴んだ指と、マリアラの腕を掴んだ手が、小刻みに震えている。
と。
ララがいきなり、マリアラの頬に指を伸ばした。
ララの手が触れた瞬間、その冷たさに驚いた。しかし次の瞬間もっと驚いた。ララはマリアラの頬をつねり上げたのだ。「いたいっ!」思わず悲鳴を上げた瞬間、ララのもう片方の手がフェルドの耳に伸びていた。「い……っ!!」フェルドが声を上げた。マリアラの頬を放したララの手が、ラセミスタの髪に伸びた。ラセミスタは身をひこうとしたが、間に合わず、ふわふわの髪をララが掴んで引いた。
「痛いっ! 痛いよララ!!」
「ほ……本物だわ」
ララは喘いだ。あまりの痛みに涙目になった三人よりもよほど泣き出しそうな顔で、ララは呻いた。
「……よかっ……」
「お帰り」
初老の男が口を開いた。グレゴリーだ、と、マリアラは思った。フェルドが『あちら』で一度見たと言っていた。ラセミスタの師であり、エスメラルダで一番有名なリズエルである。空島に住んでいて、数々の業績を残した天才だ、と聞いてはいたが、こうしてみると普通の人に見える。
しかしグレゴリーは怒っていた。長々と三人を見据えて、グレゴリーは言った。
「お帰り。よく帰ってきたね」
言葉面こそ褒めているというか労ってるようであるが、にこりともしないのでマリアラはそわそわした。怒ってる、と思う。ものすごく、怒っている。
「さて、冒険はどうだったかね。楽しんで来たかね? ――フェルド、私に、何か言うことがあるよな?」
グレゴリーは静かに訊ねた。マリアラはもじもじしたが、フェルドが、多分こういう事態に慣れているのだろう。落ち着いた声で言った。
「心配かけてごめんなさい。迎えに来てもらえて助かりました」
「ふん」
グレゴリーのしかめた眉が和らいだ。それでもグレゴリーは、しばらくの間、不機嫌を装おうとしたようだったが、ついに、苦笑した。
「……君にはかなわないよ、フェルド。君のようなやんちゃ坊主にそう素直に謝られちゃ、自分が大人げないことをしているような気になるじゃないか。そもそも怒る筋合いだってないんだ、君たちに罪がないのはわかっているんだから。単なる事故だったんだからね。一度道が開いたときにフェルドが帰還を拒絶したときは腹も立ったが、いやいや、君はあのときひとりだったのだから、のこのこ帰るわけには行かなかったという心情も理解できる。唯一責があるとするならばラセミスタだが――」
ラセミスタが、っ、と息を呑んだ。おそるおそる自分を見つめるラセミスタに、だが、グレゴリーの目はあくまで優しかった。
「君を咎めては私が若い頃にしでかしてきた数々の過ちを棚に上げることになるからな。私は君を見くびっていたようだね、ラス。十六歳やそこらで箱庭を形成する時空の歪みとラクエルの持つ特殊な魔力波長の関連性に気づくとは思わなかったよ。だがエスメラルダという場所で、ラクエルの波長を調べることは危険きわまりない。その程度の危機感は持っていて欲しかったな」
「はい……」
ラセミスタは不思議そうに答えた。グレゴリーが何を言っているのか、マリアラには良くわからないが、ラセミスタもあまり良くわかっているとは言えないようだ。グレゴリーは苦笑して、マリアラと、そしてフェルドを見た。
「君たちがどこへ行っていたのかは、私は聞かない。ララも聞かないそうだ。そして、いいかね、三人とも、君たちが行っていた先については、今後一切、金輪際、誰にも話さないことを肝に銘じた方がいい。アスタにもだ。〈アスタ〉にもだよ、いいかね」
マリアラは一瞬、逡巡を感じた。〈アスタ〉は寮母のようなものである。マリアラは今まで、寮母に無断で外泊をするような冒険とは無縁の生活を送ってきた。その上嘘を重ねるということは世間一般として勧められないことのはずだ。なのにそれを目上の、社会生活を営む大人から、勧められるとは思わなかった。
グレゴリーはマリアラを見て、頷いて見せた。わかっているよと言うように。
「必要なことだ。〈アスタ〉が知っているということは、元老院も知っているということだからね。
いいかい、良く覚えておくんだよ。君たち三人はラセミスタの研究していた【穴】を自在にあける魔法道具の暴走で、どこかわけのわからない場所に飛んでしまった。無人島がいいだろう。誰にも会わなかった。君たちがそこにいたのはほんの短い時間で、しかも夜だったから、ほとんど何も見なかった。ダニエルとララの要請を受けて、私が、ラセミスタの残した魔法道具を解析して、君たちの居場所を見つけ、連れ戻した。そういうことにする。いいかい、こっちでは三日経ったよ」
三日。
マリアラは驚いた。たった、三日しか経っていなかったのか。
「いいかね? 君たちは皆前途ある若者だ。ラクエルの若いペア、それから最年少のリズエル――君たちを喪うことはエスメラルダにとって損失だ。だから、賢く立ち回ってもらいたい。元老院に本当のことを知られたら審問にかけられる。モルモットのように扱われるのは本意ではないだろう。口を噤んでいなさい。ルクルスと同じくらい、ラクエルは彼の神経を逆なでする」
――彼?
それは、誰のことなのだろう。
疑問は湧いた。ルクルスという単語にも。
ルクルス。呪われ者、という意味だ。魔力の素養の全くない、ごく簡単な魔法道具でさえ使うことの出来ない、何千人にひとりという希有な存在のことだ。そう思って、ちょっと、ぞくりとした。先日、南大島で、マリアラとフェルドはルクルスに会った。薄汚れてはいたけれど、とても可愛い子供たち。あのラルフという少年は、まるで美しい獣のような存在だった。
彼らは、訳ありのようだった。普通のエスメラルダの住民と、同じ境遇にいないことは明らかだった。
けれどグレゴリーはそれ以上説明せず、まずフェルドをじっと見た。フェルドは少し考えたようだが、素直に頷いた。
「わかった。そうする」
グレゴリーの視線がこちらを見た。じっと見られて、マリアラも頷いた。
「そ、そうします」
「よし」
グレゴリーは微笑んだ。暖かな人柄のにじみ出るような、とても優しい笑みだった。
「もう戻っていいよ。疲れただろう――ララは君たちを迎えに行く動力を、この短い時間に二度も提供したんだ。部屋まで送ってあげなさい」
「大丈夫よ」
ララはそう言ったが、しかし、疲れ切っていることは明らかだった。さっきマリアラの頬をつねり上げた力が嘘のように、ララは今、床に座り込んでいた。その身体の小ささに、マリアラは胸を衝かれた。
ララはいつも、マリアラを見下ろしているような気がしていた。もっと大きくて、元気で強くて、明るくて、前に立って手を引っ張ってくれる存在だと思っていた。
けれど実際のララは、自分よりもまだ小柄だったのだと、初めて思い知った、気がした。
「ララ――」
「ねえあんたたち、帰る前に着替えた方がいいわよ。マリアラ、すごく似合うわ。可愛いじゃない」
「え、え?」
そう言われてマリアラは、初めて、自分の格好に思い至った。マーシャが複雑な形に髪を結い上げてくれ、今日は船旅だったのでドレスではなかったが、凝った刺繍の施されたワンピースを着ていたのだ。ララはその刺繍を見て、少し、頬を綻ばせた。血の気の失せた頬に赤みが差した。ララは、慈しむように言った。
「どこに行ってたんだかわかんないけど――あんたたちの行ってた“無人島”は、結構豊かで、いい時代だった、みたいね。良かったわ……」
ララがその時どういうつもりでその言葉を言ったのか、マリアラにはわからなかった。しかし、これを着替えなければ帰れないことは確かなことだ。ラセミスタがグレゴリーに、あの部屋を貸して下さい、と言った。もちろん、とグレゴリーが頷く。
「フェルドはそっちで着替えなさい。ラス、マリアラを案内してあげられるね?」
「はい、もちろん」
ラセミスタが頼もしく頷く。グレゴリーは眉を上げ、そして、微笑んだ。――幸せそうに。
マリアラの後ろにラセミスタが乗り、フェルドの後ろにララが乗った。ララは本当に、疲れ切っているようだ。
グレゴリーに別れを告げて【魔女ビル】に帰る間、みんな口数が少なかった。ララの疲労は本当に深刻だった。どうやら、地下神殿でフェルドがグレゴリーとララを目撃した一度目は、こちらでは、今日の午前中に当たるらしい。数時間休憩を取っただけで、ララはグレゴリーを説得し、さっき、もう一度道を開くための動力を提供したのだ。
休んでからでも。明日になってからでも。良かったのに、と、思ったが、それは言えなかった。休むどころではなかったのだ、と、想像ができたから。
「……ごめん、ララ」
フェルドが言うのが聞こえた。フェルドの背にもたれかかっていたララは、クスッと笑った。
「やけに素直ね。気味が悪いわ。一度目で帰れなかった理由はもうわかってるから、謝らなくていいの……本音を言えば、あたしをあっちに引っ張り出してくれれば良かったのにって……思わないでもなかったけど」
「あー、その手が……」
「……ダニエルがいなかったのはね」
言いかけて、ララはわずかに口ごもった。
「あんたたちを心配してないってことじゃないのよ」
「それはわかってるよ」
フェルドの答えに、ララは微笑んだ。
「……そんならいいわ。明日、ダニエルにも謝りなさい。グレゴリーの言ったこと、覚えてるわね。
大丈夫よ。グレゴリーが〈アスタ〉に、うまいこと情報をインプットしてくれると思うわ。無人島で三日過ごした、誰にも会わなかった……その嘘は、あんたたちのためだけじゃなくて、もう、グレゴリーも共犯になっちゃってるんだから……忘れないで、しっかり守るのよ」
「うん」
「ダニエルにもよ。……いいわね?」
うん、と、マリアラは頷いた。〈アスタ〉だけでなくダニエルにも、嘘をつくのは後ろめたいけれど――でもしょうがないのだと、思った。グレゴリーとララがどういうつもりでそんな指示を出しているのか、まだきちんと理解したとは言いがたいけれど、自分達のために道を開いてくれ嘘の共犯にまでなってくれたララとグレゴリーに、何らかの不都合が降りかかる事態は避けたい。
「すごいネオンだね……」
マリアラの後ろで、ラセミスタが言った。ラセミスタはしっかりとマリアラの背にしがみついていた。うん、と頷くと、ララがそれを見て、明るい声を上げた。
「あら。……ずいぶん打ち解けたんじゃないの? 仲良くなったの?」
「まだだよ」ラセミスタが厳粛な口調で言った。「部屋に戻ったらね、挨拶から始めるんだよ」
「は?」
フェルドが笑う。「今から始めんのかよ。何始めるんだよ」
「だから挨拶からだよ!」
ラセミスタは大まじめだ。ララがマリアラを見、マリアラはにっこりと笑って見せた。そうだ、と思った。帰ってきた。帰ってきたのだ。現実に戻って、そして、挨拶から始めるのだ。ニーナとエルギンと一緒に過ごすことを選択しなかった代わりに取り戻した、この現実で。