祝宴と遺跡(4)
ところが、ニーナの行動力について、マリアラは過小評価していたことにすぐに気づくことになった。
みんなのところに戻ると、ちょっとした騒ぎになっていた。
神殿の中庭に、キャンプができていた。料理人がそこで、晩餐のご馳走を作り始めていた。テーブルの上に真っ白なテーブルクロスをかけ、マーシャは既に食器の準備を始めていたらしい。今そのテーブルは整えられる途中で放り出され、マーシャはおろおろとエプロンを揉み絞っていた。料理人はフライパンを片手に立ち尽くし、イーシャットとマスタードラ、フェルド、ラセミスタと学者たちは、みんな頭上を見上げている。
その視線の先に、ニーナがいた。
さっきの階段を、ニーナは上へ行ったらしい。今彼女がいるのは三階だ。もしここが一般的なエスメラルダの集合住宅だったなら、五階に相当しそうな高さだった。ニーナは三階から張りだしたベランダ的な部分にいた。手すりを乗り越え、こちらがわに腰をかけたところだった。
「ニーナ!?」
「マリアラ、帰らないで!!」
ニーナは金切り声を上げた。その声はあまりに切実で、あまりに切羽詰まっていて、マリアラはゾッとした。何をしでかすかわからない、そんな危うさをはらんだ声だった。
「……帰らないで! あたし、あなたたちに会えなくなるなんて、絶対に嫌……!!」
「ニーナ、降りてこい!」マスタードラが叫ぶ。「わがままを――」
「マスタードラは平気なの!? 会えなくなっても! 二度と! ……二度と会えなくなっても……! マスタードラは、マリアラたちが死のうとしたら助けるでしょう!?」
「え、え!?」
「死のうとしたら助けるでしょう! ……だったら! 二度と会えないところに帰るのは、死ぬと言うこととどう違うのよ……!」
あの子はまだ子供なのだと、マリアラは思った。そりゃそうだ。大人びた言動と振る舞いに忘れがちだが、だってまだ、九歳だ。子供は妥協を知らないものだ。そして、一途で、純粋だ。
幼い頃に大切な両親を殺され、永遠に喪ったあの子にとって、また大切な人に二度と会えなくなることは、耐えがたいことなのかも知れない。
「あたし、無鉄砲なんだから……! マリアラがいなくなったら、みんながいなくなったら、ここから飛び降りてやるんだから! 大ケガして、死んでやるんだから! そしたら、そしたらマリアラ、あたし、あた……あたし……あたしを治せるのは……あなた、だけ……なんだから……」
ニーナは泣き出していた。それでもなお果敢に手すりにしがみつき、徹底抗戦の構えだった。マリアラは胸を衝かれた。ニーナの策略はあまりに稚拙で、その場しのぎのものでしかない。自分へかけられる愛情と同情だけを担保にした、とても捨て鉢な賭けだ。
だからこそ、困った。なんて効果的な賭けだろう。
どうすればいいの、と、また思った。あやせばいいの? 今このときだけでも嘘をついて、それで……
「ニーナ」
頭上から、エルギンの声が響いた。
いつ来たのだろう。エルギンは、フィに乗ったまま、ニーナと同じくらいの高さのところに浮かんでいた。ニーナは「来ないで!」と叫んだ。エルギンはフィから両手を放し(マスタードラが息を呑んだ)、危ういバランスを取りながら、まあまあ、というように挙げた。
「ニーナ、僕は一度失敗した。だから今度は君に話すよ。誠心誠意、心を込めて、君を説得する」
エルギンは穏やかな口調で言った。フィが少しニーナに近づく。
「アナカルディアの川の畔で、ニーナは言ったよね。ここの魚を獲る方法はないか。マリアラとラセミスタに食べさせてあげたいから。だってそうでもしないと、恩が貯まる一方だからって。……ニーナ、落ち着いてよく考えてご覧よ。今君のやってることは、恩返しとは真逆じゃないか」
「……だって」
「マリアラを引き留めるために、わざとケガをして治療してもらうの? あの三人には帰る家があって、帰りたいから帰るんだって、そう言ってるのに。ねえニーナ、アナカルディアに向かっていた間、君も帰りたかっただろう? マーシャのところに……ランダールのところに、帰りたかっただろう? 巡幸に行ってる間だって、帰りたいだろう? 国中の人々のために祈っている君を、誰かが捕まえて、この地の歪みと魔物を追い払うためだけに閉じ込めたら、君はどう思うの?
君は説得の通じる相手だって、僕はよく知ってる。アンヌ様に言われるまでもなく、君は賢くて優しくて思いやりのある子だって、充分知ってる。……だからそんなことはやめて。帰りたいと言ってる相手を、無理に閉じ込めるようなまねはしちゃいけない。尊重してあげなくちゃ。相手の意思を」
ばちっ。
あの音が聞こえたのはその時だ。
フェルドが身じろぎをし、ラセミスタが振り返った。しかしエルギンとニーナは少し離れていて、聞こえないようだった。
「帰りたいと言ってるんだ。邪魔しちゃいけないんだよ」
「でも……」
「ここにいてくれる間に、できるだけ居心地良く、楽しく、過ごしてもらって、美味しいものをいっぱい食べてもらう。知りたいことがあったら何でも教えてあげて、やりたいことは何でもできるように手伝ってあげる。恩を返すって、そう言うことじゃないか」
ごおっ。
暴風が、わき起こった。
まだおやつ時だ。太陽は高く上がっていて、その閃光は周囲を切り裂くほどには強くなかった。ばちっ。耳をつんざくほどの鋭い音に、ニーナとエルギンも気づいた。「ああ――!」事態に気づいたニーナがバランスを崩し、すかさずミフが飛んだ。落ちながらニーナはミフの柄に縋り付き、しっかりつかまった。
ニーナを乗せたミフは緩やかに弧を描き、マーシャのところへニーナを送り届けた。マーシャがニーナを抱き留め、そのふくよかな胸にしっかりと包み込んだ。ラセミスタは、今、走って戻って来ているところだった。手に、マリアラが預けていた巾着袋を持っている。
帰ろう。
ラセミスタの目が、そう言っていた。
「いや……!」
ニーナが叫んでいる。エルギンを下ろしたフィが、フェルドのところへ飛んできた。帰ろう。フェルドが考えたのがわかった。
マリアラは振り返った。
稲光の渦がそこにあった。
フェルドから聞いていたとおり、グレゴリーとララがそこにいた。ダニエルが見えないことに、少しだけ疑問を抱いたが――ララの表情を見た瞬間、マリアラは泣き出したくなった。懐かしい。――懐かしかった。胸を掻きむしられるかのような衝動が、マリアラの足を踏み出させた。エルギンが「あ」と声を上げ、イーシャットが、「ああ、」と呻いた。マスタードラは無言で、鞘に入ったままの剣を持ち、祈るように掲げて見せた。「あああ――」リルア石の研究者がふたり声を振り絞り、マーシャが涙を堪えて手を挙げた。その胸の中で、ニーナが叫ぶ。
「いやだ……!」
「ごめんね、ニーナ」
もう二度と会えないだろうとわかっていた。それでもララの泣き出しそうな表情を前にして、帰らない、という決断なんて下せるわけがなかった。帰りたい。あっちでの日常を取り戻したい。その、飢餓にも似た強い欲望に、あらがえるわけがなかった。帰ろう、と、マリアラも思った。帰ろう。帰るのだ。この時代の人々を捨ててでも。可愛いニーナの手のひらを、振りほどいてでも。
「さよなら。元気でね」
ミフがマリアラの胸元に飛んできた。忘れ物は、たぶん、ないはずだ。ラセミスタに向けて、グレゴリーが手を伸ばしている。ラセミスタがその手を掴んだ。「マリアラ」フェルドが呼んで、マリアラは、最後に大きく手を振った。
笑顔を浮かべて。できる限りの微笑みを。せめてもの、置き土産に。
「さよなら――」
稲光が空間を切り裂く。激しく踊り回る閃光の中に、マリアラは足を踏み出す。
――もう二度と会えないと言うことは、死ぬと言うこととどう違うの?
稲光の渦にさらされ、翻弄されながら、マリアラは考えた。全然違う。だってニーナは生きている。エルギンも、生きている。皆生きていて、それぞれの人生を歩んでいく。きっと幸せになってくれる。
二度と会えなくても、そう――祈ることは、できる。
そのことを、あの子がいつか、わかってくれると、いいのだけれど――。