【番外編】祝宴と遺跡(1)
「ま、マリアラ、と申します。歓待していただいて、本当にありがとうございます――」
そう言った瞬間、どっと歓呼の声が上がり、マリアラは目眩を覚えた。
噴水のある広場である。広場全体に、国中から集められたかのような数の丸テーブルが並べられ、花や果物で美しく飾り付けられている。その隙間を縫うように、人、人、人。こちらも国中の人々が集まっているに違いないと思えるほどの数の人々が、皆マリアラを見ている。
学校でたたき込まれたはずのスピーチ技法が吹っ飛んでしまった。頭の中が真っ白だ。
次に何を言う予定だったのか思い出せない。焦る。焦れば焦るほど頭に血が上り窒息しそうになる。目眩がする。自分が立っているのかよろけているのかわからない。進退窮まったとき、明るいひょうきんな声がその空白を救った。
「彼女は医師なんだ、皆知ってるよな! これがもう神業みてえな腕前でさ! 狩りの時、卑劣なマーセラ兵団長ヴァシルグが、ニーナ様とエルギン様を襲った。エルギン様はニーナ様を庇い深手を受け、ニーナ様がエルギン様を引きずって逃げた。降り注ぐマーセラ兵たちの刃と矢、嘲り嗤う声の中、ニーナ様は絶望しながらも果敢に王子を――」
イーシャットの声は朗々と響き、あの時のニーナとエルギンの恐怖と屈辱と痛みを、まざまざと人々の心に呼び起こして見せた。諜報担当だという話だったが、吟遊詩人になっても充分やっていけるだろう。マリアラは感謝していた。助けてもらえて本当に助かった。お陰で息が吸えるようになった。人々はマリアラを注目するのを辞め、イーシャットの声を聞き漏らすまいと息を詰めて耳を澄ませている。
「――そこへ現れたのがマリアラとラセミスタ。マリアラの隣の少女がラセミスタだ。マリアラはエルギン様の深手をたちどころに治したが、ヴァシルグの魔手が迫っていた。そこでラセミスタが不思議な乗り物を作った。信じられるか、空飛ぶ橇だって言うんだぜ! ふたりは“花”と王子を橇に乗せ――」
ラセミスタはスピーチは無理ですお願いですスピーチしなきゃいけないならパーティは欠席させていただかざるを得ません、と、必死で頼み込んでいた。それをイーシャットも弁えていて、巧みに話を組み立てていく。途中でイーシャットに促されラセミスタが会釈するだけで、人々は拍手と歓呼を浴びせた。それでマリアラとラセミスタの紹介も済んだというわけだ。イーシャットの手腕は鮮やかで、マリアラはホッとしてラセミスタと顔を見合わせた。ラセミスタが血の気の失せた顔にようやく笑みらしいものを乗せた。自分も同様だろうとマリアラは思う。
しかしこれで、義務は果たした。ほとんどイーシャットに肩代わりしてもらった格好だが、それでもなんとか済んだことは済んだ。マリアラはようやく少しくつろいで、イーシャットがかいつまんで――しかし叙情たっぷりに、あの不思議で怖ろしい数日の冒険について語るところを聞いた。今さらだけれど波瀾万丈だった、と、他人事のように思う。
今日、彼らは主賓席に座っていた。ひときわ大きな、一番豪華に盛り付けられたテーブルである。マリアラの左隣にフェルドが座り、ラセミスタは右隣。フェルドの向こう側には正装を着たエルギンがおり、ラセミスタの向こう側に花のように着飾ったニーナがいた。ラセミスタも磨き上げられ、ドレスを着せられていて、ニーナと並ぶとまるで二対の芸術作品のようだった。ふたりの愛らしさに、人々のあちこちから感嘆のため息が漏れている。
フェルドは白の、かっちりした印象の衣装を借りていた。金糸と青の縁取りがあるその衣装は、マーセラ神官兵の礼服なのだという。とても良く似合っているが、詰め襟がいかにも窮屈そうだ。マリアラはフェルドを盗み見て、顔色が良いことに満足した。毒はまだ完全には抜けきっていないだろうが、後遺症もだいぶ消えたらしい。
「――そしてエルギン様は無事狩りの評定に間に合い、晴れて! ルファ・ルダの統治権を得たというわけだ!」
「皆様の」
イーシャットの口上が終わるとすぐに、エルギンが立った。高い声が凜と響き、人々は水を打ったように静まり返った。エルギンはマントを捌いてテーブルを回り、こちらに向き直った。丁重に一礼して、述べる。
「ご親切に感謝を申し上げます。私の至らなさが招いた危機を、皆様が、ひとつひとつ救って下さいました。ありがとうございました」
「私からも」いつの間にかニーナがエルギンの傍に立っていた。「感謝を申し上げます。フェルド、マリアラ、ラセミスタ。【最初の娘】の感謝をどうぞ、お受け下さい」
「乾杯!」
ランダールが声を張る。唱和される乾杯の声は、地面を揺るがすほどだった。
そして、そこからが本当のパーティの始まりだった。
賑やかな音楽が始まった。そのリズムに乗るようにして、次から次へとご馳走が運び込まれた。色んな人から挨拶を受け、お喋りをしながら美味しいものをたくさん食べた。香草の効いた魚の蒸し焼き、甘辛いソースのかかったゆで豚、かりっと揚げた鶏の足、ゆで玉子とチーズのグラタン、トマトソースのスパゲッティと焼きたてパン。とりわけマリアラの心を掴んだのはベリーパイだ。赤スグリ、黒スグリ、青スグリ、いちごなど、色んな種類のベリーを煮たものが入っており、結構酸っぱいが、その酸っぱさがやみつきになる。クィナのジャムをのせたずっしり重いパウンドケーキも美味しかった。砕いたナッツとドライフルーツが入ったヨーグルトのパイはレナンが効いていて、これまたマリアラの好みの味だった。カボチャのパイを食べたあと、爽やかな香りの冷たいお茶を飲んだ。もうこれ以上は、どう頑張っても食べられない。
「ちゃんと食ってるか?」
イーシャットがやって来た。マリアラは頭を下げた。
「イーシャットさん、さっきはどうもありがとう」
「あ? 何が?」
「さっきの挨拶の時、わたし上がっちゃって、頭の中真っ白になっちゃって――」
「あーあー、気にすんなって。俺は非常事態にゃ役に立たないからね、こーゆー時くらい活躍しねーと」
「そんな。カーディス王子を担いで逃げたりしたんでしょう?」
「それくらいはやんないとねー。いやでもホント良かったわー、なんとか助けられてさ」あっけらかんとイーシャットは笑う。「王子が魔物に殺されたりしてたら、こいつに黒焦げにされるところだった」
ゆで豚→鶏の足→ローストビーフ→猪肉のシチュー、と延々食べ続けていたフェルドが顔を上げた。意外そうな顔。
「なんだそれ」
「いやだってさ、王子攫われたときめっちゃ怒ってただろ。あんとき正直怖かったもん、殺す殺す殺すとか言っちゃって」
マリアラは驚いた。フェルドは、事態が深刻になっても冷静で、いついかなる時でも落ち着いている印象だった。【魔女ビル】の地下――あの泉のある礼拝堂で魔物に追いつかれ、襲われたときも、焦ったり慌てたりする様子がなかったから。
と、ラセミスタが声を上げた。
「王子が魔物に攫われたときって……それってもしかして、魔物が、蜂――」
「ラス」
フェルドが言い、その声のもつ不思議な響きのためにか、ラセミスタは自分の口をぱっと押さえた。マリアラと目が合うと、ラセミスタは両手で口を押さえたままぱちぱちと瞬きをした。マリアラはフェルドを見た。フェルドはラセミスタの方を見もしていなかった。知らん顔で、ゆで豚の載った大皿からもう一切れ、自分の取り皿に移している。イーシャットがマリアラを見、マリアラもイーシャットを見た。今のやり取りはなんだ? いえ、わかりません。
「なになに、どうした?」
「どうもしねーよ。それよかどうすんの? 明日行ってみるつもりだけど、本当に行くのか」
フェルドが話を変え、イーシャットはまだ釈然としない様子ながらも、ひとまず合わせることにしたようだった。
「あー行く行く、空飛ぶ箒に乗れる機会を逃す手はねーだろ」
「マリアラも行く?」とフェルドがこちらを見た。「せっかくだからちょっと遠出してみようと思って。西の海の先に島があるんだよ。それが位置的には【壁】の向こうに当たるんだ。前からずっと、一度行ってみたくてさ」
ラセミスタが口から手を放した。
「……やめてよ、その間にもし迎えが来たらどうするの? グレゴリーはたぶんフェルドの魔力の波長を辿ってくると思うんだよ、一番手がかりにしやすいから。だから――」
「皆揃って行けばいいじゃないか」
「やだよ、あたしここの技術者さんたちと打ち合わせやるんだもん。やっぱ思うんだけど光珠くらいはさ、文化レベルから見ても、そろそろ在ってもいいと思うんだ。今のうちに基礎の基礎くらいは」
「うーん。そんならお前はここで打ち合わせしてろよ、グレゴリーが俺の魔力を辿ってくるんなら、俺まだ完全復活ってわけじゃないから。あと数日くらいは平気だろ」
「そんなのわかんないじゃん! ねーマリアラ、何か言ってやってよー」
ラセミスタが、本当にうちの兄は困ったもんでしょ、という調子で言った。ここ数日でわかったが、本当に、この二人は兄妹のような間柄らしい。気安いやりとりがとても自然だ。
するとフェルドが、マリアラを見た。
「その島は、ルファルファ信仰の聖地とされてるんだって。ルファルファは闇の女神だから、太陽の沈む方角にあたるその島に、かなり重要な信仰の拠点が作られてて――そこまではアナカルシス兵もさすがに行ってないから、全盛期のルファルファ神殿が、完全な形で遺されてるらしい」
六年前、この土地はアナカルシスによって占領された。ルファルファの信仰を禁じるため、アナカルシス国王は、神殿の破壊を命じた。ルファ・ルダはもちろんのこと、アナカルシス全土にあった数多の神殿が、すべて打ち壊された。
つまりその島に残る神殿は、この地上に完全な形で残っている、唯一のルファルファ神殿、と言うことに――
「行・く……!」
「ちょっ、マリアラ!?」
「だってラス、これはすごいことだよ!? 見たい、わたし見たい! 行ってみたい行ってみたい行ってみたい……!」
「いやだってマリアラっ、一度帰り道が開いたここの地下神殿からあんまり動かない方がいいってっ、」
フェルドがすかさず口を挟んだ。「建築されたのは恐らく今から五百年くらい前だろうって」
「五百年!? なんてすごいの! 五百年前の建築物が、完全な形で残ってるなんて……!」
「……どうしよう多数決で負ける……そんなバカな……」
ラセミスタが頭を抱えている。フェルドがニヤリと笑い、ラセミスタは苦笑し、しまいに笑い出した。
「わかったわかった。じゃあ明日、みんなで行ってみよう」
「ありがとう……!」
「ニーナも連れて行ってやってくれ」
ランダールが口を挟み、成り行きを見守っていたニーナが声を上げた。
「兄様っ、いいの!?」
「いいさ。巡幸の再出発は来週だ。今はのんびり遊んでおいで」
「わあ……!」
ニーナが走ってきて、マリアラにぎゅっと抱きついた。花の香りがした。ニーナの髪を彩るのは四枚花弁の可憐な花だ。仄かないい匂いを振りまいて、ニーナは花そのもののような笑顔で笑った。
「すっごく楽しみ! マーシャにお弁当を頼まなきゃね!」