エピローグ
本体が燃えている。熱い。焦げる。燃える。苦しい。悔しい。悔しい悔しい悔しい。
育ちすぎた巨体は簡単には動けなかった。またフレデリカが毒を持ち出しすぎたのも良くなかった。巨体の隅々まで毒が行き渡らず、動きが愚鈍な本体は、アンヌ率いる襲撃者たちの格好の餌食となってしまった。
アンヌも思いきった行動に出たものだ。王宮が崩れても構わないのだろうか。杭が燃えないよう細心の注意を払ってはいたようだが、下手すれば崩壊していてもおかしくなかった。
自らの本体が。遠くで確固たる存在感を持っていた安らぎが。燃えていく。燃えていく。苦悶と苦痛と憎しみと、毒が毒が、冷たく冷酷で確実な安寧がはぎ取られ奪われ踏みつけられ。あああ、と、フレデリカは思う。死ぬ死ぬ死ぬ。滅んでしまう。長い間アナカルシス王宮にしがみつき、王を蝕み暴君へ傾かせてきた営みが、これで潰える。アシュヴィティアの崇高なる意思が――
本体が悶え苦しみながら発する断末魔を、フレデリカは倒れたままなすすべもなく聞いていた。本体が死に、ここにいるフレデリカも、もはやこれまでだろう。エルカテルミナの威圧によって、この体は半分近くが灰になっている。ほとんど動けない。身を隠して回復しなければならないのに、倒れた姿勢のまま、ただ本体の断末魔を聞きながら、ヴェガスタとフィガスタによって殺されるのを待つしかない。
なんて惨めな。
やはり“流れ星”は脅威だった。
呪ってやる。今一番憎いのは、エルカテルミナでもアンヌでも“流れ星”でもなく、“流れ星”を放置した“右”だった。淑黒のフレデリカたる儂をよくも、よくもよくもよくも、このような境遇に貶めてくれたものだ。お前のせいで儂は死ぬ、獣のようにアンヌに狩られて。泥にまみれて、惨めな末路を迎える。お前のせいで。お前のせいで。無能な“右”のせいで。
どれくらい、そこに倒れていただろう。
いつまで経ってもヴェガスタもフィガスタも、他の草原の民や兵たちもやって来ない。少しだけ体力が戻って来て、フレデリカは目を開けた。あたりは静まり返っていた。本体の断末魔ももはや聞こえなかった。灰になったフレデリカの半身に、何かが触れた。――毒だ。
傷口に毒が流し込まれる。命そのもののような力の塊。フレデリカは喘いだ。餓え、渇き、干からびそうになっていた体の隅々を、毒が潤していく。
『だ、れ……?』
囁くと、穏やかな声が言った。
『“右”でございます。――淑黒のフレデリカ、敬愛する“左”よ。どうぞご安心を。貴女そっくりの偽物を作っておきました。追っ手はそれを貴女だと思って先ほど運んでいきましたよ』
『だれ。だれ、だぁれ、あなたは』
『こちら側へやって来たばかりの“右”でございます。貴女の忠実なる隷。なんなりとお申し付けください。共に手を携え、王を傾け、貶め、暴君に育て上げ、アシュヴィティアの帝国をこの地に刻む足がかりとするため、共に戦っていこうではありませんか』
『でも、でも……』
『本体は助けられませなんだ。しかし貴女はまだここに生きている。一度退きましょう。そして王の傍らからアンヌを』
アンヌ。
その名に、フレデリカは正気を取り戻した。
頭をもたげると、そこに、“右”が見えた。毛むくじゃらの、漆黒の、とても美しい獣だった。今のフレデリカよりも大きな体躯だ。その大きな体でフレデリカを包むようにして、“右”は冷酷に微笑んだ。
『王のよりどころとなるものを全て奪いましょう。手始めにアンヌを遠ざけるのです』
『ころすの?』
『殺すのはまだ早い。王の心に不信を植え付けるのです。愛する女性が、自らを見放したと。見捨てられたのだと。それから将軍をも遠ざけましょう。クロウディア伯爵を使いましょう。伯爵を破滅させ、その救いの手を差し伸べさせないことで将軍との中に楔を打ち、王を孤立させるのです。私に全てをお任せください。自らの身を分割し意識をそれぞれに宿らせるのはあまり多用されない方がいい。それよりも自らの姿を変え、王の傍に張り付き、忠臣を遠ざけ、悪事に染まらせ、少しずつ、少しずつ、不信と絶望に染めていくのです』
“右”に抱き締められた傷口から、みゃくみゃくと毒が注ぎ込まれる。絶望の淵で差し伸べられた手。注ぎ込まれる毒は甘美で、囁かれる声とその内容はあまりに魅惑的だった。フレデリカはうっとりした。
これが正しいあり方なのだと思った。今までが、不当だったのだ。
――ようやく正しい“右”が儂のところへ来た。
『……待ちくたびれたわ』
囁くと“右”は優しく笑ってフレデリカを抱き締めた。
『お待たせしました』
『でも、ねえ、儂はこんなに小そうなってしまった。一度還って、力を蓄えた方が良いのではないか?』
『大丈夫』
“右”がその体躯を変えた。
フレデリカは目を見張った。彼女を抱き締めたまま、“右”が緩やかに姿を変えていくのだ。ゆっくりとした穏やかな口調で話しながら、ふさふさの毛を消し、黒々とした色を変え、太く逞しい肩や首を細くして――フレデリカは感嘆した。
数瞬後、フレデリカを抱き締めていたのは、とても美しい、秀麗な、人間の男の姿をしていた。薄い唇が酷薄な笑みを宿している。緩やかにうねる金の髪。緑色の瞳。まるで彫刻のように均整の取れた体つき。
「こうすれば」魔力を使わず、口を動かして、“右”は発言した。「王の傍に潜り込めます。人間に紛れて情報を得られる。王を操り孤立させるのにどんな手を使えば一番効果的か、聞き出すことができる」
『そなたの名は?』
“右”は人間の姿のままフレデリカに口づけ、耳元で囁いた。
「クレイン。クレイン=アルベルト、と、申します。――愛しき我が“左”よ」
*
ルファルファ神の聖域は、深い森の中にある。
それはこんこんと清らかな水の湧き出す小さな泉だった。再びその泉を目にして、エルギンは様々な感慨を覚えた。前回はニーナと一緒だった。あの時射られた矢の痛みはまだまざまざと思い起こすことが出来たが、あの不思議な人たちのおかげで、傷はもうどこにもない。
この地をエルギン=スメルダ・アナカルシスに与える――
数日前に聞いたばかりの、父親の声が、頭の中に鳴り響く。
勝手なことを言うものだ、とエルギンは苦笑を頬に刻んだ。この地はもともと、エリオット王のものではないのに。
「先日は、聖域を血で汚して申し訳ありませんでした」
言葉に出して、泉に向けて囁いた。泉の縁に膝を付け、深々と頭を下げる。
泉は答えない。たださらさらと水の流れる音が響くだけだ。けれど、ルファルファ神は確かにいるのだとエルギンは思った。ムーサの主張するように、滅ぼされてしまったのではないのだ。
そうでなければ、あの不思議な人たちに会えたはずがない。
彼らは昨日“帰った”。電気嵐が湧き起こったときには、この世の終わりかとさえ思った。あんなところに入っていって、あの三人は大丈夫だったのだろうか。黒こげになるのではないかと思ったが、三人とも笑っていたから、たぶん無事に帰れたのだと思うことにする。
そして電気の嵐が収まったときには、あの三人は既にどこにもいなかった。まるで、全てのことが夢だったのだとでもいわんばかりに。
でも確かにいたのだ、とエルギンは思う。彼らは確かに存在していた――そしてエルギンの見たこともない、今まで想像すらしたことのなかった場所へ、帰って行ったのだ。エスメラルダ、と彼らが呼んだ、故郷へ。雲の上の国へ。
エスメラルダ。
アナカルディア語で、“箱の中の国”という意味になる。
エルギンは微笑んで、懐から小さな箱を取り出した。
あの狩りの日に、ランダールから手渡された箱。大事に両手で包むようにして、泉の前にそれを掲げる。ルファルファ神はこの地を治める資格のある者にこの小箱を預けるのだという。帰ったらランダールにこれを返そう、そう思いながら、そっと開ける。中に入っている小石は、真っ白な、ひと粒の宝石だ。
箱の中の国――
その不思議な整合に何か運命的なものを感じずにはいられない。それは傲慢な考え方だろうか。ルファルファ神が不思議な箱を開けて、あの三人を貸してくれたのだと、考えることは。
誰も泣かせないような立派な王になんて、なれるかどうか。自信なんて全くない。自分を信じてくれた人をいつか、自分のせいでひどい目に遭わせてしまうのかも知れない。考えると身体がすくんでしまいそうになるけれど。
でも、それでも。
あの三人が来てくれて、助けてくれたのだから、きっと大丈夫だ。
そう、思うことにする。
「この地を、お預かりします」
泉の前で宣言する。泉は何も答えない。けれど水音が柔らかくなったような気がして、エルギンはそっと微笑んだ。
*
エルギン=スメルダ・アナカルシスは、新しく自分が統治することとなった地の名を変えた。人々を様々な意味で刺激する女神の名を削り、エスメラルダという名に改めた。
千年の時を経ても、その地は同じ名で呼ばれている。
「魔女の冒険」終了いたしました。
お付き合いありがとうございました!
「魔女の遍歴」はしばらくお休みをいただいて、その間に外伝「花の歌、剣の帰還」を連載いたします。
主人公がマリアラではないので別の小説としますが、内容としては、エルギンやニーナたちの十年後のお話です。エルギン21歳、ニーナ19歳、カーディス18歳です。よろしければそちらもお付き合いくださいませ。
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