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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第四章8

 何が起こったのか、よくわからなかった。

 しかし医師には一目瞭然だったらしい。ティファ・ルダで紋章を刻んだ、ルファ・ルダで一番の名医だ。医師は駆けつけるやいなや、即座にフェルドの右手を細く裂いた布で締め上げた。毒は既に肘を通り過ぎ二の腕まで到達していた。血が止まるのでは、と思うほどに腕を締め上げてから、医師はフェルドの黒く染まった右手を子細に調べた。ふむ……と唸る。


「どこから入ったのだ? 傷がない、上に、……ちと回りが早すぎる」


 しかしとにかくここでは何もできぬ、と、医師は指示を出した。瞬く間に戸板が用意された。フェルドは自力で移動すると主張したものの、その意見は当然のように黙殺された。


 イーシャットは、まだ何が起こったのかよくわからない。あの毒の塊はイーシャットもマーシャも受けたし、カーディス王子も受けていた。みんなぴんぴんしている。なのになんで、フェルドは、あんなに具合が悪そうなのだろう。右腕を蝕む毒は着実に領域を広げている。イーシャットの肌には、全く変化がないのに。


「先生、先生、何がどうなってるんですか」


 医師はちらりとイーシャットを見た。


「毒が体内に入ったのだ」


 そう言って、戸板に載せられたフェルドの隣を、難しい顔をして歩き出した。ランダールがその後に続く。イーシャットも続こうとして、王子が蒼白な顔をして立ち尽くしているのに気づいて、王子の手を引いた。医師に追い縋る。


「毒が……って、いやどう見てもそうなんだろう、それはわかりますよ。でも、あいつ毒を叩き落としただけです。傷、なかったって言いましたよね? 俺も何度もあの毒に触った、っつーか、叩きつけられたりした、顔とか喉とか……でも別に……」

「イーシャット。お前は、契約の紋章を持たぬのに、風や水を使うことができるのか」


 鋭く問われてイーシャットは思わず黙った。医師はフェルドに視線を戻し、酷く静かに言った。


「その代償なのだろう。恐らくは」

「代、償」

「【契約の民】は紋章を刻む。私ももっている、医師の証である水をな。私は水を使える。だがこの若者のように、紋章無しで、風や光までとは行かぬ。この紋章は、別に飾りのために刻んであるわけではない。体内の魔力を水に伝えやすくするために彫るのだ」

「……」

「体内にいくら魔力があったとて、外に出せなければ、体外の水を自在に操ることなどできぬだろうが。体内の魔力を外に出すための窓が、この紋章の役割なのだ。

 ……毒はな、ある意味で、魔力ととても良く似た性質を持っているのだ。例えば傷口や粘膜などから毒が体内に入った場合、その回り方には個人差がある。体内の魔力が弱ければ毒の回りも遅い。しかし強ければあっという間に回る。この紋章を刻むとき、紋章で毒に触れるなと、みんな教わる。魔力を外に出すための窓が、外の毒を体内に引き込む役割をしてしまうからだとな。

 ――この若者は」


 医師は表情を押し殺しているような顔をしていた。


「全身が紋章になっているようなものなのかも知れぬ。体内の魔力は――私が今までに見た人間の、どの者よりも遙かに多い。毒の回りも早い。私の力では、毒を抜くことはできん。人魚ならばあるいは――と、聞いたことがあるが……」

「……って……」

「一番良いのは」医師は声を潜めた。「この右腕を切り落とすことだ。肩を過ぎたら腕だけでは済まなくなるから急いだ方がいい。しかし、それでも賭けだ。大量の血を失うことになる、また既に毒が全身に入っておるから、抵抗力も落ちる……夏の盛りだ、感染症の危険もある。しかし、このまま放置するよりは遙かにマシだ。放置したらその内全身を蝕まれて」


 ちょっと何それ、とイーシャットは思う。

 放置したら死ぬ。……そう、言ってるのか?


 本当にそんな大ごとなの? という気持ちが、どうしても抜けない。だってイーシャットだって何度も撃たれたのにと、思わずにはいられない。あんなに風だの水だの従えて、魔物を倒したのに。その一番の立役者なのに、何で、何で、毒くらいで。それくらいで、倒れたりするんだ。


 と、フェルドが言った。


「……毒は……遅効性、だから……」


 その声を聞いてカーディス王子がびくっとした。イーシャットも驚いた。フェルドの声だと思えなかった。


「今日……中、くらいは、もつ……はず、たぶん」

「そなた、自分の魔力の強さを知っておるだろう。あまり猶予はないぞ」

「腕落として、体力、失う……よりは……このままで待ってる方が、まだ、望みがある、かなあ、って」

「待つだと。何を待つのだ?」

「相棒」


 そういったフェルドの声は、まるで譫言のようだった。

 顔色が悪い。微量の毒が既に体内に回り始めているらしい。イーシャットは戦慄した。なんだよ。なんだよ。なんか、本当に、死んじゃいそうじゃないかよ。さっきまであんなに元気だったのに。魔物倒したのに。腹減ったって言ったのに。マーシャがご馳走作ってくれて、今から盛大に色々食べたり飲んだりできる、はず……だったのに。


「相棒、だって?」


 医師がフェルドに耳を寄せ、フェルドは呻いた。


「死んでる場合じゃないんだ……たのむ、ちょい、手伝って、ください。水、使える、なら……毒、回るの、抑えるだけで、いいから……マリアラと、ラスに、帰れるんだって、伝えずに……放ったらかして、死ぬ、わけに、いかないから」

「しかし。このままでは死ぬぞ。既に肩まで来ておる、猶予はないぞ。待つ、相棒を待って、どうなるのだ? 相棒はそなたを治せるのか?」

「頼む」


 そう言ったのは、ランダールだった。

 ランダールは医師に、深々と頭を下げた。


「貴方の診断に従わないことを許してやってくれ。その上で頼む。水を使えれば、毒の回りを抑えることができるのか」

「や……った、ことは、ないが……」

「頼む。頼む。この若者には恩があるのだ。どうか彼の願いを聞いてやって欲しい。このとおりだ」


 ランダールはもう一度頭を下げ、医師が慌てる。


「エルヴェントラ、そんなことをされては困ります。わかりました、やってみましょう……ですが、相棒を待つのはいいとして、その相棒はこちらに来るのですか?」


 返事はなかった。フェルドは蒼白な顔色で目を閉じていた。そうしていると既に死んでしまったかのようで、イーシャットは喚きそうになった。おいバカ、死ぬなよ! 死ぬわけにいかないって言ったじゃないか! 魔物倒すなんてことができるくせに、毒くらいで簡単に死ぬなよ!




 集落の鎮火は既に終わっていた。

 それでも辺りがうっすらと見えるのは、夜が明け始めているからだと、イーシャットは気づいた。一番近い民家にフェルドが担ぎ込まれ、さっきの布より更に肩に近い部分をもう一度締め上げられた。どす黒く染まった範囲はさっきより少し広がっていたものの、布で縛ったお陰で少しだけその侵攻を阻止できているらしい。

 医師が自分の左手をまくり上げると、そこに、若草色の紋章がびっしりと刻まれている。フェルドの右手に屈み込んだ体勢のまま、しばらく躊躇った。自分の体内まで毒を招き込んでしまわないよう、フェルドの右手を水で包み込んでから、そこに左手を当てて目を閉じる。


「ほう、ほう、ほう……なるほど、なるほど。エルヴェントラ、水を使える【契約の民】全員に事情を話して協力を要請してください」


 ややして顔を上げると医師は、少し明るくなった口調で言った。


「進行を遅くすることはできそうです。交替しながら、なんとかやってみましょう」


 カーディス王子が座り込んだ。誰かが椅子を運んできて、フェルドの寝台の左隣に据えた。カーディス王子はそこに座らされた。王子も顔色が悪かった。泣き出しそうな顔で、食い入るようにフェルドの頬の辺りを見ていた。イーシャットはそわそわした。こういう雰囲気は苦手だった。

 医師が何をしているのかわからない。それが効いているのかどうかもわからない。フェルドが待つと言った相棒が誰なのか――それは恐らくエルギン様と一緒にいるというふたりの少女のどちらかなのだろう。エルギン様が大量の血を失ったのを治してくれた(仮定)、という話があった。しかしその相棒とやらがこちらに向かっているのかどうかもわからないし、間に合うかどうかもわからないし、何もかもがわからなくて、いてもたってもいられない。


「殿下、腹、減りませんか。なななんか、飯とか……頼んできましょうか」


 声をかけるとカーディス王子は蒼白な顔でこちらを見た。


「いえ、おかまいなく。おなかはすいていません」


 そう言われても、引き下がるわけにはいかないのである。イーシャットは口の中で、まあそう言わず、とかなんとかもごもご言いながら踵を返した。俺はへたれだなあと、つくづく思った。ああ本当に、俺はへたれだ。八歳の少年の方がよっぽど肝が据わっている。八歳と言っても王子だから、という言い訳を思いつき、その言い訳は二重に情けないぞ俺、と思って更に落ち込む。



 夜が明けていた。寝不足の目に、夏の朝日が眩しい。

 目をしょぼしょぼさせながら、ランダールとニーナの家を目指して緩やかな坂を登っていく。左手に見える闘技場はすっかり静けさを取り戻している。今日の正午には、あそこで狩りの勝者を決め、ルファ・ルダの統治権が授与される式典が行われるはずだった。

 エルギン様は戻ってきそうもない。フェルドの箒を借りて出かけた相棒からも、全く音沙汰がない。

 それならばカーディス王子が行方不明になってくれていることは、やっぱり、ランダールの言うとおり、歓迎すべき事態なのかも知れない。


 ゆっくりと歩いて、道のりの半分ほどまでやって来た。昨日の晩、カーディス王子を担いで走って力尽き、王子にさすさすと背中を撫でられた辺りだ。ランダールの家までは後少しだ。マーシャはきっと心配しているだろう、そう思い出して、足取りが軽くなった。病室の空気が居たたまれずに逃げ出したわけではなくて、心配しているはずのマーシャにカーディス王子の無事を知らせるためなのだ、という大義名分を思いついたからだ。そうそう、そうなのだ。別に逃げているわけではないのだ。俺はへたれじゃない。


 その時、イーシャットの鋭い耳は、その音を聞きつけた。

 何かを打ち壊すような、鈍い響き。ずず……ん。何か重いものが幾度も打ち付けられ、またひとつ、何かが壊れた。悲鳴。怒号。鋭い物音。甲高く喚く、あの声。

 聞くだけで耳が腐って落ちそうな、あの醜悪な男の声。


「草の根分けても捜し出せ! 壊せ、壊せ、壊せ! 邪教の信徒の巣だ、一軒残らず打ち壊しても構わん! 捜せ、捜すのだ!」


 イーシャットはゾッとした。走り出した。程なく、ランダールの家が見えてきた。家の周囲は既に、えんじ色の制服を着た男たちに包囲されていた。輿に乗ったムーサが叫んでいる。這いつくばるような格好で腰の痛みに耐えながら、ムーサは気が狂ったように喚いていた。


「殿下! 殿下! 殿下を出せ! 雷と共に落ちてきたあの若者と共にいたのを見た者がおるのだ、隠し立てすれば今度こそ国中攻め滅ぼしてくれるぞ、あの若者を出せ! 殿下あ――!」


 鬼気迫る形相だった。マーセラ神官兵たちは次々に家を打ち壊し、住民を引きずり出していた。イーシャットは急いで大通りを離れ、裏路地をいくつか渡って様子を窺った。マーシャの身が気がかりだった。ランダールとニーナの世話をする女性が誰かと言うことくらいはムーサも知っているはずだ。マーシャが捕まったら何をされるかわからない。


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