第四章7
フィとミフを組み合わせて速度を加速するという案には、前例こそないものの、結構自信があった。実現の可能性はほぼ100%と目算できた。相棒同士の箒には、そもそも通信機能が仕込まれている。特に相手の所在地を把握する性能はかなり高い。それを仕込むときに微調整は済んでいるはずだし、だからそれほど難しい作業も必要ない。
しかしフィに乗ってやって来たのがフェルドじゃなかったという時点で、その実現の可能性がかなり減ってしまったと、思わずにはいられなかった。
箒を二本組み合わせたときの性能の向上において、理論的には、速度は足し算ではなくかけ算となるはずだ。
そして同様に、必要消費魔力の方も、かけ算となる。フェルドならば多少疲れていたとしても問題なく目的地まで飛べたと思うが、動力を供給するのがマリアラとなると、正直、少々難しいのでは――と考えざるを得ない。だって、疲れているはずだ。ひと晩中魔物やヴァシルグに追い回され王宮中を走り回り、幾度も恐怖にさらされ緊張の連続だった。魔物相手に魔力を使い、一ツ葉の左巻きがここまで良くやったなあ、と、感心するほどである。ようやく安全なところに辿り着いたのだから、後はゆっくり休んで欲しいと思っていたのに、ここからルファ・ルダまで子供をひとり乗せてかけ算の魔力を使うなんて、【魔女ビル】の医師たちが聞いたらきっと大慌てで止めに来るはずだ。リズエルとしてそれを許していいのだろうか。疲労困憊で済めばいいが、途中で墜落するなんてことになったら。
でも、エルギンの瞳に灯った光を、もう一度消してしまうのは辛い。
「……フェルドじゃないと、やっぱり無理?」
マリアラが小さな声で囁いた。ラセミスタは思わずびくっとした。どうしてこちらの考えていることがわかったのだろう。見るとマリアラは、真剣な目でラセミスタを見ている。
「無理か、どうかは……でも、でも、あの、ただでさえ、疲れているよね。ひと晩中ずっと大変だったんだし、……だから……」
「今、色々飲んだの。魔力回復剤と、滋養強壮剤と、他にも色々、思いつく限りいっぱい。わたしね、結構体力はある方なんだよ。ほら、見て」
マリアラは左手の親指に嵌めた指輪を見せた。ラセミスタが以前プレゼントした魔力測定器だ。
そこに表示されている数字は5で始まる6桁。一ツ葉の魔女としては平均的な数値だ。
「ひと晩中寝てないし動き回ったけど、いつもとだいたい同じくらい。着いたら後は寝るだけだし――だから、ひとつだけ教えて欲しいの。元気満々な一ツ葉の左巻きの魔女でも、子供を乗せてエスメラルダまで飛ぶのは無理かな?」
「あのね、箒を組み合わせて飛ぶというのは前例がないの、だから、だから、どんな想定外の要素があるか……」
「理論上は?」
「……理論上は……」
墜落したらどうしよう。二度と会えなくなったらどうしよう。あたしの作った魔法道具が、彼女を、二度と会えないところへ連れて行ってしまったらどうしよう。うまく行かなかったらどうしよう。エルギンを間に合わせてやることができなかったら彼女はきっと自分を責めるはずだ。魔力が弱い自分を。自分を責める彼女に、何て言葉をかければいいのか。
――あたしはきっと、その全てに関与するのが怖いのだ。
自分の本音に気づいて――そして同時に、もう、“人食い鬼”の声が聞こえないことに気づいた。ちょっと前までだったなら、きっとここで罵っていたはずだ。何て臆病で情けなくて愚かなんだとか、なんとかかんとか。
でももう聞こえない。それは、どうして?
そんなの簡単だ。もう、必要がないからだ。
だってもう、“人食い鬼”の目的も嘘も暴かれたから。“人食い鬼”にはそもそも、誰かを喰い殺す力などなかった。ただ誰よりも小さく弱く、怖くて縮こまっているだけの、情けない存在だった。女の子の友達ができなかったときのために、始めから言い訳をするために、ラセミスタを罵って、萎縮させて、閉じ込めていた、自分自身の声だった。
でももう、“人食い鬼”は出てきて罵ったりしない。
もう怖がる必要がないから。やっと見つけたから。やっと、来てくれたから。挨拶から始めさせてくれる子に、やっと巡り会えたからだ。
フィとミフを養生テープでしっかり留めて、ラセミスタは覚悟を決めた。
「理論上は可能です」
できることは全部やった。マリアラも、思いつく限りの薬を全部飲んで備えた。
だったら後はもう、信じるしかない。自分の腕と、マリアラを。
「……あっちについたらね、フィとミフは、このままにしておいてね。無理にコードを外すと危ないから」
「うん、わかった」
「あたしはニーナと、それからその人と一緒に、王妃さんに馬車で送ってもらうね。たぶん何日かかかるだろうけど、心配しないで待っていて」
「うん」
「ミフの回路……この窓、ね、いつも魔力の結晶嵌めるとこ。ここをスイッチにしてあるから。ここに魔力の結晶を嵌めたら飛ぶから。で、途中で結晶はなくなっちゃうけど、あなたの親指がここに押し当てられている限り飛び続けるから――着陸する少し前に親指を離さないと行きすぎるから気をつけて。マリアラ、手袋貸して。親指だけ出るように指先を切るから。それから上着を着た方がいいよ、エルギンも。ここは暖かいけど、上空をかなりの速度で飛ぶから。体力の消耗は、できるだけ少なくした方がいい」
エルギンとマスタードラの方の会話も、落ち着いたようだ。マスタードラはせっかく主君に会えたのに、また離れなければならないということがかなりショックだったらしい。しかし昼までに間に合うかも知れないこと、ニーナとラセミスタはここに残らざるを得ないことで、なんとか自分を納得させたらしかった。マリアラが右手の親指部分だけ切り落とした手袋を嵌め、防寒のためのケープを身につけると、のっそり歩いて彼女の前に行った。
この人はどうも、巨体のせいか、それともその動き方のせいなのか、はたまた表情のせいなのか、とても気のいい熊――か、何かのぬいぐるみに見える。子供向けのアニメで良くあるような、デフォルメされた大きな獣。ヴァシルグと魔物に対峙したときの、底冷えのするような太刀筋が嘘のようだ。
そのぬいぐるみじみた若者はマリアラの前に左手を差し出した。
「……エルギン様を頼む」
「はい。絶対、間に合わせます。だからあの、ニーナとラセミスタさんをお願いします」
マリアラの左手を自分の左手で包んで、マスタードラは哀しげに笑った。
「ああ、任せておいてくれ」
「マリアラ。お願いできますか」
エルギンが訊ねる。マリアラは微笑んで頷き、エルギンに箒の柄を握らせた。布のロープでエルギンの体を箒に縛り付け、刃を畳んだナイフを持たせる。
そしてマリアラは、ラセミスタを見て微笑んだ。
「じゃあ、ラセミスタさん、行ってきます」
「ラスって」
ラセミスタは言ってから驚いた。自分の口走ったことが信じられなかった。
でも言ってしまった。だから最後まで言うしかない。ラセミスタは頬が染まるのを自覚した。心臓がばくばく鳴り始め、背筋がぞくぞくして、足が震えた。どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。
でも、言うしかない。
「……ラスって、よよよ呼んで。あた、あたしの名前、いい、いいいい言いにくいから……っ」
「……」
返事がなかった。永劫にも続くような沈黙。ラセミスタは俯いて震えた。頭の中は後悔でいっぱいだ。時間がないのに一体何を言い出したのだ。今から頑張って飛ぶ人の邪魔を。何も今このタイミングで言わなくても良かったのに。もう一度会えてからでも。マリアラはきっと呆れただろう。ああバカじゃないの、空気読め自分。
「……うん」
マリアラの声に顔を上げる。
マリアラはラセミスタを見て、とても幸せそうに微笑んだ。
「うん、ラス。……ラス、ありがとう。行ってきます!」
「……っ、行ってらっしゃい! 頑張ってね! フェルドによろしくねー!」
「はーい!」
マリアラがミフの柄の回路に魔力の結晶を嵌めた瞬間、びりり……と大気が震えた。
続いて、どしゅっ、という音を立てて箒が、マリアラとエルギンを乗せて虚空に飛び出した。ラセミスタは窓に駆け寄った。外を覗いたときにはもう、ふたりの姿は点になっていた。わあお、と思う。全速力の更にかけ算の速度ってすごい。
ラセミスタは大きく手を振った。もう一度会えるのは、たぶん数日後になるだろう。
そうしたらまた始めよう、と思った。挨拶からでいいと言ってくれた。ひとつずつ慣れていけばいいと。ラセミスタが慣れるまで、ゆっくり付き合ってくれる。仲良くならなくても大丈夫で、ラセミスタの奇行を放っておいてくれて、ドラマや流行の諸々を知らなくても呆れたり嫌ったりしないでくれる、ルームメイトと。ふたりで、一緒に。
*
魔女の箒は足し算じゃなくて掛け算だ、とラセミスタは言った。
確かにそのとおりだった。ヴァシルグに追われて初めて空を飛んだときの、あの行程が長閑に思えるほどの疾走、というより暴走だった。マリアラが本当に二本の箒を操縦できているのかなんて、エルギンには知るよしもなかった。夜明けの赤みを帯びた青と、足元に広がる濃い緑が、混じり合うような勢いで吹きすぎていく。
「マリアラ……!」
エルギンは叫んだ。今しか言えない気がした。聞き取ってもらえなくても仕方がないと思ったが、マリアラの悲鳴じみた返答が聞こえた。
「なあにー!」
「告白したいことがあるんです」
「それ今じゃないと駄目ー!?」
「僕はルファルファ神に、母さまの快復を祈らなかった」
ずっと胸を占めていた重苦しい真実。母が自分のために犠牲になろうとしている、それを知っているのに、エルギンは、ルファルファの前で、母を救ってくれるよう祈れなかった。心を占めていたのはずっと、ひとつの事柄だけだった。自分は薄情なのだろうと思ってきた。母親の生存を心の底から、自分の全てをなげうってでも祈ることができない自分が。
でも。
それでも。
自分の心に、嘘をつくことはできなかった。自分の心を占めているのは、ずっと、たったひとつのことだった。自分と共に故郷を捨ててくれたイーシャットとマスタードラ。両親を殺した仇の息子なのに、温かく迎え入れてくれたルファ・ルダの人々。この三年間、ニーナとランダールが、王やマーセラ兵の目を恐れつつも、それでも生きている人々の心の平穏のためにと、巡幸を続ける様を見てきた。
「……僕はルファルファ神に、自分がもし王にならなければならないのなら、イーシャットやマスタードラや――そしてランダールやニーナ、アンヌ様のような人々を、落胆させたり、自分のせいで殺してしまったりしないような、立派な王になれるようにって……祈ったんです」
今さらこんなことを告白して一体何になるのだろう、と、エルギンは考えた。
でも今を逃しては、もう誰にも言えない気がした。マリアラの返事がない、それがありがたかった。
――だから。
だからやっぱり、母に最後に会うことは、自分に必要だったのだ。エルギンは、そう思った。母に会うまいと思いながら、でもやっぱり会わずにはいられなかった。
矛盾した行動だとわかっていた。でもそうせずにはいられなかった。自分が何を犠牲にしたのか、それを最後に、自分に言い聞かせるために。
もう後戻りは出来ないのだと、胸に刻むために。
「あなたとラセミスタは、やっぱり――僕を助けるために、ルファルファ神が遣わしてくれたのだと、思ってもいいですか」
最後の言葉は呟きに過ぎず、マリアラは答えなかった。たぶん聞こえなかったのだろう。それでもいい、とエルギンは何か透明な気持ちで考えた。ふたりはエルギンのために生まれたわけではない。遠く離れてはいても、ちゃんと家がある。フェルド、というらしい、エルギンの知らない人間とも知り合いだ。でも、――それでも。
彼女たちがやってきたのは、エルギンを助けるためだったのだと。
思いたいから、思うことにした。
そう思うことは、自分が王になると言うことへの、確かな理由を与えてくれるような気がするから。