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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第四章6

 びりびり、大気が震えた。


 とにかく王子をここから連れ出さなければ。

 魔物が跳躍した瞬間にイーシャットは王子の手を引いて走った。“はうす”を目指すより、フェルドが入ってきたばかりの出入り口の方が近い。しかし、出口に辿り着くことはできなかった。出し抜けに背中を強打され、イーシャットは前のめりに倒れ込んだ。あの冷たくて重い泥のような塊をまともに受けたらしい。すぐに跳ね起きたものの、出口までの間にあの虫の大群が割り込んで、慌てて駆け戻る。


 フェルドはと言えば、観客席の方へ走っていた。明るい光の中でも、フェルドが使えるのは“風”と“水”、それから“光”だけだそうで(エルギン王子の上着を確認したときのように、暗闇の中でも光だけは使えるそうだ)、意外なことに“炎”を起こすことはできないらしい。壁に作り付けの照明に点火するのは手作業になるそうだ。


 フェルドが松明を差し伸べ、ひとつの照明に火がついた。周囲が少し明るくなった。観客席に置いてあったおびただしい数の水瓶が視認できるようになった。光の範囲にある水瓶から水が吹き上がり、イーシャットとカーディス王子を追い回していた虫の大群に襲いかかった。

 虫を振り切ってイーシャットは走る。“はうす”まであと、少し。


『明るい場所でしか魔力が使えぬと言うのは、不便なものだな』


 しゅう……


 あの音が、ふたたび、響き始めた。

 フェルドが次の照明に火を点けようと走っている。魔物はその前に、先回りすることにしたらしい。ぱりん、北の方で何かが割れる音がした。続いて――ぱりん。魔物は、まだ火のついていない照明を先回りして叩き落とすことにしたらしい。ぱりん、ぱりん、ぱりん。続けざまに音が鳴り、フェルドが足を止めた。フェルドが点けられた照明はたったの三つ。闘技場の面積の、四分の一に満たない。


 しゅう……。


 闘技場中から、湯気が上がっているようだった。昼間にやったように、魔物が、フェルドの使える水分を先に蒸発させようとしている。イーシャットとカーディス王子を守るようにうねる水の筋も、しゅうしゅうと音を立てて縮んでいる。“はうす”までもう少し。あとほんの数歩。ぱりん、三つ点いていた照明のうちのひとつが魔物によって叩き落とされた。地面に油が飛び散り、炎が上がった。辺りは一瞬明るくなり、しばらく燃えて、消える。


『そなたの存在は不思議だ。人魚でも、銀狼でもない。なのに世界の要素を従える。肉体は脆弱な人間のものでありながら、収まりきらぬ程の法外な魔力。しかしそなたはまだ未熟らしい。俺の敵として起つにはまだ、何かが足りぬ――』

「そうだな。何が足りない?」


 フェルドが訊ね、魔物が嗤った。


『知らぬ。――足る前に殺す』


 イーシャットはよろけたカーディス王子の体を引きずり上げ、“はうす”に辿り着いた。壁に扉らしきものが見える。立ち止まっている暇はない。肩でぶち破るつもりで身を屈め、体当たり――しようとして、素通りした。勢い余って中に転がり込み、逆さまになって呻く。


 なんだあの扉。勝手に開いたぞ。


 そして今、その扉は音もなく、勝手に閉じた。イーシャットはきょろきょろした。床は一面、絨毯敷きだった。それも、極上の絨毯だった。王宮の謁見の間にさえこんなべらぼうな絨毯は敷いてない。いやこれ、絨毯なのだろうか。まるで適度な堅さを備えた布団が、床一面に敷き詰められているような感触だった。呆気にとられている内にカーディス王子が窓に駆け寄った。「フェルド!」悲痛さを帯びた声に、我に返る。そうだ。今は絨毯の感触に放心している場合ではない。


 “はうす”というのは組み立て式の家のようなものだ、と、フェルドは説明した。確かに、床があり天井があり壁があり、壁には窓が切られている。カーディス王子の上から外を覗くと、魔物が、さっきフェルドが点けた照明の最後のひとつを叩き落としたところだった。中にいると音は聞こえないが、魔物の高笑いが聞こえるような気がした。「明かりが」カーディス王子が悲痛な声で言った。「明かりが――、どうしよう、どうしたらいいのです!? フェルドが殺されてしまう!」


「大丈夫ですよ」


 イーシャットがそう言った、瞬間。

 閃光が、四方から降り注いだ。


「あっ」


 眩しさに目が眩んだ王子が悲鳴を上げ、イーシャットも目を庇った。闘技場の四方に建てられた塔から目映い光が降り注いだ。

 あの巾着袋の中には、光源を確保するための道具――光珠、とフェルドは呼んだ――が、びっくりするほどたくさん入っていた。光珠の光量を最大に上げ、鏡を組み合わせて更に光量を上げたものをもった神官兵が、ずっと四方の塔に潜んでいたのだ。辺りは既に昼間よりも明るかった。


 魔物が跳んで逃げようとし、フェルドが網を投げた。あれも巾着袋の中に入っていたものだ。網が魔物に絡みつくと稲光のような光が網に宿り魔物を締め上げた。地面に落ちた魔物の上に、四方の塔から砲撃が開始された。ランダールが観客席の上に立っていた。外にかけられたはしごから、次々にルファルファ神官兵が昇ってくる。

 そして次々に火矢が降り注いだ。火矢は魔物の体躯に突き刺さると凄まじい火炎を上げた。皮肉なものだと、イーシャットは考えた。フェルドの行動を封じようと水分を蒸発させたせいで、火の周りが異様に早い。


 音の聞こえないその光景は、非現実的な色合いをもっていた。

 巨大な魔物が、ちっぽけな人間たちの一斉放射を浴びて、なすすべもなく焼かれていく。イーシャットは悲哀を感じる。そしてそんな自分の甘っちょろさに嫌気が差す。あの魔物は脅威だ。罪もない人間をたくさん殺した。排除しなければこちらが皆殺しにされかねない災害じみた生き物だ。なのになんで――


 観客席の上に用意されていた火薬の樽が投げられた。魔物の傍に激突して中身をばらまき、引火して爆発を起こした。ずず、さすがの“はうす”も少し揺れた。熱は全く感じない。


「フェルドは、フェルドは、あんな火と爆発の傍にいて、大丈夫なのですか」


 カーディス王子の言葉に我に返る。イーシャットは頷いて、カーディス王子の肩に手を置いた。


「大丈夫なんですよ。あいつのことは炎が避けるんです」

 見開かれたまん丸な目がイーシャットを見上げた。「え?」

「なんつーか……炎が恐れるように身をひいたんです。意識がなかったときもそうだった。今は意識もあるし元気満々なんだから、そりゃ大丈夫です。心配しないで、ほっといたって、大丈夫ですよ」


 “はうす”は保険のためだと、自分で言っていた。やばそうだったら逃げ込むけど、たぶん大丈夫だと思う、と。

 するとカーディス王子が怒鳴った。


「ほっといていいわけ、ないじゃないですか!」

「え、え?」

「そりゃ焼けないかも知れない。でもだからといって焼けなきゃいいんですか、火傷しないからって――疲れるし、熱いし、苦しいし、たっ、大変でしょう!? 大変なお仕事を、引き受けてくれてるんでしょう!? 強いからって! 大丈夫だからって! だからってそんな――!」

「あ、あ、あ……すみません、違うんですごめんなさい、失言でした。放っておいていいわけないですよね、ただちょっと、こう、……口が滑りました。すみません」


 慌てて謝りながら、イーシャットは、先ほど感じた悲哀の理由に思い至っていた。

 そうだ。

 力がある――という意味では、フェルドもあの魔物と同じだ。

 そして、国王という存在も。エリオット=アナカルシス国王陛下も、あの魔物と同じような力を持っている。フェルドも国王も、その気になれば人を殺せる。国王は実際にやったのだ、この地で、“神殺し”を行ったのだ。それならば、国王と、あの魔物を隔てているものはなんだろう。人の世の規則に従っているかどうか、ただそれだけなのだろうか。


 だったら。

 いつか王やフェルドが人の道を誤りあの魔物のようになったら。


 あの魔物のように炎を浴びせられ、捕らえられ、引きずり下ろされ、命を削り取られるようにして殺されるのだろうか。

 そんなことを、考えてしまったのだ。――そんな未来が、来るわけがないのに。




 やがて炎が収まった。

 あの虫の大群も既に燃え尽き、一匹も残っていなかった。大きかった魔物はほとんど灰になり、しゅうしゅう煙を上げながらぴくりとも動かなくなっていた。その向こうにフェルドが見えた。さすがに疲れたような顔をしていた。カーディス王子がかけだした。止める間もなく扉を開いて外にかけ出していく。


「ちょちょちょっ、まだ危ないですって!」

「フェルド、おケガは! 火傷してませんか、大丈夫ですか!?」


 カーディス王子は魔物から逃げていたときよりもよほど必死の形相でフェルドのところに駆けつけた。あああ、とイーシャットは後を追いながら思っていた。全くあの王子様は――本当に、烈女と呼ばれたアンヌ王妃と、あの国王陛下のご子息なだけのことはある。大仕事をやり終えたこの時機に王子にこんなに心配されたら、普通はもったいなさにむせび泣くところである。忠誠心も否応なしに高まろうというものだ。


 フェルドはカーディス王子の体当たりを受けてよろめき、尻餅をついた。


「だ、大丈夫ですか!?」

「あー大丈夫大丈夫……ちょっとさすがに疲れただけ。ああ、腹減ったあ……」


 フェルドは別に感涙にむせぶ様子もなく、へらっと笑ってカーディス王子の頭をぽんぽん撫でたりしている。おい、と思う。お前わかってんのか。相手は王子なんだぞ。偉いんだぞ。そんなお子様にそんなに心配されるほど慕われてんだぞ。普通なら跪いて永遠の忠誠を誓うところだぞ。

 どうしよう。この王子、早いとこ暗殺しとかないと、エルギン様の即位がやばいかも知れない。確かに行方不明になってくれたほうが好都合かも知れない。このままずっと近くにいたら、イーシャットまでが跪いてしまいそうだ。いやエルギン様のご威光だって負けてないし。初めてお会いしたときの感激も、忠誠を誓ったときの高揚感も忘れてないし。エルギン様お願い、早く帰ってきてー!



 観客席の上からルファルファ神官兵たちが駆け下りてくる。イーシャットは言った。


「お疲れさん。早いとこ移動しようぜ。魔物の傍なんか、長居するもんじゃねえよ」


 いくら死体だっつったってさ。と言いかけた、イーシャットの袖を、何かがかすめた。

 自分の体の陰から放たれたそれが、脇をすり抜けて行くのが、やけにゆっくりと見えた。

 黒い塊だった。魔物がマーシャにもイーシャットにも、幾度も放ったあの毒の塊だ。毒はカーディス王子の背に吸い込まれていく。何が入ってんだとイーシャットは思った。焼けた石とか樽の破片とかが仕込まれてたら王子は、


 フェルドが手を上げた。王子の背中に襲いかかる寸前で、それを叩き落とした。


 イーシャットの後ろで頭をもたげていた魔物の亡骸が、完全に灰になってくずおれた。



 フェルドが叩き落とした毒の塊の中から、鋭く尖った樽の燃えさしが出てきた。あれが王子の背に突き刺さり、おまけに傷口から毒が入ったら、医師がどんな手を施しても助けられなかっただろう。でも大丈夫、樽の燃えさしは王子を傷つける前にフェルドが叩き落とした。イーシャットはホッとして、ふたりに駆け寄った。

 魔物は最後の最後まであの毒を隠し持ち、一矢報いる機会を狙っていたのだろう。だから王子を狙ったのだ。でもその企みは潰えた。ああよかった、と思った時、カーディス王子が悲鳴を上げた。


「フェルド――フェルド、どうしたんです!? フェルド!」


 縋り付くカーディス王子に押されるような形で、フェルドが倒れた。イーシャットは驚いた。


「ど、どうしたんだよ!?」

「くっそ……」


 掠れた声が聞こえる。その声が呻き声に聞こえる。イーシャットが覗き込むとフェルドは言った。


「ロープか紐かなんか、何でもいーから……」

「え、え!?」

「なんか、縛るもん貸して。あーミスった……素手でやっちまった、くそ」


 イーシャットはそれをみて、愕然とした。

 さっきあの毒の塊を叩き落としたフェルドの右手のひら、毒に触れた辺りが、どす黒い毒の色に染まっていた。


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