第四章5
脚がもつれる。よろめく。背中の王子が重い。全力疾走できたのは初めのほんの数分で、道のりの半分も来ていないのに、もはやよろめくようにしか進むことができなかった。はひぃ、はひぃ、情けない喘ぎ声が漏れる。俺の口はこんな情けねえ喘ぎ声漏らすためについてんじゃねえぞ、と、腹立ち紛れに考えた。しかし抑えようもなく漏れる。畜生不甲斐ねえ。
「……大丈夫ですか。あの、あの、ごじんりょくにかんしゃします。おろしてください、自分で走ります」
挙げ句の果てには背中の王子に心配される体たらくである。お言葉に甘えてイーシャットは王子を下ろした。仕方がない。マスタードラのような体力馬鹿と一緒にされては困る。イーシャットはただ逃げ足が速いだけの一般人である。子供を担いで目的地まで全力疾走なんて芸当ができたら、それはもう一般人の範疇から外れる。
もう着いたかなあと、一般人の範疇から外れて久しい相棒のことを考えた。
あの剣バカの体力バカは、そろそろエルギン様のところに辿り着いただろうか。二晩近く休まず飛んでも、着いたらきっと元気満々で、エルギン様を担いで三日三晩くらい走れたりするのだろう。晴れやかな顔で。息も乱さずに、少々考え無しな歯に衣着せぬ言葉を、あっけらかんと言い放ったりしているだろう。ああ忌々しい体力バカめ、エルギン様を無事に守りやがれ。
どくどく煩い血流の音と荒い呼吸が収まってきた。耳を澄ましても、追いかけてくる獣の音は聞こえない。どうやら、魔物の目を眩まして逃げることにはなんとか成功したらしい。イーシャットはカーディス王子に気遣われながら、建物の陰に座り込んだ。情けない、ああ情けない。カーディス王子はしゃがみ込んで、さすさす、とイーシャットの背を撫でてくれた。もったいない情けない。
「……どーもすんません……俺はその、……諜報担当な、もんで……」
「どうして謝るのですか、あなたのお陰で僕はあの魔物に攫われずに済んだのでしょう。ごじんりょくにかんしゃします。それで、ちょうほうたんとうって、なんですか? なにをするのですか?」
カーディス王子はどうやら、好奇心旺盛な性格らしい。いや、これくらいの年頃はみんなそうだったろうか。なんで、どうして、なんでどうしてどうしてなんで、と、口癖のように言っていた以前のエルギン王子を思い出し、イーシャットは不覚にも口元を綻ばせてしまった。
「ええ、諜報ってのは、色々聞いたり調べたりして報告するってことで……王子様はですね……自分で色んなとこ、見に行ったり人に話聞いたりはできないでしょ。俺はね、エルギン様の代わりに、色んなもの見て、色んな話聞いて、それをエルギン様に聞かせるって役割をしてるんです」
「へえええ」カーディス王子は感銘を受けたようだった。「兄上も、自分で見たり聞いたりはしづらいんですか」
「そりゃそうですよ、相手が王子って知ったらどんな軽い村人の口も重くなるってもんでしょうが」
「むらびととは村に住む人ですか。そう言うものなのですか」
「……おおう」
イーシャットは思わず天を仰いだ。
ムーサは一体どんな教育をこの王子様に施しているのか。八歳になるまでこんな世間知らずに育ててしまって――と思い、なんだか絆され始めている自分に気づいて我に返る。危ない危ない。マーシャの説得はかなり効いたが、カーディス王子がエルギン王子の敵対者であるという、イーシャットの認識は変えられない。変えてたまるものか。
「おーう?」
「いえ、すみません、独り言です。さーて……」
だいぶ息も心臓も落ち着いてきた。イーシャットは王子の肩に手を置いた。
「この道をずっと下ると闘技場があります」
「とうぎじょう」
それも教えてもらってねーのかこの王子様は。
「アナカルディアにもあるでしょ。すり鉢みたいな形した、でっかい建物です」
「すりばち?」
「……ええとね、お茶碗、みたいな構造になってる建物です。でっかい建物ですよ。見たらきっとわかります。真ん中に広場があって、そこで運動したり剣の試合したりする。周りで観客がそれを見物できるようになってる」
「ああ、はい、わかります」
ああ良かった。
「道を下っていくと、そのでかい建物があります。その近くに神官兵が集まってる。フェルドもいます、もしいなくても、いずれそこに来るはずです」
「どうして?」
「そういう手はずになってるからですよ! いいですか、安全を確かめますからね。で、合図をしたらそこの道をまっすぐ下ってください。後ろを振り返っちゃダメです。いいですね?」
カーディスは神妙な顔をして頷いた。確かに聞き分けの良い子だと、イーシャットは思った。貴族の御曹司だの街の有力者のぼんぼんだの、鼻持ちならないお子さま方を今までに結構見てきたが、そいつらと比べてこの殿下はとても聞き分けが良いし素直で、人を気遣う心根もある。ムーサのような人間に四六時中貼り付かれていることを考えたら、確かに奇跡に近いのかも知れない。
ムーサの元に戻ったら、年頃になる頃には、この奇跡も効かなくなってしまっているかも知れない。
ブゥ……ン。
イーシャットの鋭敏な耳がその音を捕らえたのはその時だ。それは、蠅や蜂の羽音に似た雑音だった。ブウゥ……ンンン。空耳じゃない、まだ聞こえる。次第にその音量が増えてきて、イーシャットはぞっとして立ち上がった。カーディス王子も立った。そしてふたりは見た。
夜空に、真っ黒な蠅が。
いや、蠅、だろうか。蜂かもしれない、とにかく、真っ黒な虫の大群が空を埋め尽くすように浮かび上がっていた。異様で、そして、底冷えのするような雰囲気だった。本能に突き動かされるように、イーシャットはカーディス王子の手を掴んで走り出した。羽音が変わった。明らかに、それはふたりを探していた。空を覆うような真っ黒な虫たちが、あるいは寄り集まりあるいは展開しながら迫ってくる。
「あれは、なんですか!」
「知りませんー!!」
この期に及んで知りたがるカーディス王子に末恐ろしいものを感じながらイーシャットは死にもの狂いで走った。いざとなったら及ばぬながらも盾になって王子を逃がすつもりだったが、無理だ。無理である。あんな虫の塊に襲われて、何をどうしろというのだ。せめてもと、カーディス王子を先に行かせて自分が後ろに回ってみたが、気持ち的な意味しかないと言わざるを得ない。
「たーすーけーてーえー!!」
恥も外聞もなくイーシャットは叫んだ。この辺りは何しろ暗いのだ、誰かが気づいて助けに来てくれるのを待っていても望みは薄い。前方に、闇に沈んだ闘技場が見えてきた。その向こうから、松明の集団がこちらへ向かってくるのが見える。
ここから見るとルファ・ルダ首都の、海側の部分が一望できる。右側、雪山からなだらかに続く斜面の森が真っ赤に燃えていた。森に火が付けられているのだ。松明の群れはその炎から離れて、こちらに向かっている。あちらは計画どおり、うまく進んでいるらしい。
この計画の要は、フェルドが暗闇の中では魔力を使えない、という事実である。フェルドの使う魔力を脅威と見なした魔物は、それを知り、夜陰に乗じて襲いに来た。そうならば、魔物は光を避けようとするはずだ。フェルドという脅威を、この闇の中で葬ろうとしてくるはずだ。
だから闘技場は暗い。暗く、なければ、ならない。
あそこまで逃げればきっと何とかなる。闘技場の中には“はうす”と呼ばれる建物が準備されているはずだ。フェルド曰く、とても頑丈で、魔物の攻撃にさらされても耐えられるような堅牢さを持っているのだという。カーディス王子を“はうす”の中に入れてしまえば、魔物にはそれ以上手出しができなくなるはずだし――
「あっ」
唐突にカーディス王子が転んだ。あんまり出し抜けだったのと坂道の勢いとも相まって、イーシャットはカーディス王子の上を飛び越えた。踏まないようにするだけで精一杯だった。ウワァ……ン、と、泣き声のような音を立てて虫の大群が、カーディス王子の上に覆い被さった。「おい……!」慌てて取って返すイーシャットの目の前で、虫の大群が地面を離れた。その地面にカーディス王子の姿はない。
「おおいいいいー!!」
イーシャットは短剣を抜いた。しかし、何もできなかった。あの形状の魔物? に短剣を投げたりしたら、絶対にカーディス王子に当たってしまう。虫の大群はぶんぶん唸りながら寄り集まって王子を運んでいく。暗い方へ――闘技場の方へ。イーシャットは死にもの狂いで後を追った。王子の身内ともあろうものが、大失態である。絶対にどうにかしなければならない。
計画は第二段階に入っていた。森から飛び火した炎が、集落を焼き始めている。
ランダールは思い切った策に出たものだ、と、走りながら考えた。住民を全て避難させ、空になった家を燃やし、光源を確保することで、魔物を闘技場へ誘導しようとしているのだ。ラインスターク将軍から、集落の再建を補償するという言質を首尾良く引き出したのだろう。イーシャットから見て右側の集落が明るくなり、正面に移った。フェルドもうまくやっているらしい。魔力を使えるギリギリの明るさの場所を選んで移動しているらしいのが、それを追う松明の動きでわかる。魔物はフェルドを暗闇の方へ追い立てているつもりで、その実自分が誘導されていると言うことに、気づかないままでいてくれるといいのだが。
ぱん、ぱん!
破裂音が響いた。合図だ。
潜んでいたルファルファ神官兵が、闘技場のこちら側に広がる集落にも火を付け始めるはずだ。イーシャットは最後の坂道を駆け下りた。カーディス王子を包んだ羽虫の群れは、闘技場近くに辿り着いていた。ヤバイヤバイ。イーシャットは死にもの狂いで頭を働かせた。カーディス王子が人質にされるという事態である。せっかく闘技場に魔物を誘い込んでも、こちらから攻撃できないのでは意味がない。万事休すになる前に、何とかカーディス王子を奪い返さなければ。
でも、どうやって?
どうやればいい?
闘技場に駆け込んだ。広々とした闘技場いっぱいに、ぶんぶんと不吉な音が充満している。闘技場の床一面に死体が並べられてそこに蠅がたかっている、そんな光景を幻視して、イーシャットは頭を振った。縁起でもねえ。
虫たちは明らかに、ここで魔物を待つつもりのようだ。よしよし。別の場所に移動されるよりはずっといい。
イーシャットは大声を張り上げた。
「殿下! カーディス王子殿下! 聞こえますか!」
「んー!」
虫の中から返事があった。イーシャットはひとまずほっとした。命も意識もあるらしい。くぐもった声だったのは、口を自分で塞いでいるからかも知れない。そう思い至ってイーシャットはカーディス王子の賢さに舌を巻いた。確かに大口開けて叫んだら、口の中に虫を誘い込んでしまいかねない。
魔物が王子をさらったのは、フェルドの動きを封じるためだろう。
それなら、フェルドが来るまでは王子が殺される気遣いはない。しかしそれほど猶予があるわけでもない。イーシャットは目を凝らした。いろんな所に忍び込んでいろんなものを探り出すのはイーシャットの本職である。夜目も結構効く方だ。
虫たちは、イーシャットを警戒して、空中から降りる気配はない。
しかしさっきから、高度が次第に下がっている。イーシャットは試しに虫の固まりに向けて駆けだした。とたんに虫の固まりが浮上して、イーシャットの手の届かない高さにまで戻った。距離を取り、イーシャットから充分離れると、また緩やかに下降する。
そりゃそうだ。イーシャットは顎に手を当てて思案した。
何しろあの形状だ。虫の数はかなり多いとはいえ、荷物を運ぶのに適した形状とは言えない。できるならどこかで一度王子を降ろし、もっと別の、そう、王子を捕らえて運ぶのに適した形態に変化したいだろう――あれに意志があり同時に自在に形状を変化させられると、仮定しての話だが。
好機はきっと来るはずだ。イーシャットはじりじりと、さりげなく間合いを詰めながら、その好機が来るのを待った。
そしてそれはすぐに来た。
魔物に追われたフェルドが、打ち合わせどおり、闘技場の中に駆け込んできたのだ。松明を持っているが、その明かりは余りに小さく、フェルドの周囲を照らすだけの力しかない。
ブウゥ……ン。虫の羽音が変わった。フェルドが羽音に驚いたように立ちすくんだ、その瞬間にイーシャットは走り、力一杯跳んだ。フェルドに気を取られた虫たちは一瞬だけ反応が遅れた。「殿下、手を下に出して!」カーディス王子の小さな手のひらが虫の中から突き出され、イーシャットはそれをしっかりと掴んだ。落ちる勢いのままに王子の体を抱き抱える。虫の群にはもちろん、イーシャットの体重まで持ち上げる力はなかった。ふたりは地面に落ち、イーシャットは即座に王子の服を引っ剥がした。中に入っていた虫をその服で払いながら王子を抱えて走る。一直線に、フェルドに向けて。
そしてイーシャットとカーディス王子はようやく、フェルドの隣に辿り着いた。やれやれ、これできっと何とかなる。虫たちはまだ諦めきれないように、彼らの周囲を回っているが、フェルドに近づくのが怖いらしく、遠巻きにしている格好だ。
と、フェルドが言った。
「……ぶっ殺す」
ぎょっとした。呼吸を整えながら見上げると、フェルドの目の色が変わっている。
怖い。王子がさらわれかけたと知って激怒したのだろうか。もちろん怒るのは当然だが、あまり頭に血が上っては、冷静な判断ができなくなるのでは。
「あのさ……」
意味もなく声を上げ、何て声をかけるべきかわからなくなって口を閉じる。松明の明かりで見るからか、フェルドの顔色が悪い、気がする。汗がにじんでいる、これはもちろん、走ってきたからだろう。唇が小刻みに震えている。寒いのだろうか。
耳を澄ませるとぶつぶつ呟いているのが聞こえる――
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
どうしよう。一番頼れる味方であるはずの存在が、なぜだか今、とてつもなく怖い。
闘技場の客席の最上段に、魔物が降りたった。オオオオオオオォォォォ……長く尾を引く遠吠えをしてから、魔物がこちらを見た。大きな、複雑な色をしたあの瞳がくっきりと見える。
『追いつめたぞ』
魔物が声を上げた。愉悦の声。
『太陽が昇る前に片を付けてやる。守護者よ、心配するな。“流れ星”もすぐに探し出して後を追わせてやる』
そして魔物は、フェルドに向けて跳躍した。