第四章4
『見つけたぞ」
ヴァシルグはあの魔物の声でそう言って、ラセミスタに手を伸ばした。
――はいっ、あたしです! あたしが治しました!
――大丈夫、大丈夫。大丈夫。大丈夫。
――マリアラ、無事だった。良かった。
今までに聞いたラセミスタの声が頭の中をぐるぐる回る。絶対、と思う。絶対、絶対、あの子を傷つけさせたりしない……!
「ラセミスタさん!」
周囲を風が渦巻いた。今までで一番やすやすと、風はラセミスタの目の前に、分厚い空気の壁を築き上げた。ヴァシルグの腕が風に阻まれ、押されたラセミスタが尻餅を付いた。マリアラは叫ぶ。
「ミフ、省エネモード解除。ラセミスタさんを助けて!」
『おっは――よー!!』
挨拶の最後を気合いに変えて、即座に状況を把握したミフがヴァシルグに柄をたたきつけた。「ヴェグ!」アンヌ王妃が鋭く叫び、扉が開いてヴェガスタが駆け込んできた。マリアラはラセミスタのわきの下に手を入れてずるずる引きずってそこから退かせた。
窓からヴァシルグが入ってきた。
異様だった。
マリアラは戦慄した。ヴァシルグの表情は、死人のそれだった。瞳が濁っている。瞬きもしない。しかしそのガラス玉のような瞳は確かにマリアラを見ている。くくく、とヴァシルグの喉が鳴った。
『見つけたぞ、流れ星。――ぜったいにそなたらを見逃しはせぬ!!』
どん。
ヴァシルグの手から、毒の固まりが射出されてヴェガスタに襲いかかった。「がっ!」額に直撃してヴェガスタが仰け反った。「ヴェグ!」アンヌ王妃の悲鳴。続いて駆け込んできたフィガスタが光の筒を撃った。しかしヴァシルグを身にまとった魔物には、さっきまでほどは効かなかった。どん、どん、どん。連射を受けてもたじろがず、ヴァシルグの体はゆっくりと剣を振りかぶった。横合いからエルギンが殴りかかり、小柄な少年の体が毒の固まりを受けて後ろに倒れ込んだ。
「――下がりなさい!」
鋭く叫んだのはニーナだ。ヴァシルグにとりついた魔物は一瞬怯んだ。しかし、かかか、と乾いた笑い声を上げた。さげすむような声。
『エルカテルミナ――いかにこの世の花だとて、そなた未だに人としての殻を脱ぎ捨ててもおらぬ。未熟な花よ、そなたの威圧はこの身には効かぬ!』
「こちらへ」
アンヌ王妃がニーナを庇うように抱き締め、その左肩に魔物が毒を撃ち込んだ。「アンヌ様!」あがった悲鳴はニーナのものか、それともデボラのものだっただろうか。
そして。
ヴァシルグを纏った魔物が、ゆっくりとこちらに向き直った。
あの毒の固まりは、“殻”に守られた人間にはあまり効果がない。しかしマリアラには致命的だ。仮魔女試験の時、ジェイドが魔物の毒を投げつけられて即座に倒れてしまったことを思い出す。
ヴァシルグの動きがやけにゆっくり見えていた。
マリアラの意に従って、風が渦を巻いている。しかし魔物も風を使えることは明らかだ。風の渦は次第にゆるやかになり、反応が鈍くなり、削られ、間引かれ、押さえつけられていく。自分の意に従ってくれる風たちが次第に力を失い、沈黙させられ、殺されていく。魔力の差は圧倒的で、指の隙間から零れる砂を止められずにただ見ているような気分だった。でも諦めない。絶対諦めるものか。マリアラは歯を食いしばった。風を完全に奪われたらお終いだ。毒に撃たれたら動けなくなる。左巻きの魔女はマリアラだけだ。毒抜きができるのも、マリアラだけなのだ。ラセミスタと一緒に帰ると、約束したのだから。もうすぐフェルドが来るはずだ。もうすぐそこまで来ているはずなのだ。例え魔物が相手だろうと、あと数分持ちこたえるくらい、絶対何とかなるはずだ。
魔物が毒を撃った。
左向きの風が寸前で、その毒を叩き落とした。魔物が唸り、もう一度撃った。それもなんとか阻む。
その時、窓から何かが飛び込んできた。フェルドだ、と思った。
しかし視界に入ったのは、箒に乗った大柄な、若者だった。マリアラは愕然とした。フェルドじゃない。
フェルドじゃなかった。飛び込んできたのは、間違いなくフィなのに。
『もらった!』
愕然とした瞬間に風が完全に奪われ、毒の弾が、マリアラに向けて放たれた。
寸前で、ラセミスタが動いた。座り込んだ体勢から伸び上がるようにしてマリアラに飛びついたラセミスタの背に、毒の固まりが炸裂した。「ラセミスタさん――!」ふたりはもつれ合うようにして倒れ込み、ヴァシルグが踏み込んだ。剣を構える。切っ先が光る。ラセミスタの、背の上に、翳される。
「マスタードラ! ――そいつを斬ってくれ!」
エルギンの声が響いた。フィに乗ってきた若い男が、即座に答えた。
「御心のままに」
ラセミスタの上に振り下ろされそうになっていた剣が、それを握った拳ごと横に飛んだ。
マリアラはラセミスタの下敷きになったままそれを見ていた。噴き出た血が黒ずんでいるのが目に焼き付いた。瞬きすらできなかった。若者はヴァシルグの腕を斬りとばした体勢から一度剣を引き、腰だめに構えた。鋭い呼気が響いた。銀の光が燦めいた瞬間、魔物の体ごと、ヴァシルグの喉元に深々と突き刺さった。
底冷えがするような太刀筋だった。
辺りは水を打ったように静まりかえっていた。静寂の中、ゆっくりと、ヴァシルグの体がくずおれる。魔物がヴァシルグから離れ、身をよじって、マスタードラの剣から自らの体躯を引き抜いた。傷口からぼたぼたと毒を垂らし、魔物は喘ぐ。
『……おのれ、今少しのところ……、で!?』
異様な気配が辺りに満ちる。魔物は威圧に恐れをなして、後ずさりながらそちらを見た。
そこにニーナがいた。
肩を押さえたアンヌ王妃の傍らで、ニーナは両足を踏みしめて立っていた。鳶色の瞳が輝いていた。ふわふわの髪が翻り、ニーナは囁く。
「……そなたはこちらにいるべきではない」
それは確かにニーナの声なのに、ニーナの声とは明らかに違っていた。彼女が一歩足を踏み出し、魔物は恐れるようにまた後ずさった。マスタードラの剣を、それからニーナの威圧を、恐れて、魔物はそろそろと後ずさっていく。ニーナの視線を浴びて、魔物の体がしゅうしゅうと音を立てている。ぱらぱらとこぼれ落ちるのは、灰――だろうか。しゅうしゅう、ぱらぱらと、音を立てながら魔物の体が崩れていく。崩れていく。崩壊は速度を増しながら魔物の体を蝕んでいく。
『そんな……そんなはずは。そんなはずはそんなはずは。儂が。儂が、儂がなが、長い、長い年ねん年月かけて積み重ねて、きた、きた、きたもの、きたものものものものものものものものものがものがものがものがものが――!』
「陛下――!」
出し抜けに廊下から声が響いてきた。
「支度が整いました! 場所を特定、退路を断ち、包囲完了でございます! ご足労願います、誓って御身に危難の及ばぬようにいたします、我ら王宮警備隊衛兵一同の働きを、どうぞご覧ください!」
魔物はその一瞬を逃さなかった。
ニーナの視線がごく一瞬だけ逸れた隙に魔物はエルギンに向けて毒を射出した。マスタードラがその毒をたたき落とした瞬間に魔物は飛んだ。窓の外へ、もんどり打って転がり落ちていく。
「ヴェグ!」
アンヌ王妃が鋭く叫んだ。「おう!」ヴェガスタが高らかに応える。
「草原の民の加勢を願う、あの魔物を逃がすな!」
「よっしゃ、任せとけ! フィグ、行くぞー!」
ヴェガスタは水を得た魚のように飛び出していった。フィガスタも、「あーしょーがねーなーもー」などと言いながらその後を追っていった。
「陛下――陛下、この有様は、いったい、魔物が――こちらにも!?」
ヴェガスタとフィガスタに押しのけられた衛兵が戸枠を掴んで戻りながら声を上げる。アンヌ王妃はほつれた髪をかき上げ、凛と声を張った。
「今参ります。……どうか」
そして彼女は、恭しく、ニーナに向けて手を差し伸べた。
「ご一緒いただけませんか。あなたの愛する世界を蝕むものを――王宮に巣くい王を狂わせる魔物の所在を、このたび、ようやく突き止めました。あなたの崇高な働きを陰らせるモノは、わたくしどもにとっても憎い敵。ご助力をいただこうとは思いません、けれど、どうか。わたくしたちがあなたとお母様の目指す平和と安寧への道に、背くものではないという証拠を、これからご覧に入れますわ」
「ええ、いいわ」
ニーナは頷いて、アンヌ王妃の差し出した左手に、自分の小さな右手をそっと重ねた。
「見せていただきます。王の妻であられるアンヌ――アンヌ=イェーラ・アナカルシス。貴女のお名と働きを、母様にお話しできるように」
「光栄ですわ。参りましょう。……箒がもう一本。これで、昼までに間に合うのでしょう? 行けるのはその剣士と少年だけ? 他の方たちのことは、どうかご心配なさらないで」
言いながらアンヌ王妃は、ニーナを促して歩き出した。エルギンに、微笑んでみせる。
「あなたの妹とそのお友達は、わたくしに任せて。あなたは自分の行くべき所へお行きなさい」
アンヌ王妃とニーナはそのまま出て行った。デボラが、アンヌ王妃が初めにかぶっていた、あの勇ましい兜を捧げ持ち、意気揚々とその後を追った。エルギンがラセミスタを見た。縋るように。ラセミスタはまだマリアラに縋り付くような体勢のまま茫然としていたが、ようやく起き直ってマリアラを見た。
「……フェルドじゃなかった」
「う、ん。……ラセミスタさん、背中、大丈夫……? ごめんね、わたし、……ごめん……」
「ごめんねじゃなくて」ラセミスタは言って、照れくさそうに笑った。「違う言葉が欲しいな。あたしは、大丈夫。大丈夫だよ、孵化してないもん、傷口とか粘膜とかに付着したんじゃない限り、毒の影響は軽いもんだよ。それよりマリアラは、大丈夫? 当たってない? マリアラはちょっとでもかすったら大問題なんだから、ちゃんとチェックしないと」
「……ええと」
マリアラは迷い、それから、思いついた。微笑んで、言った。
「ありがとう。……ありがとう。助けてくれて」
「うん、それそれ。どういたしまして! 大丈夫大丈夫、あたしは平気だから!」
『ねーねーねー、フィが何にも言わないの。大丈夫かな。壊れちゃった?』
ミフが割り込んできた。見ると、確かに、剣士の若者が乗ってきた箒は壁際で倒れたまま、動かなかった。剣を収めた若者はフィを丁重な手つきで拾い上げ、こちらにやってきた。
「ふたりの少女ってのはあんたたちか。エルギン様を助けてくれてありがとう。エルギン様、ご無事で何よりでした」
「……マスタードラ。死んだって、殺されたって、……聞いて」
エルギンの声が震えた。マスタードラは明るく笑った。
「俺が死ぬわけないでしょう」
「う、ん……イーシャット、は?」
「あー、ぴんぴんしてますよ。まあちょっと焦げたくらいですかね」
「こげた!?」
「大丈夫、元気満々です。……ええと、この箒だけど……」マスタードラはこちらに向き直った。「初めのうちは結構、そうだな、話しかけたら応えてくれてたんだが、ちょっと前くらいから何も言わなくなってな。動きも鈍くなって……俺が重すぎたのかな。大丈夫か?」
「え、ああ……」ラセミスタはこくこく頷いて、フィを受け取った。「大丈夫です。フェルドの魔力でも、さすがに遠すぎただけです。良くここまで保ったなあ。フィ、頑張ったねえ」
「お話中申し訳ありませんが」イルジットが声をかけてきた。「別室をご用意いたしましたから、そちらへお移りいただけませんでしょうか。さあさあ、こちらへどうぞ」
その言葉に我に返ってみれば、豪奢だった部屋の中はひどい有様になっていた。調度類がそこかしこに投げ出され、あるいは割れ、あるいは転がっている。何より毒やヴァシルグの毒混じりの血がそちこちにしみを付けている。マリアラは思わず口を押さえた。さっきの恐怖と重圧がぶり返しそうになる。遺体の凄惨さに今さら目を背けると、イルジットが背中に手を宛ててくれた。温かな手のひらで、マリアラとラセミスタの背を庇うようにしながら、イルジットはさっさとその部屋から一行を連れ出した。
「あの……フェルドに、会われましたか? 元気、でしょうか? 無事ですか?」
向かいの部屋に案内されながら囁くと、マスタードラはマリアラを見下ろし、開けっぴろげな笑顔を見せた。
「ああ、無事ですよ。俺が出たときにはもう結構元気そうでした。自分で来たがっていたんですがね、俺はほら、エルギン様の護衛だし、あいつはほら、得体が知れない不審者だしで」
「ふ、不審者?」
「いやいや、だってそうでしょう、得体が知れないじゃないですか」
マスタードラはあっけらかんと言う。歯に衣着せないと言うよりは、悪意も善意もなく、ただ事実をそのまま口に出してしまう人らしかった。マスタードラは笑って頷いて見せた。
「今はもう不審者じゃないから、大丈夫ですよ。今頃マーシャの飯をたらふく食って、のんびりくつろいでるんじゃないかな」