第四章3
デボラが扉を開け、外にいるヴェガスタとフィガスタに何か話している。
ニーナが自分のぶん、それからエルギンが差し出したぶんの菓子や食べ物を全部綺麗に食べ終えるのを待ってから、アンヌ王妃はエルギンに言った。
「さあ、支度をなさい。ヴェグとフィグを共に行かせましょう。今から戻っても狩り終了の刻限までには間に合わないでしょうけれど、諦めるよりはマシですからね。わたくしが一筆添えて上げますから」
「……それも僕は、お願いしようと思ってきたのです」
エルギンは茶器をおき、彼女に向き直った。
「僕は……王位……その、父の跡を継ぐ権利を放棄できないかと、思っているんです。僕の弟は優しい性格ですし、何より母上様がとてもその、優しい方ですから……ルファ、いえ、彼女の土地を弟が治めても、それほどひどいことにはならないのではないかと。それなら。母を犠牲にし、アンヌ様の評判も犠牲にするくらいなら……」
「……」
「イーシャットもマスタードラも、殺したと、ムーサが言っていました。たぶん嘘だと思います。思います、が……今回のことをおいても、あの二人には、僕は、本当に、面倒というか、迷惑をかけっぱなしで……僕が諦めれば、彼らは楽に暮らせるのではと。……そのお力添えを、願えないかと」
「逃げれば楽になると?」
王妃の声が凛と響き、エルギンはびくりとした。「い、え……」
「身内の心配ももちろん当然でしょうけれど……そうね。仕方が、ないかもしれないわね。あなたはそんなにまだ小さく幼いのに、その背に、余りに重いものを背負わされている。あなたは年の割に聡明だから、最悪の未来ばかり見えてしまうのかしら。
……本当に、父親によく似ていること」
そう言って彼女は、微笑んだ。
「あの方も同じ。全部ご自分で背負おうとなさる。すべて……すべてを背負い、最悪の未来を見て、その未来に周りの者を巻き込むまいとなさるあまりに、わたくしや他の者たちに、助けてくれ、とは言ってくださらない。周りに、あの方の目的を共に背負いたくてうずうずしている人間が、たくさんいるというのにね。
あなたの背にある重荷を、分かち持ってくれる人は近くにいないの? あなたの身内は、信頼に足らない存在なの? 言ってご覧なさいな、一緒に頑張って欲しいって。ひとりで背負ってはだめ。助けて欲しいとおっしゃい、さっき、わたくしに言ったように。妹の保護を願うことはできるのに、なぜ自分のためには言えないの? 分かち合う人を増やしなさい、それは、普通の人として生きるよりも、あなたの今の身分を保ち続けた方がずっと探しやすいはずよ。責任は重いかも知れないけれど、そのぶん、人を引きつける。普通の人よりもずっと多くの人があなたの周りに集まる。悪い人も来るけれど、いい人もたくさんいるはずよ。
あなたの本心はどこにあるの? 自分の願いを棄て、身内の幸せを願うのは結構だけれど、その荷を、一緒に背負ってくれと言われる方が、ずっと嬉しい人もいる――はずなのに」
「アンヌ様、馬の用意が調いました。ヴェグの着替えも済みましたよ」
イルジットがささやき、王妃は微笑んで、エルギンに言った。
「さ、お行きなさい。妹さんのことはわたくしに任せて」
「……あのう……」
そのときラセミスタが、おずおずと声を上げた。
王妃の視線に、彼女は居心地悪そうにもじもじした。
「もう少しだけ、待ってもらえませんか。ミフ、フィが今どの辺まで来てるかわかる?」
返事がない。マリアラはミフを喉元から引っ張り出した。さっき魔物に網を投げた後、戻ってきてからミフはひどく静かだった。今も静かで、何も言わない。首もとの鎖を外してミフをラセミスタに渡すと、彼女は小さく縮めたままのミフをまじまじと見て、「あー……」と言った。
「そっか光網の効果で魔力の結晶が目減りしたんだ……省エネモードに入っちゃってる」
「だ、大丈夫? 直る?」
「大丈夫大丈夫、結晶追加してモード解除すればすぐ直る。すみません、あのね、今、この箒と対になってる、もう一本の箒が、こっちに向かってるはずなんです。その箒とこの箒、両方組み合わせて改造すれば、えーと……今、夜明け? 前、くらい? 箒の速度は足し算じゃなくてかけ算なので、えー、ここまでくるのに二日、でもゆっくり目に飛んできたから――全速力出せば、正午までにあっちに戻れ、ます。り、理論上は」
みんなの注目を浴びて、ラセミスタは居心地悪そうにもじもじした。アンヌ王妃は目を丸くしている。全く理解不能、という感じだ。ラセミスタはまたもじもじした。
「し、し、し、信じ……られ、ない、でしょうが……今こっちに向かってる箒にはフェルドが乗ってるだろうから、そのままとって返してもらう……ずっと飛んできて疲れてるだろうけど、まあフェルドの体力と魔力なら何とかなる、はず。飛びながらなんか食べてるだろうし、だから理論上では可能なんです。それに、乗れるのはエルギンとフェルドだけ、あたしとニーナとマリアラは、このままここでご厄介にならざるを得ないので、そのあたりご了承いただければ、と……」
「……間に合う?」
エルギンがつぶやいた。その目を見て、マリアラははっとした。
少年の瞳に光が灯ったのが見えた気がした。今までだってずっと綺麗だったその鳶色の瞳が、今や輝いているようだった。瞳の奥底で、何か、ずっとくすぶっていたものに灯がともった。アンヌ王妃は黙ってじっと考えていたが、エルギンを見て、微笑んだ。
「誰かがどうにかしてくれると、遠くでやきもきするよりも……自分でそれを成し遂げられるなら、そっちの方がずっといい。……そう、思わなくて?」
「……は、い?」
「わたくしは思っていたわ。わたくしの故郷、イェルディアは、ここよりずっと、草原に近いの。幼い頃から蛮族と略奪に怯え、苦しめられる人々を見てきた。いつか誰かが……ヒル兄様……ヒルヴェリン=ラインスターク将軍や国王陛下のような方々が、いつかどうにかしてくださると……思って、やきもきしていた。でも、十五歳の頃、ついに我慢できなくなって、ふたりの剣士にお願いした。わたくしの剣になって欲しい。草原に乗り込み蛮族を平定し、略奪を辞めさせ、アナカルシスに従うようにするから、その手助けをして欲しい……とね」
なんだそれ。
マリアラは呆気に取られていた。
エルギンもだ。かすれた声でつぶやいた。
「まさか本当に、ご自分で? ……噂だと、思っていました」
「噂なものですか。まあだいぶ尾ひれは付いているでしょうけど、ふたりの剣士を頼りに、草原に乗り込んだのは本当だわ。あちらにヴェガスタのような、話の分かる、ちょっと愚かで絆されやすい男がいたのが幸運だったのよ。何度も死ぬような目に遭ったけれど……とても楽しかった。生きていると言う感じがした。どこかの誰かがうまくやってくれるよう願っているよりも、ずっとずっと、楽しかったわ。
あなたのその心を、大切にしなさい。カーディスが名君になってくれることをどこか遠くから願うより、自分で名君になりなさい。この国で、名君になることを願ってもいいのは、あなたとカーディスだけなのよ。犠牲がなに? 迷惑がどうしたっていうの? わたくしのふたりの剣士は、わたくしのために働き、死ぬような目に遭い痛い思いもつらい思いもしたわ。――でもわたくしは後悔はしていない。謝罪もしない。それよりもっとたくさんのものを、彼らも得たから。わたくしは彼らの恩を忘れなかったし、ひとりへは借金も全部返してあげましたし、職を探してもあげました。あのまま飲んだくれて自暴自棄になってのたれ死ぬよりずっと良かったはずだし、もうひとりへは今も……一所懸命、恩を返そうとしている最中よ」
「……」
「でも本当に、間に合うの?」
アンヌ王妃は不安そうにラセミスタを見、ミフの修理を始めていたラセミスタは顔を上げて、頷いた。
「これに関してあたしは本職なんです。剣士を連れて草原に赴くことはできないですけど、乗り物を改造することはできます!」
「まあ、頼もしいこと。そうね……」そういって彼女は、くすくす笑った。「イェルディアの民たちも、本当にそんなことができるものか、と思ったでしょうからね。何か必要なものはあって? あるなら用意させますから何でもおっしゃいな」
「あの……本当に、いいのですか?」
マリアラは訊ねずにはいられなかった。
だってこの人は、エルギンのではなく、ライバルであるはずのカーディス王子の母親だ。さっきも、“王太子に手を貸すことはできない”と、はっきり言っていたのに。アナカルシスの歴史には、いつも血なまぐさい陰がつきまとう。政争、陰謀、暗殺……エルギンが王になり、もしカーディス王子やアンヌ王妃を厭ったら、とか、考えないのだろうか。
アンヌ王妃はマリアラの問いに、おかしそうに微笑んだ。
「……なんの話かわからないわ。ここにいるのは昔、わたくしの息子と川の畔で遊んでくれた、名前も知らない通りすがりの男の子だもの」
ごつん。
窓が鳴った。
「フェルドかな?」
ラセミスタが言って、ミフをマリアラに手渡した。「省エネモード解除、って、言って。声紋違うと効かないから。……もー遅いよフェルド、待ちくたびれちゃったよー」
言いながらラセミスタが窓を開けた。
そして立ちすくんだ。ひうっ、ひきつった声が響いた。マリアラはぞっとした。
窓の向こうに立っていたのは、フェルドではなかった。ヴァシルグだったのだ。