第四章2
「ヴェガスタ。これは一体何の騒ぎなの?」
「話は後だ!」
ヴェガスタは床にラセミスタとニーナを投げ出すや跳ね起き、腰紐に差していた斧を掴んで廊下に取って返した。危ないところで間に合った。ヴァシルグがデボラの箒の柄をたたき切り、フィガスタの弾を避け、デボラの頭の上に剣を振り下ろすところだった。がいん、ヴェガスタの斧が剣をはじき返した。デボラが急いでヴェガスタの背後に回り込み、ヴァシルグが舌打ちをする。
マリアラは急いで床に投げ出されたラセミスタの方へ行った。
彼女は蒼白になっていた。歯の根が合わずカタカタ震えていた。よろよろと身を起こし、隣に起き直ったばかりのニーナに手を伸ばす。
「に、ニーナ。ニーナ、ニーナ、だ、だ、だだ大丈夫だった……?」
「うん、大丈夫だよ」ニーナが頷く。「ラセミスタの方こそ、大丈夫?」
「だ、だ、大丈夫。大丈夫大丈夫ははははは」
そしてラセミスタはマリアラを見上げ、長い長いため息を付く。
「ままマリアラ、無事だった。よ、よ、よかっ」
いったい何を言い出すのだこの子は。
マリアラは彼女の隣にぺたりと座った。幼い頃にラセミスタが同室やクラスの女の子たちに忌避されたという事実が、信じられなかった。まだこんなに蒼白なのに。カタカタ震えているのに。それなのに彼女はひきつった顔に笑顔らしきものを浮かべて、マリアラの無事を噛みしめるようにうんうんと頷いた。
「よ、よ、良かった無事で……もう会えないかと思、って、」
「……わたしも」
左手を伸ばしてラセミスタの背に触れる。冷え切っている。どれくらいの距離をヴェガスタに抱えられて走ったのかわからないが、絶望に近いほどの恐怖の時間だったに違いない。それなのにまずニーナとマリアラの心配をするような子に、いったいなぜ、幼年組の同室の子やクラスメイトたちは、みんなで結託して無視して嘲り笑うような仕打ちができたのだろう? あなたたち知らないくせにと、思った。あなたたち何にも知らないくせに、こんな子によくも、よくもよくもよくも、人間不信になってしまうくらいの痛手を与えてくれたものだ。もし犯人がわかったら、べしべし叩きに行ってやるのに。
強ばっている背中の筋肉をほぐし、血流を助ける。いつかイェイラがフェルドにやったような短時間でというわけにはいかなかったが、それでもやらないよりはずっとマシのはずだ。
廊下の方はと言えば、均衡状態に陥っていた。フィガスタは筒を外しており、代わりに剣を抜いて扉の前に陣取っていた。ヴェガスタも斧を構えて同様に扉を守っている。ヴァシルグは毒々しいような視線で扉に立つ男二人を睨んでいるが、他のマーセラ神官兵たちはどことなく逃げ腰で、引き上げ命令を待つような雰囲気を醸している。
と。
「ちょいとこっちに。声を立てるんじゃないよ」
デボラが言って、ニーナを促した。そっと立ち上がらせ、途中でエルギンも回収して、暖炉の陰に連れて行く。
暖炉はとても大きくて、人が身を屈めずに中に入れるほどの高さがあった。季節柄火が入っておらず灰も綺麗に掃除されているそこに、デボラはふたりの子供を隠した。自分はその前に陣取るように立つ。
入れ替わりに進み出たのは、デボラよりもっと年かさの女性だ。ふくよかでおっとりした雰囲気を醸している。彼女はすすす、と進み出て、アンヌ王妃に、いいですよ、というように目配せをした。
アンヌ王妃は軽く頷いて、フィガスタとヴェガスタの間から廊下に進み出た。
「……これはいったいなんの騒ぎなの」
「マーセラ神官兵団長ヴァシルグでございます。夜分にもうしわけありません。アンヌ王妃陛下、賊が入り込みました。どうかお部屋を改めさせていただけませんか」
「この人たちは」アンヌ王妃は身振りでマリアラとラセミスタを示した。「わたくしの客よ。詮索は無用だわ。それよりあなたがたの持ち場はここじゃないはずよ。今この王宮でわたくしが何をしているか、よく知っているはずでしょう? 持ち場を離れてわたくしの客を追い回して本命を逃がしたら、本末転倒というものじゃないの」
「アンヌ様」さっきのふくよかな女性が穏やかな声で言った。「差し出口をお許しくださいませ。この者たちはマーセラ神官兵でございます。こたびの計画には入っておりません」
「あら、そうだったかしら? そうか、そうだったわね」
予定調和のやりとりを、ヴァシルグは忌々しそうに見つめていたが、押し殺したような声で訊ねた。
「――恐れ入りますが、陛下、何か作戦の途中でございましたか」
「そうよ。――おかしいわね、作戦に関わっていない兵がいまこの時に王宮にいるなんて。ねえイルジット、マーセラ神殿へも届けを出してあったはずよね?」
「はい、それはもちろん。ここにいる方々は非番だったんでしょうか、でもおかしいですわね。数日前には通達したはずですのに」
ヴァシルグの後ろでマーセラ兵たちがもじもじしている。彼らは有無を言わせずヴァシルグに引っ張ってこられた人たちなのかも知れない。アンヌ王妃は彼らを見ながら独り言のようにつぶやいた。
「今宵王宮で何らかの騒ぎを聞きつけたとしても詮索は無用――と、通達を出していたのにね。何も知らない外部の方々にこの中をうろうろされては困る、という、わたくしのお願いを無視したと。それにあなたがヴァシルグだというのが本当なら、今、ルファ・ルダでカーディスのために働いてくれているべき時じゃなくて?」
彼女の醸す雰囲気が、少し変わった。
イルジットと呼ばれた女性が彼女に、さっと扇を手渡した。ぱさ。羽でできた豪奢な扇を開いて、アンヌ王妃は口元を隠した。長々と、ヴァシルグを見据える。いたたまれない沈黙が廊下に落ちた。
その間にイルジットがこちらにやってきて、ラセミスタを立ち上がらせ、マリアラには目配せをして、ふたりを部屋の奥にある座り心地のよさそうなカウチにまで連れて行った。ふたりを並んでふかふかのソファに座らせて、ローテーブルの上に、あっという間にお茶の支度を整えた。部屋の奥から料理人がワゴンを押してきて、コオミ屋で出されるような三段重ねのお皿にスコーンとクッキーとサンドイッチ、フルーツの盛り合わせが準備された。呆気に取られるふたりに、イルジットが囁く。
「どうぞご安心を。お客様だとあの方がおっしゃったのですから、あなた方はもう絶対安全です。わたくしどもが何としてもお守りいたします。だからしゃんとなさい。あなた方は王妃のお茶会に招かれた賓客ですよ」
自然と背筋が伸びる。足を揃えて座り直したふたりに、イルジットは満足そうに微笑んだ。
廊下で、アンヌ王妃に長々と見据えられていたヴァシルグは若干、居心地が悪そうだった。しかし気を取り直したように声を上げる。
「しかし、このふたりは。草原の民は既に王宮から放逐されたはず――」
「草原の民? いったい誰のこと? このふたりはわたくしの昔なじみ。今回の作戦に、衛兵の全員が必要だったの。でもその間に万一、わたくしの周りに敵が来たときのために、わざわざイェルディアから呼び寄せた護衛よ」
「そんな、バカな!」
「聞き捨てならねえな」ヴェガスタが熊のような声を上げた。「娘っ子がバカだと? 言いやがったのか? 正気かおめえ、その舌引っこ抜くぞ!」
「カーディスのための狩りを放り出したこと」王妃はぱちんと扇を鳴らした。「ルファ・ルダにいなければならないこの時にここにいること、わたくしの重要な作戦のただ中に要請を無視してマーセラ兵を中に入れ、作戦をひっかき回し、わたくしの昔なじみに睨まれ、さらにはわたくしの客を追いかけ回して恐怖を与えた。ねえあなた」
アンヌ王妃はヴァシルグに、扇の先を突きつけた。
「あなたはさっき、ヴァシルグだと名乗ったわね。本当にマーセラ兵団長のヴァシルグなの? そうなの? それが本当なら職務放棄、確認を怠りマーセラ神官兵を独断で、それも私用で働かせた、王宮への不法侵入、作戦の妨害、王妃の客への暴力、暴言および殺害未遂? まあまあ、よくもこれだけ重ねたものね。――これほどの罪が重なれば、ムーサももはやそなたを庇いきれまい。降格処分や懲戒免職程度で済めばいいけれど。まあこれも、あなたが本当に、ヴァシルグならばだけれど?」
「――」
「お下がりなさい」アンヌ王妃の通告はひどく静かだった。「衛兵が戻ってくれば、マーセラ兵団長ヴァシルグの名を騙ったという罪状までが加わるわよ」
「お待ちを。ひとつ、ひとつだけ。ただいま王宮で進行中の作戦とは――」
「どこの誰とも知れぬ人間に、教えるわけがないでしょう。バカね」
ヴェガスタとフィガスタが扉を閉めた。扉の向こうで、兄弟が口々に、マーセラ兵たちに帰れ帰れと声を上げているのが聞こえる。アンヌ王妃はこちらに向き直り、唇をほころばせた。
「ああ、ついに言ってやったわ。イルジット、聞いて? うまくやれていて?」
「ええ、アンヌ様」イルジットも嬉しそうだ。「お見事でしたわ!」
暖炉の方で、デボラも嬉しげに声を上げる。
「ご覧になりましたでしょ、ヴァシルグのあの顔! ああすっとした! ざまあ見ろってなもんですよ! あー、あの草原の男どもは馬臭いし粗野だし乱暴だし飲んだくれるしで手ばっかり焼かされますけど、ムーサとヴァシルグに比べりゃ数段ましですからね!」
そう言いながらデボラはニーナとエルギンをこちらへ連れてきた。アンヌ王妃は優雅な仕草でマリアラとラセミスタの向かいのカウチに座り、エルギンが一人掛けのソファに座った。ニーナはラセミスタの隣に座り、ぎゅっとラセミスタに抱きついた。その様子を見て、アンヌ王妃は目尻を下げた。
「可愛らしい妹さんね。どうぞ、お茶を召し上がれ」
ニーナがエルギンをみた。「いもうと?」
「そうだよ。妹が人買いにさらわれそうになったから、昔お会いしたことのあるアンヌ王妃陛下に保護をお願いしたんだ」
「……初めから」ニーナはエルギンに向き直った。「お母様に会いに来たのじゃなくて、初めから……アンヌ王妃に、会いに来るつもりだったの?」
「……ごめんね。言ったらその、嫌がると思ったんだ」
「……」
ニーナは俯いた。エルギンが困ったようにニーナを見ている。ややしてニーナは、囁いた。
「エルギンも、……話して、あたしに、説明するより、連れて来ちゃった方が速いって……考えるのね」
「……え?」
「ごかい、しないで」ニーナは顔を上げ、ぱちぱちと瞬きをした。「誤解しないで。確かに、確かに……ムーサが本気であなたを殺してあたしをさらって、狩りの結果なんて待たずにルファ・ルダを手に入れてしまおうって、してたんだから……この方に頼れるのなら、頼るのが一番だわ。あたしのためよ、それはわかるわ。あたしのためになることだもの、あなたに怒っているわけじゃないの。でも……」
「……?」
「……どうして、説明してくれなかったの? あたしはそんなに聞き分けの悪い子じゃないわ!」
「確かに、あなたの怒りは尤もです」
そういったのは、アンヌ王妃だった。ニーナがそちらを見て、はっとした。アンヌ王妃は左手で、空に、何かの模様を描いた。そうしてから囁く。
「本当にそうよ。本当にそう。説得の手間を惜しんだのは、本当にこの子の落ち度だわ。話が通じる相手だと、わかっていて良さそうなものよ。わたくしの知る人に、あなたはよく似ている。その子は三歳で地位と両親を奪われ、世界の花と呼ばれる地位を受け継いだ。周りを恨んで良かったのに。奪った者を憎んで良かったのに。なのに――彼女は、その奪った者の治める国に住む人々のために、未だに国を経巡り、祈りを捧げて、ゆがみを払い魔物を遠ざけ、人々の安全を、安寧を、守り続けている。恨みを飲み込んで、責務を果たし続けている。そんな子に――誠心誠意心を込めた説得が、通じないわけがなかったのに」
「……」
「ただどうか、わかって欲しい。人間のもろさと弱さを、自分がまだ知らないのだと言うことを」
ニーナは食い入るようにアンヌ王妃を見ている。
その瞳を見返して、アンヌ王妃は微笑んだ。
「いつかあなたにも大切な人ができる。自分の命を懸けてでも守りたい、幸せでいて欲しいと、祈る相手ができる。それを知ったとき、人間は強くもなり、そして弱くもなる。自分にとって一番大切な人は、自分にとって一番の脅威となる。……だってあなたを一番傷つけることができるのも、その大切な人なのだから。肉体は鍛えられても、心は鍛えられない。だから怯える。怖くなる。大切な人であればあるだけ、説得が通じないことが怖い。誠心誠意説得したのに拒絶されたら立ち直れない。それを知っている者は、無意識に説得を避ける。説得などしないで連れてきてしまった方が良い――そんな風に、考えることもある、ということ」
「……わかり、ません」
「いつかわかってくれたらそれでいいわ。あなたの怒りも悔しさも尤もなこと。真っ当なことだもの。でも、――その間違った振る舞いをする人間が作り上げている世界に、あなたは生きているの。今後もきっとあなたはそういう目に遭い、理不尽だと怒ることになるでしょう。仕方がないわ。あなたの周りに大勢存在する人間は多かれ少なかれみんな弱くて、弱さ故に逃げたり摂理を曲げたりする。……そういうものなのよ。しょうがない」
「……でも」ニーナはきっとエルギンを睨んだ。「それがしょうがないことだとしても、あたしに説明しなかったことについて、怒るのは悪くないでしょう?」
「ええ、それはもちろん。あなたの怒りは尤もなものよ」
「そうよ! あたしが闇雲に、この国の王と王妃を毛嫌いしてへそを曲げてすねて暴れるとでも思ったの!? 見くびらないでよ!」
エルギンがうめいた。「……うわあ……ごめん……」
「うわあってなによ! しかも妹ってなに!? 妹ですって!? 人を妹扱いして、絶対許さないんだから――!」
「ふふ、さあ、お菓子を召し上がれ。焼き菓子はいかが?」
話の間に、新たな菓子が運ばれてきていた。チョコレートがある。クッキー、スコーン、キャラメルのようなものなどが満載されたお皿を前に、ニーナの怒りも自然と弱まらざるを得なかったらしい。とりわけ、ニーナの目の前に置かれた皿が、エルギンのものより遙かに豪華に美しく盛りつけられていたためか、ニーナは座り直した。
「――いただきます」
「ええ、どうぞ召し上がれ。ごめんなさいね、今取り込み中で、菓子もあまり揃わなくて」
「アンヌ様」気を取り直したようにエルギンが言った。「王宮でただいま進行中の作戦とは――」
「この機会に、大掃除をしたいと思っているのよ」
アンヌ王妃はそう言って、チョコレートを一粒摘まんで、にっこり笑った。
「陛下のお住まいを居心地よく整えるのは王妃の勤めですもの。そうじゃなくって?」
*
『――ヴァシルグ』
ようやくヴァシルグを捜し当てたとき、彼はひとりで、一階の廊下を歩いているところだった。マーセラ兵はあたりにおらず、彼はひとりで、どことなく悄然としていた。フレデリカは呆れる。
『何をしておる。マーセラ兵を集め、衛兵を集め、あの者共をあの女の部屋から叩き出さぬのか』
「……致し方ない。俺は降りる」
ヴァシルグの返答に、フレデリカは目を見張った。『は?』
「王妃の逆鱗に触れるわけにはいかぬ。失敗したのだ。だが『本当にヴァシルグなら』と言われた。偽者として引き下がり、ルファ・ルダに戻れば罪には問わぬと言うことだ。仕方がない。兵団長にまで上り詰めた地位を今更剥奪されてはたまらない」
『おのれ、正気か』
「正気だとも」ヴァシルグは唇を曲げて笑った。「仕方がない」
『何が仕方がないのじゃ! あの女も殺せ! 草原の男ふたりさえ排除すればたかが女数人、その手に掛ければ良いではないか!』
「王妃を殺しては、さすがに陛下もお目こぼしはなさるまい。この先――」
『先のことなど――』
「もう去れ」
ヴァシルグは足を早めた。フレデリカは愕然としていた。理想の男だと思ったのに。先のこと――先のことだと? 保身だと? 王妃に睨まれただけでしっぽを巻いて逃げ帰り、偽者だったと素知らぬ振りでまた元の職に戻るだと? ムーサに成り代わりその座をいただくとまで言ったくせに!
所詮そこまでの男だったのか。
理想の男など、この世にはいないということか。
とことんまでその手を血で汚し、襲いかかるすべてのものをはねのけてその道を貫く理想の存在など、この世にはいない。――フレデリカ以外には。
『失望した』
フレデリカは、ヴァシルグに襲いかかった。
ヴァシルグがとっさに振り上げた腕を手がかりにまとわりつき、彼の頭を捕らえた。「何をす」言い掛けた口に触手を伸ばす。口の中に毒を詰め込み鼻の穴を通って脳髄へ達し、そこに毒を解きはなった。
崩れ落ちたヴァシルグの後頭部にへばりつき、神経に毒を這わせる。
ゆらり。立ち上がった体は、さすがは兵団長と言うべきか、筋肉が発達していてとても動かしやすい。フレデリカはヴァシルグの体を動かし、一階から裏口へ出た。衛兵がいないのは好都合だ。廊下側にはあの筒を持った草原の兄弟がいる、ならば窓側から回るべきだ。
ごつごつした岩を積み重ねて作り上げられた王宮には、手がかりがそこかしこにある。上るのは本当にたやすくて、フレデリカはヴァシルグの背後でほくそ笑んだ。どんな作戦の進行中だが知らないが、自分のための衛兵を残しておかなかったあの女に、自分の愚かさと無力さを教えてやろう。