第四章1
本体が動き出した。それは根幹で感じた。どうしようか、とフレデリカは考えた。ここにいるフレデリカは、本体のフレデリカの傍へ行き吸収されるまで、意思疎通を図ることができない。一度本体のところへ行くべきだろうか。そして本体に状況を教え、対策を練るべきだろうか。
しかし、“流れ星”が今度はアンヌの方へ向かっていると言う状況は絶対に見過ごせない。
目を覚ました本体はもう一体分身を作るなどして、状況を把握しようとするはずだ。本体のことは本体に任せておけばいい。衛兵に見つかるような愚は犯さないだろうし――ここにいるフレデリカがだいぶ毒を持ち出してしまったから本体はだいぶ手薄になっているが、なに、“流れ星”を排除してから戻っても――
フィガスタはこの王宮に詳しい。あちらこちらの扉を抜け通路を抜け廊下を駆け抜けて、的確にふたりをアンヌのところへ導いている。そうしながらフレデリカの追跡を振り切るべく的確にあの砲撃を浴びせてくる。ああ忌々しい、とフレデリカは思う。追い出したはずだったのに。アンヌの両腕をもいでやったのに。大人しく草原へ帰って馬の世話でもしていれば良かったのに。
それにしても衛兵は本当にどこへ行ったのだ。
そう思った時、フィガスタに指示されたエルギンが階段を駆け下り、アンヌのいる二階へ辿り着いた。フレデリカは彼らを追わず、その階段をやり過ごしてもうひとつ先の階段を駆け下りた。二階の廊下へ躍り出て取って返す。正面にエルギンが見えた。続いて駆け下りたマリアラがフレデリカを見て声を上げた。エルギンが何か芝のようなものが巻き付けられた棒を構えた。
フレデリカは歓喜の声を上げながらふたりに襲いかかった。
*
エルギンが果敢に棒を構え、マリアラはとっさに風を呼んだ。さっきやったように、身を守るためだけに集中すれば風はマリアラの意のとおりに動いてくれる。ふたりを守るように分厚い風が渦巻いた。フィガスタが階段を駆け下りてくる、その一瞬をしのげば何とかなる。魔物はしなやかに身をくねらせながらこちらに襲いかかってきて――
ばん。
出し抜けに横合いから伸びた箒によって、床に叩きつけられた。
マリアラは唖然とした。自分が今見たものが信じられなかった。一瞬ミフかと思ったが、ミフは相変わらずマリアラの胸元でじっとしている。それはシュロの葉でできた、何の変哲もない普通の、掃除に使われるような箒だった。べしん! 床に落ちた魔物をもう一度その箒が叩き、魔物が飛んで逃げる。
「なんの騒ぎか知んないけどさ、あたしの綺麗にしてる場所で暴れないでおくれ」
箒を魔物に叩きつけた人は、憤然とそう言った。
小柄な女性だった。背が低い。ララと同じくらいだろうか。年頃も同じくらいに見える。黒くて裾の長いワンピースに、真っ白なエプロンを付けている。服装からすると、どうやら王宮の召使いのようだ。
なのに彼女の言葉も振る舞いも、その格好にあまりにそぐわなかった。彼女は箒の柄をだんッ! と床に叩きつけ、腰に左手を当てて宣言する。
「あたしの目の黒いうちは、この階は絶対汚させない。あんたその辺にその黒い、泥みたいな汚いもの、飛び散らかしてきてないだろうね?」
『貴様――!』
魔物が大きな前足を彼女に向けて伸ばし、彼女は素早い動きで一歩下がるやその前足にシュロ箒を叩きつけた。魔物の前足が翻り彼女の腹を狙ったが、彼女は本当に素早かった。ひらりと身を躱す。魔物の前足が彼女のエプロンを斜めに切り裂き、彼女は憤然と声を上げた。
「何すんだい、洗濯したばっかりだよ!」
「デボラ、下がれ!」
フィガスタが怒鳴った瞬間、デボラと呼ばれた女性が飛び退いた。どうん、彼女の退いた空間に光の弾が炸裂し、魔物が大きな悲鳴を上げた。フィガスタがマリアラとエルギンの前に割り込んだ。その隣にデボラが立つ。
「なんで戻って来たんだい? 二度とあんたの顔見ないで済むんだと思ってせいせいしてたのにさ」
「るっせーな。戻りたくて戻ったわけじゃねえよ」
ふたりは顔見知りで、どうやらとても気安い間柄らしい。言葉こそ喧嘩腰だが、口調は柔らかくて軽口めいている。フィガスタがデボラに囁いた。
「ヴェグは来たか?」
「来てないよ。なんだい、やっぱあの山賊も来てんのかい?」
「衛兵はどうした。人っ子ひとりいねえようだが」
「今取り込み中だよ」
フィガスタが彼女を見た。「取り込み中?」
「詳しい話は後でね。とにかくこの魔物をどうにかしなくちゃ――」
そう言ってデボラはフィガスタの右手に嵌めた筒を一瞥した。
「なんだいそりゃ。草原に伝わる秘宝かい?」
「まあそんなもんだ。デボラ下がってろ。お前の足は知ってるが、腕はからっきしじゃねえか。その子ら頼む、誓ってあの女に害を加えるような真似はしねえから」
「ふん、まあいいよ、昔のよしみだ。――こっちに来な」
デボラがエルギンとマリアラを振り返った。
その時彼女は初めてまともにエルギンを見、驚きに目を見開いた。エルギンが進み出て、デボラに軽い身振りをした。
「デボラ、案内を頼めますか。僕はエルギン=スメルダ・アナカルシス。アンヌ=イェーラ王妃陛下に、お目にかかりにまいりまし」
ばん!
扉が開いたのはその時だ。
デボラが先ほど出てきたのも同じ扉らしかった。その扉が勢いよく開き、中から出てきた二本の腕が、有無を言わさずエルギンを中に引きずり込んだ。
――アンヌ王妃だ。
マリアラは直感した。
その人は風変わりな格好をしていた。ドレスを着ている。でも甲冑の胸当てをその上から着けている。漆黒の美しい髪は簡素にまとめられ、その上にまた無骨な兜を着けていた。肘まである籠手も嵌めており、美しさと無骨さと猛々しさが同居した姿である。彼女はエルギンを覗き込んでいた。まじまじと。
すらりとした人だった。兜の陰から覗くその顔はとても美しかったが、エルギンを見て心底驚いているらしかった。
「な、ぜ、ここに……いらっしゃるの。何をなさってるの、こんな、ところで」
エルギンは彼女に両肩を取られたまま、軽く膝を折った。「ご無沙汰しております、アンヌ様。本日は事前にお窺いも立てず、突然お邪魔した不躾な振る舞いをどうかお許しください」
「堅苦しい挨拶は要らないわ」
アンヌと呼ばれた女性は、どうやら少し落ち着いてきたらしい。ふううう、とため息をついて、ようやくエルギンの肩を放し、自分の頭から甲冑を取った。中に押し込まれていた分の髪がはらはらと肩に流れ落ちる。
「……何をしているの、こんなところで。どう、どうやってここへ来たの? あなたは今、ルファ・ルダに、いなければならないときでしょうに」
「お願いにまいりました。僕は――ムーサの企みを知りました。ムーサは狩りの最中に僕を殺し、エルカテルミナを攫い、エルヴェントラの小石を無理矢理奪うつもりでした。あのままあそこに残っていたら、僕はもう死んでいたでしょう。
ムーサは……アンヌ様。あなたの御心に従って動いているのだと公言しています。だから僕は、あなたに、本当のお心をお訊ねしにまいりました」
アンヌ王妃は目を見開いていた。黒い瞳がこぼれ落ちそうな程に見開かれたその目は、彼女の驚きを表している。ぎゃう、うぎゃう、魔物のうなり声と悲鳴と砲撃の音が廊下に響いているのに、彼女は意にも介していないようだ。
やがて彼女は瞬きをした。表情が和らぐ。
「まあ……」
「僕は信じられなかったのです。三年前からずっと。だってあなたは、ことあるごとに僕を気にかけてくださっていました。幼い頃には、母と過ごした時間よりもずっと、あなたと過ごした時間の方が長かったくらいでした。いつかカーディスと川で遊んだ時、あなたと談笑されていたのはラインスターク将軍、ウルクディア伯爵を始めとした、幾人かの貴族の方々でした。あの時はわからなかったけれど、今はもうわかります。あなたはずっと、母の代わりをしてくださっていた。カーディスを大人の方々に紹介する場に、僕も入れてくださったのでしょう? 三年前……ムーサに僕を殺せと命じるなんて、そんなこと、なさらなかったのでしょう? ただその噂を、否定しなかっただけでしょう? 母様に毒を盛ったという噂を否定なさらないのも同じ理由だ、……そうでしょう? そうです、よね……?」
エルギンの言い方があまりに必死で、マリアラは、エルギンがこの王宮で過ごしてきた幼い頃のことを思った。
レスティス妃は、エルギンに何かをしてあげたいなんて思ったこともなかった、と、言っていた。
その代わりを務めたのが、この人だったのだろうか。
「……長話をしている暇はないわ」
アンヌ王妃はそう言って、そっとエルギンの頬を撫でた。
「今すぐ馬を用意させます。急いでお戻りなさい。事情があったのだと誠心誠意心を込めてお願いすればきっと、わかってくださいます。あなたにも側近がいるでしょう? あのふたりを哀しませるようなことをしてはいけない。それが上に立つ者の義務なのですよ」
「アンヌ様、お願いです。僕はもうルファ・ルダは諦めました。でもニーナは。ニーナだけは、ムーサに渡すわけにはいきません。ムーサはエルカテルミナを捕らえたら、逃げられないように足を切ると言っていました。お願いです、あの子は――あの子の故郷に、僕は恩があります。その恩を返したい。どうかあの子を、保護していただけませんか」
「あのねえ、あなたもそろそろ、いろんな手管を理解して良い年頃よ。もう少し良く考えなさい。わたくしの立場というものを」
「でも……!」
「よく考えて」アンヌ王妃はエルギンの口元に指を一本宛てた。「口に出すことを、よく、よく、ようく、お考えなさい。わたくしは王位継承権第二位の、カーディスの母親です。大っぴらに、王太子に力を貸せるわけがないでしょう。そして我が息子カーディスは将来、マーセラ大神官の座に就くと、陛下が決められました。その母であるわたくしが、ルファルファのエルカテルミナを、大っぴらに匿えるわけがない。――でしょう?」
「……」
「よく考えて」アンヌ王妃は、悪戯っぽく片目をつぶった。「よく考えて。さあ、ここにおわすお方はどなただったかしら? どこのどなたかわからないあなたが、わたくしに保護を願いたいのはどこの誰? よくよく考えて、もう一度おっしゃい」
「……」
エルギンはしばらく考えた。
それから、片膝をついた。頭を深く下げたその姿は、王太子と言うよりも、臣下のようだった。
「昔可愛がっていただいた名もなき子供を、お忘れでしょうか。あの頃のよしみで、どうか――僕の連れて来た、その、妹を、匿っていただけませんでしょうか。妹はとても、その、美しくて、その、人買いに、狙われているのです。人買いの身分も地位も高く、僕の力では妹を逃がしきることができません。王妃陛下のお慈悲を持って、どうか」
「そうね……そう言えばあなたは、昔、川のほとりで、わたくしの息子と遊んでくれた可愛い子供に似ているような気がするわ。あの可愛い男の子に妹がいて、人買いに攫われそうになっているなら、それはわたくしの力でなんとかしてあげられると思う。でもね、聞いて、子供さん。今は時機が良くないの」
彼女はそう言って、そっと、エルギンを立ち上がらせた。ぱたぱたと埃を叩いて身なりを整えてやるその手つきは、まるで寮母のように優しかった。
「今ね、わたくしは、王宮の大掃除の最中なのよ。衛兵がいないのに気がついて? 陛下がお留守の間、王宮を守るのは王妃の務め――」
その時、廊下の向こうから、うなり声が聞こえてきた。
マリアラはぎょっとした。中の話に気を取られている内に、廊下の趨勢はだいぶ様変わりしていた。うなったのは魔物ではなく、あの漆黒の獣は既にいなくなっていた。デボラとフィガスタが扉の前に陣取って、周囲にゆだんなく目を配っている。果てしなく続くような廊下の向こうから、唸り声――いや、雄叫びだ。雄叫びを上げながら誰かが走ってくるのだ。マリアラは廊下を覗いた。「ラセミスタさん!」思わず声を上げた。雄叫びを上げながら走ってくるのはヴェガスタで、彼は両脇にふたりの少女を抱え死にもの狂いで走っていた。その後ろから、マーセラ兵が五人――先頭はヴァシルグである――が迫ってくる。
「あーあーあー、相変わらずみっともない男だねえ」
デボラが呆れた声を上げる。ヴェガスタの、もともとぼろぼろだった衣類は既にほとんどが剥がれ落ち、要所要所を紐で縛ってあるだけと言う状態である。ラセミスタの顔が恐怖で引きつっている。フィガスタが彼らの後ろに向けて筒を発砲し、デボラが怒鳴った。
「なんの騒ぎだい、騒々しい! ここはアンヌ=イェーラ・アナカルシス王妃陛下のお部屋だよ! 剣を収めて、行儀良くしな!!」
マリアラは急いで場所を空けた。両足を踏ん張って怒鳴るデボラの脇の下をくぐるようにして、ヴェガスタがふたりの少女もろとも、この部屋に転げ込んだ。