第三章18
塔の入り口を守るフィガスタの狙いはやけに正確で、フレデリカは、どうしてもそちらに近づくことができないでいた。おかしい、と思う。
さっき襲撃したときに正確な狙いで的確な射撃をしていたのは“流れ星”の片割れと、草原の少年だったはずだ。その少年は一行を離れたし、不可思議な道具を持っていて的確に利用するのは“流れ星”のうちの小さい方だ。あの娘さえいなければ料理するのは簡単だと思ったのに、せっかく引き離したのにまだ近づけないなんて。
フィガスタがあの道具を使いこなせるのが予想外だったのだ。けれど、そう言えばフィガスタは【契約の民】だ。魔力を行使するのはお手の物なのだろう。
フレデリカはほぞを噛む。見通しが甘かった、と言わざるを得ない。
ああ、本当に忌々しい。レスティス=スメルダを治されては困るのだ。あの女にアンヌの母が近づいたことを利用して、王とアンヌへの憎しみを植え付け、呪わせ、失意と苦しみを与えることに成功した。三年間もの長い長い仕込みを終え、ようやく自殺にまでこぎ着けようとしているのに、成就の直前で邪魔されるのは惜しい。王の慈しんだ美しい可愛い女がアンヌのために死ねば、王へは二重の打撃を与えることができる。暴君への道をまた一歩、歩ませることができる。――それなのに。
近づこうとして、またあの光の砲撃に阻まれる。フレデリカは地団太を踏みたくなった。だいたい衛兵は何をしているのだ。マーセラ神官兵が手薄なのは仕方がないが、なぜ衛兵が駆けつけてこないのだ? 帰ってきてみて驚いたが、この城はほとんど無人のようなのだ。いかに王が長期にわたって留守にしているからと言って、レスティスも、そしてアンヌもいるはずのこの王宮が、なぜこうも無防備なのだろう? たった六人、それもそのうち四人は子供だというのに、そんな者たちの侵入を易々と許し放置したままだなんて。
ここにいるフレデリカは、ずっと王についていた“猫”を核にして大きくしたものだ。お陰で地下に眠る本体を守っていた毒がかなり減ってしまった。フレデリカはイライラしていた。本体の傍近くに“流れ星”が近づいている、そしてそれを排除できないでいることが忌々しい。眠っている本体を起こすのは時間がかかるし、目覚めきらない本体を焼き討ちにでもされたら、“右”とのつがいの儀式どころではなくなる。計画が大幅に後退してしまう。ああ忌々しい“流れ星”、捕らえた暁には生皮を剥ぐくらいでは済まさない。少女としての身に一番の苦痛と屈辱を与えてやる。
と。
抜け目なく廊下を見張るフィガスタの背後に、エルギン王子が降りてきた。
王子は悄然として、俯いていた。隠しきれない嗚咽が廊下に響いた。フィガスタは彼の方を振り返らず、ゆだんなく廊下を見張り続けていたが、その整った穏やかな顔立ちに悲しげな色が落ちた。フレデリカは耳を澄ませた。もしかして――レスティスは治療を拒んだのだろうか? あの女に与えた憎しみは、そこまで深かったのか?
「……用は済んだか。あの娘はどうした」
フィガスタが訊ね、エルギンは、必死で嗚咽を飲み込み、何とか平静な声を出そうとしながら、言った。
「……まだ母様のところに。僕は……マリアラに……会わせる顔がありません」
「ふうん。わかってて、連れてきたんだな?」
「母様が病に伏したと聞いたときから……ランダールにも……ゲルトにも……言われていました。帰ってはいけない。母様はそれを望まないと」
「なのに何で来たんだよ」
「……王になれば……」
「ん?」
「母様が死ぬのは、僕が王になれるように。そのためなのだと……聞いたから」
「ん」
「帰らないつもりでした。ここへ来ても、母様には会わないつもりでした。でも、でも……マリアラとラセミスタが……来てくれたから。ルファルファの使いのようなふたりが、来て、くれたから。僕の願いをルファルファが、成就してくださったんだって、思ったんです、だから」
「母親の病気を治してくれって、ルファルファに頼んだのか?」
「……違うんです……!」
エルギンはその場にうずくまった。嗚咽が静まりかえった廊下に響いた。
「僕は……僕は、ルファルファに、違うことを。母様が病気なのに、その命を犠牲にしている立場なのに、母様が助かることを、ルファルファに願わなかった。違うことを願った。でもここに来るまでに、思ったんです。マリアラとラセミスタがルファルファの使いなら、僕の願いは、叶えられるのなら……その願いが叶えば、母様に死ぬ理由はもうなくなる。そう思った、から。……もしかして、母様を犠牲にしなくてもいいかもしれないって。あわよくば、って。だからマリアラに言わずに、騙して、虫のいい願いを……助けてっ、て……」
「母親の回復をじゃないなら……あんた、ルファルファに何を願ったんだ?」
フィガスタが訊ね、エルギンは答えなかった。少年の嗚咽が廊下に響いた。フレデリカは、そのとき、彼らの背後の階段から、あの“流れ星”の片割れが降りてくるのに気づいた。フィガスタも気づいた。しかし、泣きじゃくっていたエルギンは気づかなかった。かすれた涙声が廊下に響いた。
「僕が母様を……母様の回復を、祈らなかったから……」
「……」
「だから母様は……死ぬのですか。ルファルファに回復を、祈っていたら……母は、助かったので、しょうか……」
「ルファルファという神様には、そんなに力があるの?」
出し抜けにあの娘が言った。こちらも涙の余韻が残る、かすれた声だった。エルギンがびくりとし、フィガスタが囁いた。
「そうだ。……知ってんだろう? あんたらが人間の祖先に、ルファルファの存在を教えたって聞いたぜ」
フィガスタの発言は少々意味不明だ。フィガスタは“流れ星”を、人魚にでも間違えているのだろうか。
違う、とフレデリカは思った。“流れ星”は異邦人だ。この世界の均衡に紛れ込んだ異物だ。是が非でも排除しなければならぬ余計な要素だ。
フィガスタの問いに、娘が穏やかな返答を返した。
「わたしが教えたわけではないです。わたしなら、神様のことをそんな風には教えない。エルギン、聞いて。この国に住んでいる人間は何人くらいいるの? 何十人? 百人? 百……二十人くらい?」
「おいおい、ふざけてんのか。もっと多いに決まって――」
「そうだよね、何千人? 何千万人? 何億人? 正確な人数はわからないけど――そのみんなが祈るわけじゃないにしても、そのうちのほんのひとにぎりの人だとしても、あなたみたいな真摯な祈りを心に持っている人は、少なく見積もっても何百人かはいる。――そんな大勢の人の祈りを、いちいち聞き届けて、全てに救いの手をもたらすとしたら、ルファルファってちょっとすごすぎないかな。現実的じゃないと思う」
「おい……稲妻が落ちても知らねえぞ」
「わたしみたいなちっぽけな人間の囁き声まで聞いて稲妻を落とす神様? すごいね。ずいぶんヒマなんだ」
「おい……」
「エルギン、聞いて。ルファルファに祈るだけで全部の願いが叶えられるのなら――ルファ・ルダはそもそも滅ぼされなかった、そうじゃないのかな。だって、ニーナの国は、ルファルファを崇めていたんでしょう? ルファルファにそんなに力があるなら、ニーナのお父様もお母様も、死んでないんじゃないかな。逆らう者に稲妻を落とす神様に守られた国が、今アナカルシスの支配下にあるのはなぜ?」
「……」
「……わたしたちがエルギン、あなたとニーナを助けたのは、本当に偶然なんだよ。ルファルファに呼ばれたりしていないよ。同時に、あなたがどんなに神様に祈ったとしても、レスティスさんの考えを変えることはできなかったと思うんだ。ルファルファにも、あなたにも、そんな力はないんだよ。残酷だけど、仕方がないの。あなたが祈ったくらいで現実は変わらない。だからお母さんの回復を祈らなかった、そのせいで、あの方が亡くなるわけじゃない。
だからしっかりして。立ち上がって。ラセミスタさんを捜さなくちゃ。それからもちろんニーナも」
「……さっきお前、ここに来ても母ちゃんに会わないつもりだったっつったか?」
フィガスタが言った。エルギンが顔を上げたのが見えた。娘が数段、階段を下りてきた。
「そうなの?」
「ごめん、なさ……い……」エルギンの涙声がささやいた。「僕が浅はかだったんです……あわよくば、って、思って……マリアラ、あなたを、きず、……つけて。ごめん、なさい……」
「いいよ、大丈夫だよ。傷ついてなんかいないよ。お母様は」ひどく優しい声になった。「あなたの幸せを祈っているって言ってた。ずっと、祈っているって」
「……ありがとう、マリアラ」
エルギンは立ち上がった。ぐいっと顔を拳で拭って、囁いた。
「フィガスタ、ラセミスタとニーナを捜さなければ。どこへ行ったか、わかりますか?」
「そりゃあヴェグの野郎の行くところっつったらひとつだわ」
「案内していただけませんか。僕は……僕は初めから。アナカルディアへ、アンヌ様に会いに来たんです」
それを聞いたとたん、フレデリカは激昂した。アンヌ――アンヌ王妃。またか。またあの、あの忌々しい女なのか! 草原の民を遠ざけ、ひとり息子にはムーサをつけ、ヴァシルグを傍につけてもなお、エリオット=アナカルシスの平静を保つよすがとなり続けている、あのいかにも不味そうな女なのか!!
『――行かさぬ!!』
フレデリカは叫び、跳躍した。「そっちだ、走れ!」フィガスタが怒鳴りあの筒を撃った。額に直撃し全身に痺れるような痛みが走ったが、フレデリカはそのまま、あのマリアラと言う少女に襲いかかった。
と、厚い空気の層が彼女を助けるように盛り上がった。
フレデリカの鋭い爪も阻まれるほどの風の壁。フレデリカはたまらず床に落ち、その隙に、フィガスタがマリアラを引きずるようにして走り出した。『待て!』どうん、鼻先に光の弾が直撃してフレデリカは激怒した。
『いい気になるな、下等な人間風情が――!』
その咆哮が廊下に響き渡った瞬間。
ぞろり。
この真下にある謁見の間、あの杭のある床下で、フレデリカの本体が――目を覚ました。