第三章17
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マリアラと名乗った少女も、悄然としたまま部屋を出て行った。
彼女は体から力を抜き、ぽすん、と、枕に体を横たえた。もはや自分の命が長くはないと、重々わかっていた。飲み続けた毒は無色透明で味も即効性もないが、確実に、確実に、彼女の命を蝕んでいる。十日――いや、もはや七日は保たないだろう。侍女にも召使いにも暇を出した。下の世話をして毒を飲むのを助けてくれるのは、アンヌ王妃の貸してくれた下女だ。それも、明日の朝まで来ないはず。
大丈夫だっただろうか。
うまく取り繕えただろうか。
毒のせいかぼんやりとした頭の中で、先ほどのささやかな邂逅を探る。エルギンが来た。マリアラと名乗る医師を連れて、狩りの最中に、彼女を助けるために。
どうしてわたくしのような女から生まれたあの子が、あれほどに優しくて思いやりがある子に、育ったのだろう。そう考えて彼女は目を閉じた。ああ、あの健気で気の毒な息子とその客に、胸に巣くうこの憎しみと怒りを、悟られるような愚を犯さずに済んだだろうか。
息子には、何もしてやれなかった。それどころか、レスティス=スメルダという愚かな女を母に持ったあの子には、悪評だけを残してしまった。可愛いエルギン。可愛い、可愛い、可愛いエルギン。
――わたくしは出来損ないだ。母としても、人間としても。
泣きながら駆けつけて来てくれたあの子を、抱き締めてもやらなかった。マリアラと言うあの少女が、最後にどんな言葉を望んでいたのかわかっていた。わかっていたのに、それを口に出してもやらなかった。たったひとりの、お腹を痛めた子供なのに、エルギンを愛してやれなかった。今でも、心の底から、あの子を愛おしいとは思っていない。自分のその冷血と薄情さが、この淋しい密やかな末路に相応しい。
わたくしの胸に巣くうのは、愛情ではない。憎しみだ。
国王陛下への。その王妃であるアンヌへの。それからこの憎しみを、現実をこの胸に刻んだ、“あの人”への――。
嫁いだときは、まだこの憎しみを知らなかった。何も知らず、ただ有頂天だった。そう、エルギンを授かったあの時。アンヌより先に――美しく聡明で、イェルディア湾の海賊や草原の民を自ら平定したという噂さえあるあの烈女よりも先に、わたくしが王位継承者を産んだ、その事実が何よりも、エルギン自身よりも大切だった。宴ではアンヌより美しく華やかに装い、踊りも得意だった。王はアンヌよりもわたくしを愛した。アンヌよりも磨かれた美貌、王はアンヌよりもわたくしの方に国庫を傾け、アンヌよりも先にわたくしと踊った。ああ、ああ、気持ちがいい。優越感、そうですとも、アンヌよりもわたくしの方が! わたくしの方が! わたくしの方が優れている!!!
その鼻っ柱を折ったのが、三年前に出会った、“あの人”だった。
あなたは愚かね、と、“あの人”は言ってのけた。王があなたを本当に愛していると思っているの? 本気であなたのために国庫を傾けたと? アンヌよりも先にあなたと踊るのはなぜだと思って? カーディス王子が生まれたのにエルギン王子を未だに嫡子に据えているのは、一体なぜだと思って?
アンヌを守るためよ。そんなこともわからなかったの?
王宮に潜む“魔物”――そんな世迷い言がまことしやかに囁かれるほど、アナカルシスの王座に就いた王は皆、道を踏み外して転落していく。数代続いた暴君の末路はいつも同じ、国民に憎まれて呪われて、処刑されるのが常。王妃もその際、道連れになるのが常なのよ。
国王陛下はアンヌを愛している。アンヌを、アンヌだけを、愛している。
だから身代わりに。
そう、アンヌを守るためだけに。
美しくて身分の高い、頭が空っぽな、女が必要だったのだ。国民の同情がアンヌに向くように。アンヌだけは、道連れにしないで済むように。あなたはただそのためだけに存在する、ただのお飾りの、取り替えの利く、人形に過ぎないの。
王がいつか、何かの間違いで暴君になったら。
王が処刑されるときに、一緒に処刑されるためだけに――
第二王妃の座に据えられた、生け贄なのよ。バカね。
それが本当なのかどうか、今となってはわからない。
“あの人”が彼女を縛り言うことを聞かせるための、方便だったのかも知れないと、思うことがある。でもその言葉には真実みがあった。
“あの人”は老女である。娘によく――本当に良く似ていた。気の強さも。歯に衣着せぬ的確な物言いや、全てを見通し、予測し、対処を考えるような聡明さも。人を判断するときの基準の高さも。いや、烈女と呼ばれた娘よりももっと、苛烈だった。その舌鋒は年を経るごとに鋭くなる一方で、彼女は、出会ったその時から、あの人には叱られてばかりだった。
初めて出会ったのは、あの宴の夜。靴の碧玉で痛んだ足を休めるために抜け出した場所で、木立の陰で、生まれて初めて聞いた自分への悪評――それも罵倒とでも言えるような、歯に衣着せぬ悪口を言っていた人々の中に、“あの人”はいたのだ。いたばかりでなく、積極的に悪口を並べ立てていた。その言葉はとても明瞭で歯切れが良く、残酷だった。
あばずれ、浪費家、無知、厚かましい、無邪気が善だと思い込んで疑いもしない、その愚かさ。国民の血税を湯水のように使うことの出来る無神経さ、妃という立場にいることがどのような意味を持つものか、考えてみようともしない、あの女の頭の中身が、わたくしには信じられない。
“あの人”は一際高い声でそう言っていた。貴族として生まれ育ってきた“あの人”の立場がもし許せば、下々の者が使うもっと直接的な雑言をさえ使いたい気分だっただろう。彼女は木立の陰で、その容赦のない言葉の刃が、他ならぬ自分に向けて振り下ろされているのだと、信じられない気持ちで考えていた。『あの女』、と“あの人”は言った。――あの女。吐き捨てるような、軽蔑を込めた、呼び方。
なんて、毒々しい響き。
彼女はあの時に聞いた、自分の額から血の気が引いていく音を、今でもちゃんと思い出すことが出来た。この決して長いとは言えない生涯で、あの晩ほどの衝撃を受けたことはない。ムーサの刺客に狙われて、エルギンを抱いて震えた経験さえも、あの宴の晩には及ばない。けれどあの時、彼女は何とか、自分の感じている衝撃を和らげようとして、ひとつの事実にすがりついた。そう、あそこでわたくしの悪口を並べ立てている“あの人”は、アンヌ様の実の母親だ。アンヌ様よりも先に王の息子を産んだ女への評価が厳しくなるのは当たり前のこと。やっかんでいるだけ、気にすることはないわ。
しかし、そうしてすがりついた事実は、すぐさま打ち砕かれることとなった。
“あの人”の舌鋒に相づちを打っていた誰かが、たしなめるように言ったのだ。
『アスタ様、あまりそのようなことを声高に言われますと、やっかんでいるように取られかねませんよ』
すると。
“あの人”は、今までまくし立てていた勢いが嘘のように、ぴたりと言葉を止めて。
そして、言った。
『そうね。もちろん、そう取られても仕方がないわ』
ふう、とため息をつく音が、今でも耳に残っている。
『でも私には、エルギンが可愛いの。あの子は本当に可愛いわ。あの子ならばこの国を導く偉大な王になれるでしょう。母親さえ、あの子の足をひっぱらなければ。
あの子を産んだ女が、もし私の娘だったら。エルギンのために、あの女をこの手で、殺してやるところだわ』
一言一句、全てをまざまざと思い返すことができる。
その言葉は、それまでの悪口雑言の数々よりもさらに深く、彼女の胸を抉った。
あの夜が、全ての始まりだった。――いや、全ての終わりが、始まったのだ。“あの人”からは様々なことを教わった。お金というものがどうやって生み出されるのかや、下々の人が豪華な衣装を身につけないのはなぜなのか。豪勢にお金を使うことで潤う経済と、使いすぎることで困窮する人々の暮らしとか、そういったことを。その途中で、自分の役割も聞いた。アンヌを守るためだけに王が選んだ、生け贄、と言う立場。
愚かな女だ。“あの人”は彼女をそう評した。
でも本当に愚かだったのは“あの人”だ。死の床につきながら、彼女は願う。
“あの人”は、自分の娘の恋敵に当たる彼女に、手ほどきをしたのだ。今までの悪評を打ち払い、賢母と呼ばれるように、どうふるまえばいいかを。この三年間、密かにこの塔に通っては細々と彼女を指導した。エルギンが可愛いからと、“あの人”は良く言っていた。エルギンのために。母親の悪評を少しでも緩和できるように。慈善事業をし、衣装や宝石は密かに金に換え、いつかエルギンが役立てられるように――ああ、“あの人”は何て愚かな女だろう。その行為がアンヌへの裏切り行為なのだと、最後まで気づかなかったのだ。
実の母親が自分の敵に当たる存在を導き、王に相応しい令嬢に育つよう手ほどきをしたのだと、アンヌが知ったらどう思うのか。どんな絶望と苦しみを娘に与えるのか、思い至りもしなかった愚かな女。アンヌは強いからと誇らしげに“あの人”は言った――それにアンヌが知りさえしなければいい。共に王を支える妃が身の振り方を考えるようになることは、アンヌのためにもなるはずだと。
馬鹿め! 馬鹿め! 馬鹿め!
アンヌはとっくに知っている。宴や茶会で会う度にわたくしがかすかに匂わせる真実に、あの聡明な女が気づかないわけがないではないか!
「は、は……」
彼女は嗤った。
息が切れるからそれは、ただの吐息のように聞こえたが、恐らくは今生最後の、心の底からの哄笑だった。
自らの死をもって、全てのことに復讐をする。三年前にそう決めた。自分が生け贄だと、知った時から。
王の仕組んだ生け贄は、王が暴君になる前に死ぬ。彼女のためにつぎ込んだお金も愛情も、ただアンヌを苦しめるためだけに浪費されたのだ。自らが撒いた種の報いを受けるがいい。
アンヌには悪評を。王の最愛の女性を毒殺したという、生涯続く、拭いきれない疑いと呪いを。
そして“あの人”には過ちを。恋敵を応援し慈しんだという、娘への最大の裏切り行為を。自分の正しさを信じたまま、自慢の娘を苦しめたという事実も知らず、愚かな道化になることを。
彼女は息を吐き出した。
自分のこのような憎しみと浅ましさをエルギンに見せずに逝けて、良かった。危ないところだった。まさかこの死の間際に駆け込んで来るだなんて。エルギンの優しさを見くびっていたのだ。ふふふ、彼女は笑った。あの子をこの世に産みだしたことだけは、この生涯で唯一、誇っていいことのはずだ。
そしてさっきの少女、マリアラの、青ざめた小さな顔を思い出した。エルギンへの優しい言葉を期待したあの子――あの子まで傷つけることはなかったわ。ちくりと、後悔が胸を刺した。あの子はなんの関係もない、巻き込まれた被害者のようなのに。彼女がエリオット国王陛下に嫁いだのと同じくらいの年頃の、無垢で純粋で、まだ世の汚れなど何も知らない、少女だったのに。
あの子にはできれば、わかって欲しいと思った。
エルギンを抱き締めるなんて、許されるはずがなかった。自分のこの腕で、エルギンを汚すことなどできるわけがなかった。こんな憎しみと汚れに溢れた愚かな母親のことなど忘れてほしい、だからエルギンにも、優しい言葉をかけられなかった。意地悪な気持ちからあの子を拒絶したわけではなかった。
理解して欲しいと望む権利など自分にはないと、わかっていたけれど――それでも。