第三章16
「下が騒がしいようだわ。……眠っていて、今まで気づかなかった」
彼女の声に我に返った。気がつくとエルギンはもういなくて、がらんとした殺風景な部屋の中に、自分のすすり泣く音だけが聞こえていた。その音はやけに空虚に響いた。どうして泣いてるんだろう、と、彼女の肩口に顔を押し当てたまま考えていた。何が、こんなに哀しいんだろう?
「ありがとう」
ゆっくりと背中を撫でてくれながら、彼女が歌うように呟いた。
「あの子に、『治せる』と、……言わないでくれて」
マリアラは、ゆっくりと、顔を上げた。
すぐそばに、彼女の美しい顔があった。あまりにも痩せて、目は落ちくぼんでいたけれど、その笑顔は本当に綺麗だった。どうして初めに老婆に見えたんだろう、とその笑顔を見ながらぼんやりと考えた。どうして、こんなに綺麗な人が、生きながら屍になったみたいな、あの醜悪な姿に見えたのだろう。
彼女はそっと微笑んで、寝台の脇に置かれた小さなテーブルの上から、柔らかな布を取って差し出した。遠慮する暇も、受け取る暇もない内に、その布が顔にそっと当てられる。視界が遮られて、ふんわりとした温かな布の感触が頬を撫でた。いい匂いがした。やわらかなその感触は、丁寧に手で洗われて干されたに違いなかった。
「可哀想に」
マリアラの顔を拭ってくれながら、彼女の囁く声が聞こえる。
「あなたは本当に医師なのね。そんなに若いのに、素敵なことだわ」
布が降りて、視界が開ける。彼女はマリアラの顔を覗き込んで、まるで手にした布のように、暖かくふんわりと笑った。
「わたくしの子が、あなたを無理矢理つれてきたのね。ご迷惑をかけたわ、あなたの腕が確かならば確かなだけ、あなたに辛い思いをさせるだけなのに。
……ごめんなさいね。わたくしは、あなたに治療してもらうわけにはいかないの」
人を助けるのが仕事であるあなたには、このままここを立ち去るのは、本当に辛いことだと思うけれど。
彼女の細く小さな手が肩を撫でてくれている。手がゆっくりと動くにつれて、花のような良い香りがふわりと漂う。初めて嗅ぐ香りだった。しかし左巻きの魔女としての本能が、その香りに潜む、かすかな脅威を感じ取った。緩やかに、少しずつ体を蝕む死の影。
サイドテーブルの上に置かれた、ほっそりとした優美な水差しが目に入る。
殺風景なこの部屋の中で、あの絵を除いては唯一、高価そうな品物だった。その向こうに置かれた光籠の淡い光が透けて見える硝子の水差しには、底の方に少し水が入っている。マリアラはその水差しをじっと見た。隣にはセットになった小さな器が置かれていて、飲み残しの水がわずかに入っている。無色で、透明で、恐らく味もほとんどないだろう。かすかに甘みが感じられる程度のはずだ。効き目もそれほど強くはない。でも、飲み続けたりしたら。
思わずのばそうとした手を、やんわりと止められた。
見ると、彼女は困ったような顔をしている。
「触っては駄目よ。あの水はわたくし専用なの」
ああ、この人は、知ってるんだ。
マリアラは再び泣き出しそうになった。彼女の表情が余りにも透明で、もう何を言っても、この人はこの水を飲み続けるだろう、と、悟ってしまったからだ。
「どうして……ですか」
囁きながら、マリアラは、彼女を初めて見たときのことを思い返していた。生命力を全て無理矢理奪い去られたかのような――生きながら死んでいるような――皺いて、渇いて、屍になってしまったかのような、彼女のあの姿を。
あれはきっと、見間違いじゃなかったのだ。
この人はもう、きっと、生きながら死んでるんだ。
彼女は、にっこりと笑った。起こしていた体をクッションに委ねて、彼女はマリアラを見て、囁いた。
「それはね、わたくしが、エルギンにしてあげられるただ一つのことだからよ」
「三年ぶりに……会われたんでしょう。エルギンは、子供なのに……どうして? どうして、そこまで? どうして……エルギンが望んでいるのはきっと、あなたが死と引き替えに得られるようなものでは、ないはずでしょう……?」
「ふふ。不思議なものね。あの子がもっと幼いときには、あの子に何かをしてあげたいなんて、思ったこともなかったわ。わたくしは、自分の身を飾るのに精一杯で……そう、自分のことだけで手一杯だったの。幼いエルギンが高熱を出していても乳母に任せて宴に出たわ。幼いエルギンがどう思われようと、どんな誹りを受けようと構わず、わたくしは……自分のことだけを、考えていたの。陛下の目を喜ばせる美しい衣装と化粧と、宝石と、流行の髪型。靴につける碧玉の色合いと耳飾りの色が合うかどうか、そんなことばかり……」
彼女はゆっくりとマリアラの髪を撫でた。
優しい声。穏やかな表情。震えるほどに低い声で語られるその話は、非現実的な色合いを持っていた。マリアラはかすかな違和感を抱いた。彼女の声は真情を吐露していると言うよりも、遠い昔の誰かのおとぎ話を語っているかのような、そんな風合いを持っていた。
「わたくしは……陛下が自分を溺愛して下さっていると……信じていた。アンヌ様より先に嫡子を得て、あれほど有能で聡明で、国内外から慕われるアンヌ様のお産みになったカーディス王子よりも、エルギンを第一王位継承者に据えてくださり続けたことで……有頂天だった。こんな日々がずっと続くと……わたくしが愛されているから、エルギンも大切に育てられるはずだと……信じていたのよ。愚かだったわ」
出し抜けに彼女は体を起こした。
マリアラに屈み込んで、彼女は囁いた。
「わたくしに現実を教えてくれた人がいたの。……このままではエルギンの立場が危うくなると……わたくしのような愚かで、傾城の姫を母に持つエルギンの立場が、どれほどに微妙なものなのかを……とある貴族の方でね……ふふ」
窓から差し込む月の光が一瞬、彼女の美しい横顔を照らした。
マリアラは驚いた。月の光の下限だろうか。一瞬、一瞬だけ、彼女の美しい横顔が、凄惨な色合いを帯びたような気がした。蔑むような、何かを呪うような、美しくも怖ろしい陰がよぎった。
「……あの方がわたくしを変えたの。貴族の皆様がわたくしをちやほやするその陰で、どれほどの陰口を囁いているか。あのような愚かな女の腹から生まれたエルギンが、本当に王に足る素質を持っているかが疑問だと……わたくしのために陛下が、どれほどのお金を使ったか。わたくしの着る衣装の一着で、どれほどの人々の生活を購うことができるのか、とか。そう言うことをね」
「その方は……今は……?」
「もう別れは済みました。あの方の助言に従って、陛下からいただいた衣装も靴も宝石も全て現金に換えた。ルファ・ルダのエルヴェントラに贈ったから、きっとエルギンのためにいろいろと取りはからってくれるはず……ねえ、お願い。お願いよ。エルギンに罪はないわ。わたくしの、愚かな振る舞いのために、殺されかけたあの子に、してあげられることは……これしかないのよ。どうかこのまま帰って」
「……エルギンに、何か、伝えることは、ありませんか」
祈るような気持ちだった。この人は、マリアラまでも追い出そうとしている。確かに治療を拒否された以上、これ以上長居はできない。けれど、最後にひと言だけでも。ひと言だけでも、こんなところまで必死で駆けつけてきたあの子に、何か、ひと言だけでももらえないだろうか。
彼女は少し考えて、――微笑んだ。
「立派な王になって欲しいと」
「……」
「伝えて頂戴、どうか」
「……」
「あなたが立派な王になってくれれば……わたくしがこの世に生まれて、あなたを生み出した意味がある。そう、そう……伝えて頂戴。お願い」