第三章15
エルギンが駆け込んだのは、細く暗い階段だ。
マリアラは一瞬驚いた。エルギンの母と言えば、第一王位継承者――世継ぎ王子の母である。第二王妃とは言え、もっと絢爛たる、豪華な部屋にいてもおかしくない。しかしその階段はあまりに暗く、人の気配もなかった。
「振り返らずに走れ。――それを貸してくれ」
フィガスタが階段の入口で立ち止まり、マリアラに右手を差し出した。フィガスタは既に革の手袋を外しており、薄暗がりの中で、若草色の紋章が淡く光っていた。
マリアラは一瞬迷った。ラセミスタがこの武器を使って体調不良に陥ったことを思い出す。
しかし数発といえど撃てないよりはマシのはずだ。マリアラはそれをフィガスタに渡し、彼の横をすり抜けて、階段を駆け上がった。どん。マリアラの背後でフィガスタが撃った。階段の入口に辿り着いた魔物が声を上げ、フィガスタがまた撃った。どん。光の固まりが炸裂して、魔物が後じさる。
「早く行け。あんたしか撃てねえとか言ってたが、別に撃てるじゃねえか。別になんの問題もなさそうだぜ」
どん。フィガスタがまた撃った。マリアラは階段を駆け上がりながら、ラセミスタの説明を思い返していた。人間の魔力は殻を乗り越えるのに苦労して、魔法道具に辿り着く前に大半が消費されてしまう――もしかしたらフィガスタの、あの紋章が、魔力を外に出す手助けをするのかもしれない。
エルギンは何も言わずに階段を駆け上がっていく。衛兵も召使いも出てこない静まりかえった階段を、ただひたすらに上っていく。マリアラもその後を追いながら、これはまるで無人の塔のようだ――と、考えていた。
もしかして、ここは無人なのではないだろうか。
王位継承者の母親を、衛兵も召使いも守っていないなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。
そもそも魔物とヴァシルグ、それからマーセラ兵の数人は襲ってきたけれど、騒ぎを聞きつけた衛兵も召使いたちも、妃たちの傍に控えているはずの侍女たちも出てこない――ここは曲がりなりにも王宮なのに、そんな手薄だなんて、おかしい。
不吉な予感に身を竦ませながらもエルギンの後を追いかけて階段を上がると、ついに、目的地に辿り着いた。大きな石造りの扉は、まるで罪人を閉じ込めるための牢のような佇まいだ。エルギンは躊躇わず、その扉を押した。
ぎい。蝶番が音を立て、その大きな扉は、意外なほどスムーズに動き、中にあった仄かな明かりを、ふたりのいる暗い階段に投げかけた。
その人を初めて見たときの衝撃を、たぶん一生忘れないだろう、と思う。
エルギンの後に続いて扉をくぐったマリアラは、そこがかなり広々とした部屋の中だということに気づいた。とても殺風景な部屋だった。『妃』と呼ばれる人が住む部屋にしては、あまりにも簡素な調度しかない。床には絨毯すら敷かれておらず、壁にも何の装飾もなく、さすがに岩がむき出しと言うことはなかったが、ひどく寒々しい風景だった。つるりとした洞窟の中に、ぽつんと寝台が置かれている、という感じ。
他にはどっしりとした、作りつけらしい衣装棚がひとつあった。
それから壁に小さな絵がかかっていた。幼い少年と、その隣に座る女性の絵だ。その女性はとても美しかった。思わず目を見張るくらいに。
部屋の向こうに天蓋のついた寝台がひとつ、その脇にサイドテーブルが置かれている。光源はそのテーブルの上に置かれた光籠がひとつきりで、その光が寝台に横たわるその人の、やつれ果てた姿を照らし出していた。
「母さま……」
エルギンが、ためらいがちに声をかける。
――あれが……?
マリアラはエルギンがゆっくりとその部屋を横切っていくのを、立ちすくんだまま見つめていた。
その寝台に横たわっているその人は、どう見ても年老いた老女にしか見えなかった。かつては美人だったのだろうと思わせられる名残こそあるものの、エルギンくらいの年頃の子供がいるにしてはあまりにも年を取りすぎている。いや、それよりもマリアラの四肢を縛り付けたのは、その人の醸し出す異様な雰囲気だった。
普通に年を取ったなら、こういう風にはならないだろう。
まるで生きながらにして萎びたような、無理矢理生命をこそげ取られたかのような――話に聞く『吸血鬼』という魔物に生命力だけ吸い取られたらこうなるのだろうかと思われるような、あまりにも無惨な姿だった。
壁にかかる絵の女性がひどく美しいから却って、その凄惨さが際立つ。
彼女はエルギンの言葉に、閉じていた目を開いた。そして、歩み寄るエルギンの姿を認め、信じられない、というように目を見開いた。
「……エルギン……?」
囁くように漏れた声だけは、若々しかった。
「ただいま、母さま」
エルギンがそっと声をかける。エルギンは今どんな表情を浮かべているのだろう、金縛りになったままで、マリアラは考えた。
レスティスという名のエルギンの母親は、ゆっくりと、体を起こした。
それにつれて彼女の外見が変わっていく。
――あれ……?
マリアラは目を瞬いた。
どう見ても皺いた老女にしか見えなかったその外見が、ゆっくりと若返っていく。
「母さま、お医師様をお連れしました」
エルギンがそっと声をかける。その間にも、その人は若返り続けていた。
それは、不思議な光景だった。レスティス妃の体の奥底から何かが沸き上がって来て、それが全身に満ち渡っていくような。それと共に彼女の皮膚が張りを取り戻していく。皺が伸びて目に光が戻って来、頬に赤みが差してくる。まるで花が開く様を早送りで見ているかのよう、気がつくと美しい女の人が、寝台のクッションにもたれるようにして、エルギンを見据えていた。
――何、今の……?
まるで魔法みたい。
見間違い、だろうか?
目をぱちぱちさせているマリアラに、その人が視線を投げた。
「お医師さま?」
呟いた声はとても硬い。そのあまりの冷たさに、マリアラは我に返った。
「そうです。マリアラ、こちらへ」
エルギンが促してくれる。マリアラはそちらへ足を踏み出した。レスティス妃はマリアラを睨み据えていた。その目はきらきらとしていて、毒を飲んで死にかけているなんてとても思えない。
――怒ってる……?
そのことに唐突に思い至って、マリアラは愕然とした。
それは悟ってしまえばあまりにもきっぱりとした、『拒絶』の視線だった。
『あの女を助けるのは、王子のためにはならねえぞ』
フィガスタの声が、甦ってきた。
『あの女は、自分で毒を飲んでるんだ』
――どうして?
エルギンはただ、お母さんの病気を治してあげたいだけなのに。
「母さま、この方はマリアラと言う方です。若いけど、とても腕のいい医師です。マリアラ、こちらが僕の母です」
「……初めまして」
レスティスの厳しい視線に耐えて、何とか言葉を絞り出す。するとレスティスが目を閉じた。ひとつ大きく息を吸う。そして目を開いてエルギンを見据えた彼女の視線は、
「なぜここにいるのです」
とても、冷たかった。
あまりの冷たさに、見据えられているわけではないマリアラでさえ、全身に鳥肌が立ったような気がした。エルギンがびくりとした。叱られた子供が良く見せる、反射的な身振りだ。
「あなたは今ルファ・ルダにいなければならない時でしょう。なぜ、この大切なときに、こんなところにいるのです」
レスティス妃の声も、氷のような冷たさと鋭さをはらんでいた。声は静かなのに、その声の含む感情はあまりにも鮮烈で激しく、エルギンの小さな柔らかな体に、その言葉が深々と突き刺さるのが見えたような気がした。血が吹き出さないのが不思議なくらいだ。
「母さま」
エルギンが呻くように、懇願するように囁く。
でも、レスティス妃の言葉は止まらない。
「あなたを王にするために、どんなにたくさんの人が、どんなに苦労してきたか、わからないとは言わせませんよ。わたくしは、あなたをそのような愚か者に育てた覚えはありません」
「母さま」
「お下がりなさい。わたくしのことは忘れるようにと、……話したはずよ」
言葉は容赦なくエルギンの上に降り注ぐ。エルギンが耐えるように唇を噛みしめたのが見える。
「そんな」
気がついたときには、口が出ていた。レスティスが傲然と投げかける言葉を、ただ無言で受け止めるしかないエルギンの小さな姿を見ていたら、口を出さずにはいられなかった。
彼女の言い方は、あまりにも、ひどい。
「そんな言い方は、ひどいです」
――この人に否定されたら、わたしたちが、エルギンが、ここまで来た意味がなくなる。
他の誰がエルギンを責めても、この人にだけは、責めて欲しくない。
マリアラは手のひらに爪が食い込むくらいにぎゅっと手を握りしめた。自分でもどうしてだかわからないくらいに、腹が立っていた。
「……ひどいです」
でも、上手く言葉にならない。
言いたい言葉はマリアラの体の中で吹き荒れていたけれど、口から出たのは、そのたったひとつの言葉だけだった。これじゃまるでだだっ子みたいだ、と、マリアラは唇を噛みしめた。論理的に自分の内心を語ることが出来ず、ただなじる言葉を呟くしかできないなんて、思い通りにならないのが気に入らないだけの、ただのわがままな子供と同じ。
彼女はマリアラを見ない。まるでマリアラの存在に気づいていないとでも言いたげな、彼女の美しい冷たい顔は、ただエルギンにのみ向けられていた。マリアラが黙ったことでその場に一瞬沈黙が満ちる。そしてその沈黙に、
「母さま」
エルギンの、かすれた声が響いた。
「僕は……ここに、確かめに来たのです。あなたが本当に、死にかけているのかどうかを」
エルギンは大きく息を吸った。呼吸がわなないて、手が震えた。
「母さまが死のうとしているのは、僕のせいだって、聞きました。僕のために、自分で毒を飲んでいるのだと」
彼は言葉を重ねた。
「それなら。僕が諦めれば、母様は死なずに済むのではないですか」
彼女の、彫像のようだった冷たい面が、初めて揺らいだ。動揺というほどは強くない、ただ冷たく張りつめていた感情に、わずかなさざ波が走った。そしてそのさざ波を打ち消すように、彼女は声を上げる。
「何を……言うのです」
「僕にはあなたが死にかけているなんて信じられない。まだそんなにお元気ではないですか。アンヌさまがあなたに毒を渡すなら、もっとよく効く薬を使うはずだ」
「エルギン、」
「死なないでください、母さま」
エルギンの目から、涙がこぼれた。
「僕は王に、ならなければならないのでしょうか。母様に毒を飲ませてまで……母様を犠牲にしてまで、ならなければ、ならないのですか」
エルギンの体がくずおれた。
寝台にすがりつくようにして体を縮めたエルギンの背中は、恐ろしく小さく見えた。そういえばまだ子供だったのだ、と、呆然と立ちすくんだまま、マリアラは考えていた。シーツを掴んで顔を埋めたエルギンの背中がひきつっている。嗚咽を必死で堪えている。
と、彼女の手が、動いた。
見やると彼女は悲痛な顔をしていた。手がゆっくりと伸びて、エルギンの頭に触れそうになる。しかし彼女は寸前で思いとどまった。のばされた手は空を撫でただけでシーツの上に戻されて、血の気が失せるほどに強く強く握りしめられた。
そして彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。
立ちすくんでいたマリアラと、彼女の目が合った。彼女は何か訴えるような目をした。唇が動いた。けれど、その唇が何と言いたかったのか、マリアラにはわからなかった。すぐに、その動きは止められてしまったからだ。
何もできず、何も言えずにただ立ちすくんでいるマリアラの目の前で、レスティス妃はゆっくりと目を閉じた。表情が消えた。そして目を開いたときには、先ほどの悲痛な表情がすっかり消え失せていた。そして彼女は、冷たい目に戻って、エルギンを見た。
「エルギン」
言葉も、冷たかった。
「わたくしが毒を自分で飲んだなどと、どなたが言いましたか? そんな馬鹿げた噂を信じるものではありません」
「……」
エルギンが、顔を上げる。
まだ寝台にすがりつくようにしていたから、その顔はマリアラのところからは見えない。しかしレスティス妃はエルギンをじっと見て、言い聞かせるように囁いた。
「わたくしは病気なのです。もう助からないのよ」
「嘘」
「嘘ではありません。だから仕方がないの。さ、早くここを出なさい。うつっては困るから」
「嘘だ!」
「エルギン、わたくしの言ったことが聞こえないの?」
彼女の口調が更に冷たくなる。エルギンはひるんだが、でも引き下がらなかった。
「聞こえました。でもどちらにせよ、この人なら治してくれます。マリアラは本当にすごい医師なんです。本当です」
「いいえ」
彼女はきっぱりと言って、そしてマリアラを見上げた。冷たい目の向こうに、先ほどのすがるような色が見えたような気がした。
「この病気は誰にも治せないのです。医師ならばわかるでしょう?」
「マリアラ」
エルギンが立ち上がった。左手を掴まれて、マリアラは狼狽えた。エルギンはマリアラの体にすがりついた。
「言ってください。母さまを助けられますよね? 死にかけた僕を助けてくれたんだから、母さまだって、助けられますよね……?」
「エルギン、お医師さまを困らせるものではありません。下がりなさい。わたくしはこれ以上、このやつれた姿をあなたに見せたくはない」
「マリアラ」
エルギンはレスティス妃の方を見なかった。ただじっと、マリアラの目を覗き込んでいた。嘘を言わないで、とその目が語りかけてきている。マリアラはその目に射すくめられたようになっていた。何て答えるのが良いのか、わからなかった。どうしたらいいのだろう。何が正しいのか、わからない。
魔女として、正しいのは。人を救うことに決まっている。
そしてマリアラには、彼女を助けられることがわかっていた。治療はできる。絶対治せる。彼女は痩せてしまっていて、とても衰弱しているようには見えるけれど、緊迫の度合いから言えばこないだのエルギンの方が遙かに危険だった。
でも、どうしても、エルギンに頷いてあげることが出来ない。
どうしてだろう? どうして頷いて上げられないんだろう? 大丈夫、助けられるよ、って、安心させてあげられないんだろう?
「マリアラ、と言いましたか」
彼女の声が横合いから投げられた。はっとしてそちらを見やると、彼女は、とても、優しい目をしていた。
「気を使わなくても良いのです。優しい方ね。わたくしの病は誰にも治せるものではないのだから。泣かないで」
――え……?
その時初めて、自分が泣いていたことに気づいた。
――どうして……?
暖かい水が目から溢れて頬を伝った。濡れた部分が外気に触れてすぐに冷え、その冷たさに驚いた。体にすがりつくようにして見上げていたエルギンの、血の気の失せた白い顔の上に涙がぽたぽた落ちる。慌てて涙を拭おうとした瞬間に喉がひきつり、しゃくり上げたような声が出てしまって、エルギンが絶望的な顔をした。
「……マリアラ」
「エルギン、下がりなさい」
レスティス妃はきつい口調でエルギンの言葉を遮り、そっと手をのばして、マリアラの手を取った。その手はとても冷たくて、小さかった。でも、マリアラを引き寄せた力は強くて、マリアラは手を引かれるままに、崩れるようにして寝台の端に座り込んだ。
レスティス妃が自分を抱きしめてくれる、柔らかな感触に胸が詰まる。
「お下がり、エルギン」
マリアラの背中を撫でてくれるその手はとても優しいのに、エルギンに投げた声はとても冷たかった。
「これ以上この子を困らせないの。下がって、ルファ・ルダに戻りなさい」