第三章14
長椅子でうとうとしていたイーシャットは、寝台の方で突然フェルドが跳ね起きたので目を覚ました。がくんと足がずれて長椅子からずり落ちるような格好になる。
「ど、どした?」
「来た」
フェルドは簡潔に言って、椅子の上に用意していた、黒い上着と黒い脚衣をひっつかんで身につけた。先日ここに来たときに身につけていたものとはまた違う、どことなくかっちりした印象の衣類だ。靴も真っ黒で、形としては長靴に近い。フェルドが仕事の時に身につけるものだそうで、魔物が持つ【毒】の影響を弱める効果があるのだそうだ。仕事着とか制服とかに当たるものらしいのだが、支給した人たちは、なぜあんな色合いを選んだのだろう? 身支度を終えたフェルドはほとんど全身黒ずくめで、夜の闇に紛れてしまいそうだ。出ているのは喉元と顔、両手の先くらいだ。
オオオオオオ――オオオオォォォォォ……
長く尾を引く雄叫びが夜の闇を裂くように響いた。フェルドが駆けだした。かんかんかん、陣鐘が鳴り始めた。ばたばたと駆けつける足音が外で響く。
「フェルドさん、起きて!」リックの声が響いた。「魔物だ! 魔物が――うわ黒っ」
「どっち?」
扉から回ってリックのところへ駆けつけたフェルドが簡潔に訊ね、フェルドの黒ずくめに驚いていたリックが我に返って指さした。
「打ち合わせどおりラインディア兵が誘導してる、ひとつめの策でいけそうだから持ち場についてくれってエルヴェントラが!」
「わかった」
「が、頑張れよ! 死ぬなよ!」
イーシャットは走って行くフェルドの背に向けて声をかけた。フェルドが振り返った。
「あの子頼むな」
「わかった、任せろ」
フェルドはそのまま走って行った。イーシャットも支度をして、戸口へ向かう。イーシャットの目的地は向かいの、ランダールとニーナの家だ。
イーシャットはもめ事に向かない。逃げ足だけは速いしマスタードラに一応剣の基本を習ってはいるが、護身術の域を出ない程度だ。正直言って最近は素振りもサボりがちである。一緒に行ったって足手まといにしかならない。だからイーシャットの持ち場は、カーディス王子の傍にいることだ、と合意ができている。体のいい厄介払いであると、イーシャットは重々理解している。
しかし、恐らくないだろうと思うものの、カーディス王子を放っておくわけにはいかないことも事実だった。王子の立場は微妙だ。何しろエルギン王子の敵対者であり、ルファ・ルダの平穏を脅かすムーサの操り人形である、という認識が、ルファ・ルダの人々の中には出来上がってしまっている。おまけにカーディス王子が行方不明になればムーサがルファ・ルダを破壊しながらしらみつぶしに探すだろう、という認識もある。ランダールとフェルドが魔物にかかり切りになっている間に、混乱に乗じてこっそりあっちに返してしまおう、などと、考える人間が出ないとも限らない。
ばたばたと住民たちが走り回っている。この国に住む男は全員、神官兵としての訓練を受けている。平時は別の仕事に就いていても、非常時には皆制服をまとい神官兵になるわけだ。フェルドの向かった方へ走っていく男たちは皆、既に神官兵の顔になっている。イーシャットはその波が途切れる一瞬を見計らって往来を横切り、カーディス王子が泊まっている、ランダールとニーナの住む家に向かった。
玄関にマーシャがいた。真っ暗な東の夜空を見ながら、心配そうに手を揉み絞っている。イーシャットは少々疑問に思った。魔物が来ると目されているのは西の空なのに。
「あの子は?」
囁くとマーシャはちらりと家の奥を見た。
「良く眠っておいでです」
「起きねえといいな。邪魔するよ」
家に入るとマーシャが胸の前で手をそわそわと組み合わせながら後を付いてきた。ニーナの部屋に入ると、寝台の上で、カーディス王子がすやすやと眠っているのが見える。確かにと、イーシャットは、その寝顔を見て思った。こうしてみると、ただの子どもだ。
「あのさ」イーシャットはマーシャを振り返った。「悪いね……」
「はい? 何がでしょうか」
「ニーナの部屋なのにさ。ニーナの寝台なのにさ。……俺は複雑だよ。フェルドには恩があるし……ランダールの言ったとおり、エルギン様が戻るまで、カーディス王子にも行方不明になってもらったほうが都合がいい、その理屈もわかるよ。でもさ……でもさ、三年前のことを思い出すとさあ……」
イーシャットは椅子に腰をかけた。一体自分の口は今度は何を言い始めたのだろう、と思いながら。
「これくらいの年頃だったよ」
「ええ、そうでしたね」
マーシャは言いながら、優しい手つきで、カーディス王子に布団をかけ直してやった。イーシャットはその慈しみを見てもっと哀しくなる。
この王子さえいなければ。
カーディス王子のせいで、エルギン様は、住んでいる家を離れ、ここに逃げ込まなければならなくなったのだ。たった八歳の子どもが暗殺の恐怖にさらされた。カーディス王子はあの頃は五歳であり、もちろん、自分の意思でエルギンを殺せなどと命じたわけではない、と、重々わかっているけれど。
わかっているけれど――。
「王子ってのは、そういう立場じゃないか。ただの子供じゃねえよ。生まれながらにそういう、ただの子供じゃ起こし得ないような影響を背負って生まれてるじゃないか。それがカーディス王子のせいなのかって言われても、割り切れねえよ……」
「私は割り切りましたよ。とっくの昔にね」
いつの間にか。
本当にいつの間に準備したのかわからなかったが、イーシャットの前に、湯気の立つ香茶が差し出されていた。受け取って飲むと、熱くて、そして甘かった。乳もたっぷり入った、子供の飲むような飲み物だ。
そう、マーシャは、イーシャットを子供扱いするつもりのようだ。温かなふくよかな手のひらが、そっとイーシャットの頭を撫でた。
「あたしがここでお世話になるようになってから六年。……割り切らなければ、そんなに長い間、あの方のお世話をしてこられるわけないでしょう?」
「あの方……」
呟いてからイーシャットは悟った。
さっきマーシャが、東の空を見上げていたのはなぜなのか。
東にはアナカルディアがある。ニーナが向かっているだろうと、考えられている場所だ。
「六年前……先代のエルヴェントラとエルカテルミナが亡くなられたとき。夫があたしに言いました。ご存じのとおり夫は船乗りでしょ。あたしは船には乗れませんから……あの頃、巡幸でエルカテルミナがイェルディアに来られる時の準備を整えたり、賓館のお手入れをしたりして、夫が港に立ち寄る日を待つ生活をしていました」
言葉が砕けている。これがマーシャのもともとの話し方なのかも知れないとイーシャットは思った。そう、イェルディアに住んでいた頃の。港で待つ女という役割を果たしていた頃の。
香茶が甘い。甘くて、とても美味しい。
「夫は、今度はルファ・ルダで、俺の帰りを待ってくれ、と言ったんです。ニーナ様のお世話をしろと……守って差し上げて欲しいと。あたしにもそれが願ったりでした。あのね、あの頃ニーナ様は三歳でした。ご存じです? 三歳の女の子にどれほどの自我と我が儘と強い強い意志があるのか。お母様とお父様を一度に奪われ、今までの生活とはがらりと変わった境遇に突き落とされた三歳の子が、どれほどの嵐を、あの小さな胸の中に抱え込むのか――。
当時の乳母が、また頑固な女でした。ニーナ様に毎日言い聞かせていました。泣いてはいけません。お父様とお母様が哀しみます。お母様から受け継いだエルカテルミナに、恥ずかしい振る舞いをしてはなりません。国民の規範となるべく、凜としていなければいけません、とね。ニーナ様は歯を食いしばるようにして、その要求に応えようとしていました。あれほどお可愛らしかったニーナ様が、次の巡幸の時にはまるで人形のような無表情で――夫はそれを嫌がったんです。だから乳母を遠ざけ、あたしを置くようにとランダール様に進言したんです。ええ、あたしも嫌でした。嫌でしたとも。三歳の子供が泣くことも許されない。我が儘も言わせてもらえない。大切なおふたりを亡くした哀しみを、吐露することさえ許されない、なんて。
ニーナ様は嫌がりますけれど、あたしはあの方を呼び捨てにはしません。できません。それがあたしのけじめです。でも、それ以外は……普通の子供と同じに、泣いたり怒ったり笑ったり、できるようにして差し上げたいと思ってきました。神子だと言うことは忘れられない、でも吹っ切らなければ、普通の子供として接するなんてできやしません。でもねえイーシャット、あたしは、吹っ切ったことを後悔してはいませんよ。ニーナ様の笑顔を見る度に、泥まみれになって走り回る姿を見る度に、ああして良かったんだ。あたしがここに来た意味があったんだって思います。それがあたしの、ささやかな誇りなんです。
カーディス王子殿下だって同じですよ、イーシャット。普通の子供のように育たなければ、普通の人々の心がわからない、何か別の生き物のような方たちに育ってしまうのではないですか」
マーシャがこんなに長く話すところを初めて聞いたな、と、イーシャットは考えていた。
寡黙な女だと思っていた。料理と洗濯と家事の腕は素晴らしいけれど、ただそれだけの女だと。
すうすうと、カーディス王子の健康的な寝息が聞こえる。確かにと、思った。寝息だけを聞いたら、寝顔だけを見たら、普通の子供だ。
「上に立つ人が……下の人間の心がわからないような大人に、育っちまったら困るなあ」
「そうでしょう」
マーシャは、優しい声で言った。
イーシャットは、マーシャの夫のことを思った。拠点はイェルディアにあるが、ここへもたまに立ち寄る。イェルディア湾の女王と呼ばれる、レギニータ号という大きな船の船長で、細身の、まるで海賊のような振る舞いの男。マーティン=レスジナルという名で、ひと言で言えば豪傑である。かつては本物の海賊だったそうだ。
普通の船乗りは、港ごとに女を作ると言われる。ルファルファ神の前で宣誓をした正式な妻など持たないのが普通だ。マーシャはマーティンの“妻”という触れ込みでここにいる。ニーナのような重要な子供を育てるのに、その箔付けが必要だったのだろうと、今までは思っていたけれど。
本当なのかも知れないなあ、と、イーシャットは思った。
マーティンは本当に、マーシャに惚れて、ルファルファの前で宣誓したのかも知れない。
その時、叩く音がした。扉ではなく、窓の方からだ。コツ、コツ、コツ――間隔を開けて、もう一度。コツ、コツ、コツ。
リックが来たのかも知れない。イーシャットは考えて、カーディス王子の上をまたぐようにして窓を開ける。
そこにいたのは、顔見知りの老人だった。昨日、マーシャのご馳走を食べるフェルドとイーシャットに野次を飛ばしていた内の一人だ。寝ぼけているのだろうか、視線が合わない――その瞬間、イーシャットは気づいた。
金属のような、この匂い。
「おいあんた……!」
「み つ け た」
その声は、老人の後頭部から聞こえた。
あの魔物の声を少々高くしたような、声だった。
どん。
出し抜けに老人の背後から何か真っ黒な固まりが襲いかかってきてイーシャットに激突した。イーシャットはなすすべもなく弾き倒され後ろに倒れ込んだ。マーシャが悲鳴を上げカーディス王子に駆け寄ろうとし、老人の背後から飛び出た魔物がマーシャにも、黒い固まりを射出した。マーシャが倒れ、イーシャットは死にもの狂いで体を起こした。
今の固まりはなんだろう。冷たくて重い、泥のような、重く不快な代物だ。
魔物――と言っても、それは、今日の夕方にフェルドと対峙していた魔物よりも、一回り以上小さかった。夕方の魔物が聳えるほどの狼だとするなら、こちらは普通の犬くらいだ。別の魔物だろうか? それとも、魔物というのは分裂することができるのか?
老人が糸の切れた操り人形のように窓枠の向こうに崩れ落ち、それを乗り越えて魔物が入ってくる。どん。射出された固まりをイーシャットは両手を挙げて弾いた。その時には魔物がカーディス王子を抱え上げていた。目を覚ましたカーディス王子が悲鳴を上げ、魔物は王子を窓から外へ投げ出した。
「おい……!」
『あの若者に伝えろ』
ゆらり。
さっき崩れた老人が、再び立ち上がっていた。
魔物は老人の後頭部にへばりつき、老人の体を操っている。老人は既に死んでいる、それは明らかだった。老人の腕がカーディス王子を抱え上げ、魔物が囁く。
『この子供の命が――』
マーシャがよろよろと身を起こし、魔物が再び彼女にあの固まりを撃ち込んだ。
その瞬間、イーシャットは走った。魔物の腕? がこちらを向く前に窓から飛び出し、老人に体当たりした。カーディス王子が悲鳴を上げて地面に落ち、イーシャットは有無を言わせず王子を担ぎ上げた。冗談じゃない冗談じゃない、と、思っていた。冗談じゃない冗談じゃない。イーシャットはもめ事には向かない。荒事なんてもっての外だ、イーシャットは温和で穏やかな平和主義者である、マスタードラやフェルドのような人種とは一線を画する平凡な男である。
しかし、王子の身内である。
それがどんな王子であろうと、目の前でかっ攫われるような不祥事は断じて起こすわけにはいかない。平和主義者には平和主義者の矜持というものがある。ルファルファ様、と祈るしかない。カーディス王子はどうにか守りますからその代わり、エルギン王子の目の前にも、助けようと思う人間が存在してくれていますように!
「ざけんなこんちくしょー!」
イーシャットはカーディス王子を担いだまま、死にもの狂いで夜のルファ・ルダを走り出した。