第三章13
階段の分岐点に辿り着いた。
フィガスタはずっと何事か考えていたようだったが、その分岐点で心を決めたらしい。「おい」とフェリスタに声をかけた。
「お前こっち行け」
「はあっ?」フェリスタは素っ頓狂な声を上げた。「何? 俺、ひとりで?」
「そうだ。こっちに行けば王妃宮だ。階段ずっと昇って突き当たりの壁を押すと開く。出たところは地下牢になってる。王妃宮は最近は無人のはずだ、王妃がこっちで留守番してるからな」
「いやいやちょっと待ってよ兄ちゃん」
「王妃宮の裏口から出て西門に行け。石垣の下に何人か潜ませてある。フクロウ三回」
「いやいや、ちょっと待ってよ兄ちゃん!」フェリスタはフィガスタの腕にしがみついた。「俺ひとり邪魔者扱いすんのか? 俺だってさっき、なあ姉ちゃん!」まん丸の瞳がマリアラを見た。必死の色。「俺さっき頑張ったろ!? 俺のお陰で助かっただろ!?」
「う、うん、うん」マリアラは急いで頷いた。「本当に助かったよ。魔物を撃退できたのは、あなたの目と腕のお陰だもの」
しかしフィガスタはにべもなかった。
「魔物を撃退するより大事な仕事だ。フクロウ三回でわかる。人手集めて門全部に襲撃かけりゃ、衛兵を分散できる」
「兄ちゃんが行けばいーじゃん!」
「お前この娘担げんのか?」
フィガスタが背に乗せたままのラセミスタを揺すってみせる。フェリスタは絶句した。元気がぱんぱんに詰まっているような快活な少年の顔が、硬く硬く、強ばっていく。
「……んでだよっ、ちくしょうっ! 俺、だって俺、俺……!」
「長から命じてもらおうか?」
「ひきょーだぞクソ兄貴! …………おめーなあっ!」
悔しさで真っ赤な顔をして、フェリスタはびしっとエルギンに指を突きつけた。
「死ぬんじゃねーぞ! 骨付き肉の勝負、まだついてねーんだかんな!」
「死なないよ」エルギンは真面目に頷いた。「君も死なないでよ。そっちも充分危険なんだし」
「俺様が死ぬわけねーだろ!? いーよわかったよ、やったろーじゃねーか! おい別嬪な方の姉ちゃん!」
フェリスタは今度はラセミスタを見た。フィガスタの背から滑り降りたラセミスタに、ずっと大事に握りしめていたゴーグルを渡し、
「でっかい音出す道具あるか? ついでだから追っ手の大半惹きつけてやるぜ!」
「え、あ……うん、あるけど……でも、危な、」
「いーから早く出せ! 危ないだあ? 俺に言ってんのか俺に! 俺は草原のフェリスタだ、あと十年もすりゃ世界中に名の轟く弓の名手になる男だ!」
「十年もかかんのか。ずいぶんちんたらやる気なんだな」
ヴェガスタがからかい、フェリスタは、ラセミスタが差し出した何かラッパ状の魔法道具を奪い取って喚いた。
「るっせークソ兄貴! 五年って言ったんだ五年だ五年! どいつもこいつも馬鹿にしやがって、ばーかばーかばーか! 死ぬんじゃねーぞバカどもー!!」
がらん。
フェリスタの持っている魔法道具が初めの音を立てた。
続いてわき起こったのは、静かな石造りの廊下では耳を聾するほどの騒音だった。フェリスタはそれをしっかり握り、王妃宮へ続くという通路に走り込んだ。がんがらごんがらぶっぱぶっぱ、と怖ろしい程の騒音を立てながら遠ざかっていく。あんな道具まであったのか。マリアラは思わずラセミスタを見た。ラセミスタが囁く。
「魔物にも聴覚が鋭い種族があってね、そういう魔物は騒音立てると怯んだりするから一応入れてあるんだよ」
「行くぜ」
フィガスタが三度ラセミスタを背に担ぎ上げた。ラセミスタは妙に神妙な顔をして、されるがままになっている。フィガスタはヴェガスタほど大柄ではないが上背があるので、小柄なラセミスタがちょこんとフィガスタの背に乗っていると、なんだか人形じみた可愛らしさがある。頭がとても小さい。金に近いほどに色素の薄い茶色の髪はふわふわで、小さな頭の周りを彩っている。
あの小さな頭の中に詰まっている魔法道具の知識は大変なものだ。改めて、マリアラはそう考えた。触るとバチバチなったりあんな騒音を立てたりする魔法道具が自分の巾着袋の中に入っていたなんて――そう言われてみれば確かにそんな話も聞いたような気がする、と言う程度の知識しかマリアラにはなかった。ましてや様々な状況に応じて、想定されていない使い方をたちどころに考えて判断するなんて。
薬の勉強だけでなく、もっと自分の持っている道具についても知識を深めなければ。
さっきの体験は、マリアラにとって、枷を取り払われたような経験だった。魔力が弱いというのは紛れもない弱点である。その弱点を抱えている自分は、他の魔女に比べて劣っている、それは、確かなことだ。
でも支給されている巾着袋の中には、その弱点をカバーしてくれる魔法道具が、きちんと揃えられていた。正しい知識と理解さえあれば、ちゃんと魔物や外敵を撃退できるように、魔女保護局員や【魔女ビル】の管理者たち、ラセミスタのような魔法道具制作員たちが、対策を考えてくれていた。ジェシカやミランダのような、魔力の強い魔女と比べて落ち込むのは意味がない。薬の知識を深め、魔法道具の性能をちゃんと把握しておけば、人並みに働くことができる。
ラセミスタに訊ねたら、教えてくれるだろうか。
考えて、マリアラは微笑んだ。きっと教えてくれる。彼女は親切で、思いやりのある子だ。道具への理解を深めたいからと頼めば、きっと親身になってくれる。その代わりに――。
思い至って、マリアラは思わず、顔をほころばせた。
もしもラセミスタが望むなら、一緒に外に遊びに行くというのはどうだろう。動道に乗ったり道を歩いたりして、ここでやったみたいに、一緒に色々なものを見て。ラセミスタは【魔女ビル】からほとんど出たことがないと聞いた。それは、エスメラルダの町中で、彼女が開発したり発明したりしたものが、実際にどのように使われているかを見たことがない、ということではないだろうか。
無理に誘うのは禁物だ。でも、もし望むなら、あの子が外に出て行くための気後れや困難を、できるだけ取り除いてあげたい。こないだダリアに連れて行ってもらった和菓子のお店やカップケーキのお店で、通販に出ていない新作や様々なものを、いつでも気軽に、食べに出かけられるようにしてあげられたら。
それを楽しみにしていれば、この暗く先の見えない怖ろしい数日を、なんとかやり遂げられそうな、気がする。
ニーナを担いだヴェガスタが先頭で、エルギン、マリアラ、最後にラセミスタを背負ったフィガスタ。そういう陣形で進んできた一行は、ついに、長々と通ってきた石造りの階段から、乾いて温かな絨毯敷きの階段に辿り着いた。
平地になったので、フィガスタはラセミスタを下ろした。ニーナはと言うと、ヴェガスタの背中でうとうとしている。マリアラは辺りを見回した。先ほどの一件で吹っ切れたお陰か、ようやく、王宮の中に入ったのだという実感がわいてくる。
床に敷かれている絨毯はふかふかだった。汚れなどどこにもなく、きちんとしていて清潔だった。そして、明るかった。壁には壁紙が貼られていて、天井には小さなシャンデリアが適切な間隔で続いている。マリアラはむずむずした。すごい。
そしていい匂いがする。ごくほのかに、花の香りが漂っている。町中の服屋さんやあのレストランの従業員たちも、自分の意思できびきびと楽しそうに働いていた。豊かな生活を送っているらしいことがよくわかる。
今までずっと、アナカルシスの歴史には、いつも、暗い影がつきまとっているように思っていた。特に【暗黒期】が終わりに近づく頃には、暴君が数代続いて国が荒れていたらしい。その暴君たちが文化を荒ませ、書物や様々な遺物を破壊してしまったために【暗黒期】が形成されたのではないか、という説もあるほどだ。
しかし、街や王宮を見ると、暴君に虐げられている様子は見られない。と言うことは、今は暴君による治世が始まる前なのか。それとも、【暗黒期】の終わる頃に登場して暴君から国を解放し、アナカルシス史上稀に見る善政を敷いたと言われる、英傑王の治世の頃なのか――
ヴェガスタが歩き出している。ラセミスタはその横をついていきながら、彼に背負われたニーナの様子を気にしている。マリアラも続いて歩き出そうとし、エルギンを振り返った。彼は、今出てきたばかりの薄暗い通路を気にしているようだった。フィガスタが通路を塞ぐ仕掛けに手をかけている。エルギンが囁く。
「あの子は、大丈夫でしょうか?」
「あの子? ああ、フェリスタか?」
フィガスタは通路に顔を突っ込んで耳を澄ませた。あの騒音は、もう全然聞こえない。
「……大丈夫、あの鼻たれ小僧はなかなかどうして結構大した奴なんだ。身びいきをさっ引いてもだ、抜け目はねえし、さっき見たとおり腕も確かだ。剣も結構使える。弓の腕前じゃあもう俺も敵わねえ、伝説の長、ヴィレスタの再来じゃねえかって言われるほどだ。いいか? 閉めるぞ」
「はい。どうして鼻たれ小僧と呼ぶのですか? 全然垂れてないのに」
エルギンの疑問に、フィガスタは笑った。
「腕は確かだがあいつはまだガキだ。俺はあいつのおしめも変えてやったし、よく青っぱな拭ってやったもんだ。それを忘れて弓の腕を鼻に掛けたりしやがって、すぐ一人前ぶろうとするからよ、ことあるごとにそう呼んで、自分の立場を弁えさせてやってんのさ。さ、行くぞ。無駄話してる暇はねえ」
いいながらフィガスタが歩き出した。マリアラも足を速めた。エルギンが小走りに後を付いてくる。
その時。
「――危ねえっ!」
フィガスタの長い腕がマリアラの前に突き出された。その目の前、鼻先をかすめるような場所を、上から落ちてきたシャンデリアのひとつがかすめた。轟音。飛び散る破片の向こうに、先に行っていたヴェガスタとニーナ、並んでいたラセミスタの姿が消える。
「……ラセミスタさん!」
マリアラは悲鳴を上げた。シャンデリアの残骸の向こうに三人の姿が再び見えるようになったが、その時には、マリアラはフィガスタの手に引きずられて廊下を反対方向へ走り出していた。シャンデリアの残骸の上に、黒々とした大きな獣が降り立っていた。豹に似た大きな、そして美しい獣だった。その向こうにヴァシルグの背も見えた。あちらの三人に向けて剣を構えたのが見える、
「ラセミスタさん……!」
「前向いて走れ!」
フィガスタの怒声。前に向き直ると、エルギンがすぐ目の前を走っている。マリアラはポケットからさっきの筒を取り出し、握りしめた。どしっ、背後に地響き。フィガスタがマリアラの腕を放し剣を抜いた。マリアラも右手に筒を嵌めた。光珠はない。ラセミスタも、頼もしい道具も、的確な射撃を助けてくれたフェリスタもいないけれど、それでもなんとかしなくてはならない。
どん。
マリアラの放った光の塊が、過たず魔物の額に炸裂した。ぐぁっ、魔物が地響きのような悲鳴を上げて仰け反る。
「走って、エルギン! お母さんの塔はどこ!?」
エルギンは一瞬唇を噛みしめた。何も言わずに足を速めた。どん、どん、どん。マリアラも数発魔物に撃ち込んでから後を追った。ラセミスタが心配だった。ヴァシルグが彼女の方へ行ってしまったのに、マリアラは彼女の方へ近づくことができない。大丈夫だろうか。また会えるだろうか、一瞬弱気がよぎって自分を叱咤する。この上は魔物までが彼女の方へ向かわないよう、何とかして惹きつけるしかない。
フェルドがいたらと、また思った。
今追いかけてくる魔物は、【魔女ビル】の礼拝堂で会った魔物にとてもよく似ていた。フェルドがいてくれたら。フェルドの水が、魔物を止めて、力を貸してくれたなら。
フィがこっちへ向かっている。明日の朝には合流できそうだ、と、言ったラセミスタの声を思い出す。明日の朝まで逃げ切れば、きっと何とかなる。もう一度魔物を撃って牽制してから、マリアラは走った。