第三章12
道は、いつしか上り坂にさしかかっていた。
ゆっくり昇っていく内に、足元に階段が現れた。すり減った石の階段。湿気を含んでつるつると滑りそうになる。ヴェガスタがいつの間にかニーナを背負っていて、ラセミスタは心底ニーナが羨ましかった。年長者のプライドにかけても、自分も背負って下さい、とは言えない。しかし長年怠惰な引きこもりを続けた身にはこの階段は辛すぎる。一段上がって、ひと息入れて、もう一段上がって、ひと息入れる。はあ、ふう、はあ、ふう、必死で足を動かす内に、しんがりのフィガスタがついに言った。
「……おぶうから、背に乗れ」
「けっ……こー、ですぅ……」
「いや親切とかじゃなくて、遅えから。登り切る前に日が昇っちまうわ」
言いながらフィガスタはひょいとばかりにラセミスタをつまみ上げて背負った。まるで荷物のような扱いを抗議する余力もなく、ぜいぜいとフィガスタの背で喘ぐしかない。情けない。何て情けない。マリアラはフィガスタに背負われたラセミスタを少々心配そうに見ていたが、何も言わずに足を速めた。やはり、ラセミスタに合わせてペースを落としていたらしい。ますます不甲斐ない。
ぴっ……
……とーん。
妙に間延びした水滴の音が聞こえている。さらさらと水が流れる音がする。そしてひどく、寒い。汗ばんだ体が、急速に背中から冷えていく。冷えていく。冷えて、冷えて、冷えて……
「マリアラ……」
ラセミスタはか細い声で言った。
「背中が、異様に、寒いです……」
「ああ? そりゃあんた、汗かいてるからじゃ」
「違います」マリアラが言った。「確かに……異様な冷気。何か、くる……?」
「おおおおおおろしてっ、おろしておろしておろしてっ!」
ラセミスタは必死でフィガスタの背から滑り降り、マリアラのところへ行った。地下から這い上った異様な冷気が辺りに満ちている。両足を踏ん張って立ったマリアラの足元に蹲り、ハンカチを広げて巾着袋の中身をざあっとあける。マリアラがさっきの筒を右手に嵌めている。ラセミスタは光球がぎっしり入ったケースを探しだし、元の大きさに戻した。アタッシュケースくらいの大きさの入れ物に、握り拳大の光球が整然と並べられている。
「光は充分。マリアラ、その筒はそのままでも撃てるけど、光球詰めて発射すると効果倍増」
「ありがとう」
「ミフ、光網セットするからこっちに来て。これはね、こうやって使うの……」
「ヴェグ、お姫さんを下ろせ。なんか来るってよ!」
フィガスタが言い、剣を抜いた。光網を装着し終えたミフが飛び立った。その時、それが視認できた。冷気と共に、階段の下から何かが這い上ってくる。ぞわぞわと蠢く何か。黒い波のような、通路を埋め尽くす、何か。
「撃って!」
ラセミスタの声と同時に、マリアラが撃った。
光珠を装填した筒は、この暗闇の中では目映いほどの光を撃ち出した。衝撃、そして轟音が、這い上がってきた黒い波に直撃した。ギイッ! 悲鳴が上がった。ラセミスタが渡した光珠をマリアラが装填しもう一度撃った。ずずん。地響きと共に光が炸裂し、こちらに伸びてきていた黒い腕が怯んだ。
その時には、先頭の方で剣戟の音が上がっていた。ヴェガスタがヴァシルグと切り結んでいる。後ろから複数の兵士らしきものが駆けつけてくる。ラセミスタは巾着袋の中身から、光芝を取り出した。必要な大きさに切り取り、手頃な長さのハウスの支柱にまき付け、魔力の結晶を組み込む。それをエルギンに差し出した。
「エルギン、これ使って。あっちが殺しに来てるんだから、こっちも本気で戦わなくちゃ。フェリスタたちに当たらないように気をつけて――これで殴れば、相手が痺れる。光らなくなったらあたしに言って、結晶追加するから!」
「は、はい!」
エルギンが支柱を受け取りラセミスタは手を伸ばし光芝を作動させた。支柱に巻き付けた、芝に似た魔法道具がぼんやりと光る。
「手当たり次第にぶん殴って! 何かに接触するとバチバチなるから!」
「は、はいいっ!」
エルギンがヴェガスタの横に駆けつけ、正面から襲ってきていた兵士に支柱をたたき付けた。兵士は当然剣で受け、そして、
「ぎゃああああああああっ!?」
甲高い悲鳴が上がった。光芝も、対魔物用魔法道具のひとつである。ハウスの周りに敷いておけば、魔物が踏んだら電流が流れ、ハウスへの攻撃を防ぐことができる。
これはただ魔物を怯ませる効果しかない。人を無力化するほどの威力はないのだが、全く魔法道具の知識のない人にはかなりの衝撃だろう。剣を取り落とした兵士が泡を食って逃げていく。
どうん、どうん、マリアラが筒を連射している。魔物はマリアラの砲撃の前に全く近づくことができないでいる。フェリスタが興奮した声を上げた。
「ねーちゃんねーちゃん! 俺、弓撃てるよ! なんかいい武器っ、俺にもないかな!?」
「ゆ、弓かあ……弓はちょっとなあ……」
「ええー! なんかあるだろ俺にもよー!」
「あ、じゃあ、これで魔物がどう潜んでるのか見て、マリアラに教えてくれない? 本体を叩けば楽になるよ!」
ラセミスタはフェリスタに毒視ゴーグルを渡した。毒の放つ特殊な波長を捕らえ、毒の濃淡を視認できるものだ。【毒の世界】で、暗闇に紛れハウスに忍び寄る魔物を発見するための道具だ。これは一般人にも使えるものだが、念のために魔力の結晶を起動スイッチに貼り付けてから渡す。しかしフェリスタは武器ではないことが不満そうだ。
「じゃーあのねーちゃんが撃ってるやつ俺にも貸してよ! 飛び道具じゃん!」
「あれはマリアラしか撃てないの!」
「ええー!? 俺にもなんか武器ねーのかよー!」
フェリスタはぶつぶつ言いながらもマリアラの隣に移動してゴーグルを目にあてた。おおっ、驚きの声が上がる。
「すっげ、魔物が見せるぜ! なんだこれ、でっけー! ねーちゃん左っ、左……あーもーここだって! ……撃って!」
光が炸裂した瞬間、今までとは比べものにならないほどの絶叫が上がった。マリアラの前にしゃがみ込み、マリアラの腕を下から掴んで自分の思いどおりの方角に向けることで、フェリスタは的確に魔物の伸ばす腕を撃ち始めた。とても楽しそうな明るい声が上がる。
「すっげ! すっげこれすっげ! 撃て、撃て、撃て! あーもーっ、俺が撃てればいーのにー!」
弓が得意、と言ったとおり、フェリスタの狙いは本当に的確だった。マリアラは今や階段に座り込み、フェリスタに腕を動かされ指示されるままに撃ちまくっていた。ラセミスタはマリアラに光珠を渡しながら魔力回復剤を作っていた。ヴェガスタとエルギンが並んで兵士たちを撃退し、フィガスタはニーナを背に庇い時折繰り出される兵士の剣を弾きながら、なにやら考えている。
やがて、ミフが魔物に光網を投げた。
それが契機となった。
光網も、光芝と同じ原理で作られた対魔物用魔法道具だ。【毒の世界】で夜を迎える羽目になったとき、長い夜の間、とにかくハウスを守り切ることが最重要課題となる。知能のある魔物は様々な手を使ってハウスを壊そうと襲ってくるため、ハウスはかなり頑丈に作られているし、近づいてきた魔物を攻撃するための道具も豊富に揃っている。
光網に絡め取られた魔物は絶叫とともに退却した。フェリスタはすかさずマリアラを引っ張り上げ、ヴェガスタとエルギンの間に割り込んだ。どん、光の弾が兵士たちの間に炸裂すると、さすがのヴァシルグも顔を歪めた。「撤退だ」低い声が上がると同時に、兵士たちは泡を食って逃げ出した。フェリスタが高らかに笑い声を上げる。
「やったー! すっげー、すっげー気持ち良かったー! ねーちゃんらすっげー武器もってんな! 兵士の奴らもなっさけねーな、尻尾巻いて逃げやがったじゃねーか」
「あのなあ……」ヴェガスタがため息と共に斧を引いた。「喜んでる場合じゃねーぞ。こんな騒ぎになっちまった。マーセラ兵だからこれで済んだが、衛兵が出てきたらああは簡単には退いてくれねえぞ」
「でもよーこの王子様、本物の王子様なんだろ? マーセラ兵はわかってても殺しに来るだろーけど、衛兵はわかったらさすがに殺しには来ねーだろ」
「あのなあ鼻たれ坊主、衛兵にもな、面子ってもんがあるんだよ。あの女がいる王宮ん中で衛兵そっちのけで大騒ぎされたら面子丸つぶれだろーが、鉢合わせしねえにこしたことはねえ。早いとこ行くぞ」
ヴェガスタはニーナを再び抱え上げ、階段を上がり始めた。フェリスタはあのゴーグルをしっかり抱えたままエルギンの横について、意気揚々と歩いて行く。マリアラがようやく息をついて筒を外し、ラセミスタは彼女に魔力回復剤を渡した。
「あ……ありがとう」
「いえいえ、こちらこそ。お疲れさま、結構撃ったから、疲れたでしょ?」
「ううん。あのフェリスタって子、すごいね。わたしだけだったらあんな風に絶対撃てなかったもの」
「あいつは草原の武道大会でな、ここ数年間、弓部門の決勝戦の常連なんだ。今年は優勝までいけるんじゃねーかな。史上最年少」
フィガスタが言った。ラセミスタが散らばっていた道具をかき集めて巾着袋に戻し、立ち上がると、またもや有無を言わせぬ手つきで担ぎ上げた。本当に荷物のような扱いだが、ラセミスタには文句を言う気も起きなかった。フェリスタのように相手を狙うこともできず、マリアラのように魔法道具を連射することもできず、エルギンのように相手に棒をたたき付けることもできない。それどころか自力で階段を普通に上がることもできないのだから、ラセミスタは正真正銘の一行のお荷物であり、それを自覚する必要がある。
マリアラは魔力回復剤を飲みながら、そうなんですか、と相づちを打っている。ややしてフィガスタは、呟くように言った。
「申し訳なかった」
「えっ?」
「俺はあんたらを見くびっていた。王宮に向かうなんて、王子と神子を見殺しにするつもりなんだとしか思えなかった。けどあんたらは、ちゃんと身を守る道具を持ってたんだな。……あんなことをして、本当に申し訳なかった」
深々と、フィガスタは頭を下げた。ラセミスタはフィガスタの頭側からずり落ちそうになり、慌ててしがみつく。
――あんなこと?
って、なんだろう? 意味がわからなかったけれど、マリアラにはわかったらしい。彼女はきゅっと唇を噛みしめた。表情が明るくなっていることに、ラセミスタは気づいた。さっきまでこの世の終わりみたいな悲壮な顔をしていたけれど、今は、なんだか少し、吹っ切れたようだ。
「あんなおかしな道具持ってるくらいだ。……死にかけた女ひとり助けるくらい、簡単かもしんねえな」
フィガスタはそう言い、足を速めた。