第三章11
その通路は、ひっそりと静まり返っていた。
「大丈夫か嬢ちゃん」
真っ先に中に入ったヴェガスタは低い声でそう言って、最後の段差で難儀していたラセミスタの手を掴んで引っ張り上げてくれた。ありがとう、と言う間もなくヴェガスタはすぐに穴の方へ戻り、続いてエルギン、そしてマリアラ、最後にニーナを軽々と引っ張り上げる。その厳つい外見にも関わらずヴェガスタの手つきはとても丁寧で、風体の割に紳士的なのだ、とラセミスタはぼんやりと考えた。持ち上げられるときに痛みも重みも全く感じないと言うのは、生半可な気遣いと腕力で出来ることではない。
続いて穴から顔を出したフェリスタが身軽に飛び上がってきて、しんがりのフィガスタが出て来ると、出口は何もなかったかのように元どおりに閉じられた。
「こんな道もあったんですね」
エルギンが閉じられた出口を見て感心したように呟いた。その場所をしっかり覚えておこうとするかのように、曲がり角からの距離を目で測っている。
ラセミスタは、ひっそりと静まり返る、不気味な暗く狭い石造りの廊下を眺めた。いよいよだ、と思うと、気が引き締まってくる。
さっきのあの、レストランで――
マリアラとフィガスタ、ニーナが帰ってきてからも、一行はしばらく、草原の民たちの集めてくる情報を待っていた。どういういきさつがあったのかわからないが、フィガスタは結局、一緒についてくることになったのだ。そうするとフェリスタは用済みなのでは、と思ったのだけれど、彼もなんだかんだ言いながら一緒に来ている。フィガスタは今草原の民をまとめる立場にいるそうで、町中にいる草原の民たちが、彼の手足のように動くらしい。
草原の民たちの報告によると、アナカルディアに残っているマーセラ神官兵は一中隊程度。それがほとんど王宮の門という門の警護に集まってきている。それを聞いてヴェガスタが、『やっぱあの道使うしかねーな』と言い、フィガスタも賛成した。四人が案内されているのは、『その道』である。
深夜に近づくにつれて益々喧噪を増していくアナカルディア繁華街を抜け、閑静な住宅街に入り、程なく現れたなんの変哲もない石塀をヴェガスタが押すと、ごろりと塀が回った。ぽかりと現れた真っ暗な穴の中に作られたはしごを下りる。草原の兄弟が用意してくれた松明を頼りにしばらく歩いて、出てきたところがさっきの穴だ。
マリアラはさぞ興奮しているだろう。
そう思ってマリアラの横顔を盗み見るが、マリアラの表情は暗いままだ。考えに沈んで、周囲に刻まれた歴史の色合いになど気がついてもいないようだ。いったい、どうしたんだろう。ラセミスタは心配だった。フィガスタが一緒に来ることになった経緯もよくわからない。たぶんスカートを乾かす間に何か話し合いが持たれたのだと思うが、いったいどんな話し合いだったのだろう。
「こんな道もあったんですね」
とエルギンが呟くと、
「すっげーな!」
すっかり興奮したフェリスタが明るい声を上げた。
「うっわー、すっげー。俺こんなとこ初めて来た。なーなー王子様よ、王宮って全部こんな風にじめついてんのか? 暗くて寒くてでっかくて、おどろおどろしいのか?」
褒めているのかけなしているのかわからないが、フェリスタが心底感心しているらしいことは確かだった。エルギンも屈託なく答えた。
「中は別に普通だよ。温かくて乾いてる。ただ地下に湧き水があって、王宮の地下をずっと通って、王宮の外れ辺りで地上に出て川になるんだ。この辺りがじめじめしてるのは、地下水の近くだからだと思う」
「夏なのにな! 涼しくていーけどちっと寒いくれーだわ。洞窟みてーなもんだな。すっげーな-、王宮ってでけーなあ! 杭一本抜くと崩れるらしいって噂聞ーたことあったからよ、どんなすっかすかのボロ家だよって思ってたけど、こりゃーなかなか崩れそうもねーじゃん? 杭っつーのはあれなの、ただの噂っつーか、怪談みてーなもんなの?」
「杭はちゃんとあるよ」エルギンは真面目な口調で言った。「王座の下にあるんだ」
「何! 王様はいつも杭の上に座ってるっつーわけ? そんなわかりやすいところにあっていーの? 王様に会いに来る人皆、気になってそわそわすんじゃねーか」
「いや、さすがに丸見えにはなってないよ。杭を囲むようにしっかりした台座が作られてて、王と王妃の座る椅子が並んでふたつ、置いてあるんだ。衛兵が守っているから、杭にはそう簡単には近づけないよ」
「じゃあおめえ、どうやって杭見たんだよ。やっぱほんとはねーんじゃねーの?」
「見たよ」エルギンは少し誇らしげに言った。「父上とアンヌ様が謁見の間にいらっしゃらないときには、さすがに衛兵もいないからね。謁見の間は硬く閉じられてて、その外に衛兵がいるだけなんだ」
「忍び込んだのか!」
「うん」
「どうやってだよ!」
「衛兵の目を盗んで」
「どうやって盗んだんだよ!」
「僕の身内はふたりとも、とても話がわかるんだよ。イーシャットは口がうまいからね、顔見知りの衛兵が担当の時に偶然通りかかってさ、面白おかしくお喋りしてくれたんだ。その隙にちょっと」
「何やってんだ、止めろよ……」
フィガスタが思わずと言うように呻いた。ラセミスタは思わず顔を綻ばせた。このじめついたおどろおどろしい雰囲気の中、フェリスタとエルギンの楽しげなやり取りは救いだった。イーシャット、という人の名は、今までにも何度か登場した。マスタードラという人はどうやらエルギンの護衛らしいけれど、イーシャットと言う人が担っている役割はラセミスタには少々ピンとこない。だからだろうか、なんだか兄のような存在を思わせる。
フィガスタは呆れたが、フェリスタは感銘を受けたようだった。
「おめー、結構やるじゃん。杭ってさ、どんなのだった?」
「あのね」エルギンは声を潜めた。「近づくためには台座の下に降りないといけないんだよ。降りるともう、上がる手段がないんだ。はしごを持っていかなければ出られないようになってるんだ。さすがにはしご持ち込むのは無理だったから、上から見るだけで精一杯だったんだ。暗かったけど、杭はちゃんと見えたよ。綱が巻かれていたけど、結構ぼろぼろになってた。でも、杭はしっかりしてるみたいだったよ。普通の木じゃないんだと思う。千年以上経ってるのに全然腐ってなかったからね」
「つーか、なんでそもそもよ、杭抜いたら崩れるように作ったんだ?」
「戒めのためなんだって聞いたよ」エルギンの口調が少し厳粛さを帯びた。「アナカルシスの王がどれほど強大になっても、どれほどの権力を手に入れても、それは誰かが杭一本抜けば崩れるものなんだ。王座に座る者はそれを忘れるな、って、初代の王が戒めのために作ったんだって」
「じゃーさ、じゃーさ、方便かもしんねーじゃん? ほんとに崩れるかどうかなんてわかんねーじゃん?」
「図面があるんだ。王宮を作ったときの、設計図。長年研究されていて、どうやらこの通りに作られてるらしいってことはわかってる。それで、このとおりに作られてる建物なら、中心の杭を抜けば確かに崩れますねって、建築家が断言してる。毎年新年にそれを確認する儀式をやるんだ……」
だしぬけに、冷たいものがそっとラセミスタの左手に触れた。
ラセミスタはびっくりした。すぐ隣にいるマリアラが、手を伸ばして、ラセミスタの左手に触れたのだ。まるで救いを求めるようなおずおずとした動き。
「……ごめん、ラセミスタさん」マリアラはか細い声で囁いた。「わたし……」
「ど、どうしたの……?」
「後で……聞いて欲しいことがあるの……」
ごく低い声でそう言われて、ラセミスタは反射的に頷いていた。それも何度も。マリアラがこんな顔をするなんて、と思うと何だか心臓が痛い気がする。でもラセミスタの口はこんな時でも上手く動いてはくれなくて、『もちろんだよ』と言えたらいいと思ったのに、頷くことしか出来なかった。
でも、マリアラは微笑んでくれた。
それも、ホッとした、というように。
「ありがとう」
「う、ううん。だ、大丈夫。きっと、大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫。大丈夫」
「うん……」
ラセミスタは唯一口から出せたその言葉を呪文のように繰り返し、マリアラもその都度、うん、と頷いた。うん、うん、うん。大丈夫。うん。大丈夫。
ラセミスタの手を命綱のように握るマリアラの、冷たい冷たい指先が、少しずつ少しずつ、温もりを取り戻していくまで。