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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の冒険
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第三章10

 初めに口を開いたのは、ランダールだった。


「……殿下。お気を確かに」

「僕は正気です! 失敬な!」


 次に口を出したのはイーシャットだ。


「い、い、いや、殿下。王子を辞めるとか、そんな、簡単に――」

「王子を辞めてはだめなのですか? どうして?」

「ど、どうして!? ど、どうしてって、ど、どう……どう……」イーシャットは頭を抱えた。「ど、う……?」

「殿下、よく考えてください。ご両親を捨て、家も地位も責任も全てを棄てるというのは、一時の激情だけでやってしまっていいものでは……」

「……ムーサと一緒にいたら。僕はきっと、今後も、雷に追い払われるようなことを――空虚な正義を振りかざして、その実は自分が間違っていて、お天道様に顔向けできないようなことを、やらなければならないことになると思います。ランダール、昨日の雷はムーサと僕を追い払いました。まるで罪人のように――そしてそれは、きっと真実なんだと、思う。僕は恥ずかしい。僕の身内が兄上を殺そうとする。この国の人々を虐げようとする。それが全て僕を王位につけるためだなんて……そんな、そんな王位なんかこちらから願い下げです」


「いいじゃん」


 言ったのはフェルドだった。周囲の全員がぎょっとしたが、フェルドはカーディスを見下ろしてニッと笑った。辺りはすっかり暗く、その笑顔は歯しか見えなかったけれど。


「お前がそうしたいんなら、そうすればいいよ。ランダール、魔物を倒すのには勿論協力するけどさ、少しくらいは俺にも見返りがあってもいいんじゃないか? その見返りの代わりにさ、こいつも一緒に飯食わしてやってよ。ムーサって奴に四六時中へばりつかれてたら、辟易する気持ちはよーく分かるよ」

「それは……いやでもさ、ただの家出とはわけが違うだろ!?」


 イーシャットがわめき、フェルドは笑った。


「何が違うんだよ。……一泊くらいいーだろ? たまには王子って立場を忘れて羽伸ばしたっていいじゃないか」

「でも……いや、でもな!」

「あー運動したら腹減ってきた」


 フェルドは言いながら先に立って歩き出した。まだ彼の左腕にしがみついた体勢のまま、カーディスは、自分の身に起こった幸運が信じられず、なんだか夢見心地だった。今まで、『やりたい』と言ったことが、そのまま受け入れられたことなどあっただろうか。ムーサ様にお訊ねしてから、という返答を、何度聞いてきただろうか。そして何度その要望が、そのまま黙殺されてきたことだろうか。


 ――そうしたいんなら、そうすればいいよ。

 ――見返りの代わりにさ、こいつも一緒に飯食わしてやって。


 足下がふわふわしていた。見たいものを見られず、欲しいものも得られず、行きたいところにも行けなかった今までの窮屈さが、急に身に迫ってきた。ムーサという抑圧は余りに大きすぎて、自分の手に負えるとは思えなかった。家庭教師がいなくなって以来初めて、開放されたような気がしていた。目の前にあった巨大な扉が、さっと開かれたような感覚。知らずに持たされていた重りを指摘されて、退かせてもらったような、爽快感。


「世界一周って、どれくらいかかりますか」


 訊ねるとフェルドは、顔をくしゃくしゃにして笑った。


「さあ。――やってみないと、わからないよな」



     *



 夜。

 フェルドにへばりついて離れなかったカーディス王子がようやく船を漕ぎだし、マーシャが隣の家に連れて行った。と同時に、ゲルトがフェルドに噛みついた。


「……あまり勝手なことをされては困る」


 相変わらず歯に衣着せぬ物言いだった。普段ならば、まーまー、と割って入るところだが、今日ばかりはイーシャットもゲルトに同感だった。フェルドがどういうつもりなのか、さっぱりわからなかった。そこらの子供とは訳が違う。相手は、カーディス王子である。


 ランダールは意外なことに、黙って成り行きを見ている。フェルドはルファ・ルダの図面から顔を上げてゲルトを見た。


「勝手なことって?」

「しらばっくれるな。カーディス王子のことだ」

「……ゲルトさん、あなたは、昨日の夜、さらに地下にいたからわからなかったかもしれないけど」


 フェルドがそう言ったとき、マーシャが戻ってきた。マーシャは自分の立場を誰よりも――必要以上に――わきまえている女性だった。イェルディアの有名な船の船長の妻女だというのだから、もっと威張ったり出しゃばったりしてもいいはずなのに、彼女はかたくなに、こういう場合に口を出したり存在を主張したりしようとしない。代わりに彼女がすることは、掃除と洗濯と料理、そして給仕である。

 今も誰にも頼まれないのに、マーシャは絶妙な時機を捉えて茶を入れ替え、茶菓子を出した。見るからに美味そうな、ざくざくした焼き菓子だ。ランダールもゲルトも甘いものには目がない。イーシャットもそうだが、マーシャの出してくれた木の実の焼き菓子を前に、つい、舌鋒が緩んでしまいそうになる。


 しかし今は木の実の焼き菓子にほだされている場合ではない。

 茶にも茶菓子にも手を出さずに見つめる三人を前に、フェルドは少々困ったように笑う。


「ムーサがさ、あの王子様を叩いたんだ。ランダールもイーシャットも、それは見てただろ。……俺、ああいうのダメなんだよ」


 そうだ、確かに、ムーサは昨夜カーディス王子に手を上げた。ムーサが王子を抱えて地下神殿から逃げ出した契機となったのは、ムーサの背後に立ち上がった重く冷たい空気の固まりと、“失せろ”と囁いたあの低い怒りに満ちた声だった。イーシャットは、ああ、と呻いた。確かに、ああいうのはイーシャットも好ましくはない。


「俺らの国では、子供を育てる人間ってのは、すごく、なんつーか……名誉職なんだよ。滅多になれない。小さな子供はきちんと資格を持った、そうだな、マーシャみたいな? 優しくて行き届いてて、子供の成育に必要な知識をきちんと持った人間にだけ任される。叩いたりなんて絶対許されないし、ましてや自分の目的のために子供を騙して悲しませるなんて。……あの子は、嘘ついて人を殺すような人間に育てられてるんだ。なのにあの子がまだ曲がってなくて、あんな風に育ってるって、奇跡みたいなものだと思って」


「……」


「あの子には俺、恩があるんだよ。熱出てたときにあの子がいたから、あったかくってさ、本当に助かったんだ。なのに騙して悲しませて泣かせた。いくらこの国を守るためだとは言え、すげえ後味悪かった。……そんな時にあの子が、助けてくれって言ったんだ。どうすれば助けてやれるのか、まだはっきりわかんねえけど、もしあの子がどうしてもムーサと一緒にいるのが嫌だっていうなら俺、帰るときに、一緒に連れてってやってもいいと思った」


 イーシャットは唖然とした。帰るときに――つまり、雲の上に帰るときに一緒に連れてくって、ことか?

 フェルドは少し困ったように笑う。


「……そんなに変かな。でもあんたらさ、子供が助けてって言ってるのに、その手を振り払えるのか? それが王子だからって、ただそれだけの理由で? 王子に生まれたのはあの子のせいなのか? ムーサみたいな人間に虐げられて、無理矢理嫌なことさせられるような境遇に甘んじていなきゃいけないのは、あの子のせいじゃないだろ。別に捨てたっていいじゃないか。何かをしたい、広い世界を見たいっていうなら、……見せてやったっていいじゃんか」


 どうしよう。イーシャットは狼狽えていた。

 確かに――確かに、フェルドの言い分はわかる。正しいことを言っている、と、思う。思う、思うのだけれど、どうしても、カーディス王子をその辺の子供と同じように扱うことに抵抗がある。もしあれが王子ではなく、虐待され搾取されている気の毒な子供だったなら、イーシャットだって何とかしてやりたいという気持ちになる。しかしあれは子供じゃない。いや子供だが、それ以前に王子だ。

 王子の境遇を引き受けてやろうと思えるほど、イーシャットは不遜じゃない。王子は雲の上の――ああ、フェルドは雲の上の住人だからその辺は――


 ゲルトが困ったように言った。


「あなたの言い分はわかる。わかるが……端的に言おう。カーディス王子が行方不明になれば、ムーサに格好の口実を与えることになる。ルファ・ルダは蹂躙される。焼き討ちにされ虱潰しに王子を捜されることになりかねん。王子のために、そこまで――」

「――それは私が何とかする」


 ランダールが言い、ゲルトもイーシャットも、フェルドまでが驚いた。


「え?」

「は?」

「……いいのか?」


 口々に言った三人の視線を浴びて、ランダールは頷く。


「仕方がない。魔物を撃退するにはフェルドの力が必要だ。確かに見返りが少なすぎると思っていた。箒と地下神殿だけで返しきれぬほどの恩があるというのに、さらに――何しろ相手は魔物だからな。ルファ・ルダのために命を張って欲しいと頼むのだから、こちらもそれ相応の覚悟をせねば」


「しかし、エルヴェントラ」


「……何より好都合でもある」そう言ってランダールは少し決まり悪げな顔をした。「エルギン王子の帰還が間に合わなかった場合、カーディス王子が行方不明であってくれた方が都合がいい。王子が二人とも不在となれば、終了の刻限が延期となる可能性が高いからな。そもそもカーディス殿下が王位継承権を放棄してくれるならばこちらにとっても願ったりだ」

「それは……まあ。しかし……」

「ゲルト、家へ戻るぞ」言いながらランダールは立ち上がった。「あちらからねじ込まれる前に対策を考えよう。フェルド、休んでおいてくれ。陣鐘が鳴ったら起こす。イーシャット」


 ランダールは出て行きながら、珍しくニヤリと笑った。


「ムーサはぎっくり腰だそうだ。意外に可愛げがあるではないか」

「……可愛いかなあ……?」


 思わず呟くとランダールは、機嫌良さそうに笑って出て行った。


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