第三章9
どこからともなく現れた水が、フェルドの周りを渦巻いている。
カーディスは転げ込んだ木の陰から、魔物の襲撃と、それを撃退するフェルドを見ていた。夢そのもののような、現実味のない光景だった。
風が渦を巻き、水が凍っては溶け、溶けては凍りまた溶ける。渦を巻く風に黒いものが混じりまた無色になる。それはなんだか、大人たちのやる駒遊戯のようだった。風の主導権を奪い、水の主導権を奪われ、また取り返し、また奪われる。カーディスには神官としての素養は全くないそうだけれど、その場を支配する何かの勢力がめまぐるしく移り変わっていくのは肌で感じた。
カーディスは全く動くことができなかった。先ほどから幾度となくフェルドはカーディスを逃がそうとしているのだが、魔物がその隙を与えなかった。同様に、魔物はずっと執拗にカーディスを狙っており、それをフェルドが阻止し続けている。フェルドはずっと魔物からカーディスと自らを守ることだけに集中している、らしい。明らかに押され気味だが、カーディスは信じられなかった。さっきまで普通に話していたのに。美味しい菓子をカーディスにくれ、穏やかな午後を共有していたあの相手が、たったひとりで魔物とほとんど対等に渡り合っている。――人間なのに!
『貴様守護者か!? どこから来た! 何をしに来た! 流れ星を出せ! 出せえエエェ!』
魔物は先ほどから幾度となく声を上げている。その声が、苛立ちのあまり高まっていく。怒りと憎しみを帯びたその声が恐ろしくて、カーディスは身をすくめる。フェルドは無言だ。何も言わない。時折こちらを気にするような素振りを見せるが、ずっと無言だ。言葉を発する余裕もないのかも知れない、そう思うといたたまれない。カーディスという足かせがなくなれば絶対に楽になるのに。
「流れ星ってなんだ!」
カーディスは叫んだ。声を出せないフェルドの代わりに、何かできるとしたらこれしかない。魔物は一瞬黙り、――さらに叫んだ。
『しらばっくれるな! 匿うな! アシュヴィティアの脅威となる“流れ星”を匿うなら、この地に住む人間全て皆殺しだ――!』
魔物は喉を仰向けて遠吠えた。びりびりと空間が震えカーディスの全身を打った。と、フェルドが初めて右手を振った。カーディスの背後――ずっと彼が気にするようにしていたあたり。茂みの奥に隠れていた水の固まりが、巨大な蛇のように立ち上り魔物に襲いかかった。ずっと押されているように見せて、その実、密かに水を貯めていたらしい。
『――っ!』
「走れ!」
魔物が怯んだ一瞬にフェルドが怒鳴る。カーディスは身を翻して走った。恐怖と混乱で方向を確かめる暇がなかったが、とにかく一目散に逃げるしかない。
『くそ――!』
カーディスの後を追うように跳躍した魔物に、水の大蛇が絡みつく。締め上げ四肢をからめ取り、動きを封じようとする。魔物は暴れカーディスの背に届く寸前で、もがきながら地面に落ちた。「大丈夫か!」駆けつけてきていたらしいルファルファ神官兵がカーディスを抱き上げる。
運ばれていきながらカーディスは見た。
地面に落ちた魔物を押さえ込もうと大蛇が荒れ狂っている。魔物が暴れ、大蛇がのたうつ。フェルドが新たに水を呼んでいる。ひょうたん湖の方角から水の滝が殺到するのを見て、魔物が吼えた。
『調子に乗るな、下等な人間風情が!!!』
その時、轟音が吹き上がった。
カーディスを運んでいた兵士が足を止めるほどの、水が沸騰する音だった。魔物が身を振り立て、咆哮を上げた。魔物にからみついていた水の大蛇が悶え苦しみながら蒸発していく。新たな加勢は魔物に激突する傍から蒸気になって霧散した。カーディスはぞっとした。しゅう、しゅう、かすかな音を立てながら、地面から森から木から茂みから、水分が抜けて蒸発していく。魔物が周囲一体の水気を奪い、あたり一面を干上がらせようとしている。見る見る森が枯れていき、フェルドが顔をしかめた。
魔物が叫ぶ。
『貴様は何者だ! 脆弱な人の身でありながらその魔力――いつかその膨大な魔力が、貴様の脆弱な肉体を食い破るだろう。そうなる前に、俺が喰ってやる!!』
そして、跳躍した。今度はフェルドに向けて。
フェルドが水を呼ぼうとしたが、周囲は既に完全に干上がっていた。木々は茶色く萎れ、下生えは乾き大地はひび割れていく。ひび割れていく。黒々と乾いたひび割れは、いつしか赤く染まっていた夕焼けのせいか、やけに禍々しい。絶対的な水分が足らず、フェルドの前にできあがった壁は余りに薄く脆弱だった。カーディスは兵士の首にかじり付きながら叫んだ。
「フェルド――!」
「撃て!!!」
出し抜けに、凛とした声が響いた。昨夜聞いたばかりの、ランダールの声だった。
同時にカーディスの周囲から一斉に火矢が放たれた。赤々と燃える太い炎がいく筋も尾を引きながら魔物の体に突き刺さった。ぎゃあっ、悲鳴があがり魔物がもんどり落ちる。地面を転がり回って炎を消す魔物を尻目に、カーディスのすぐ横を通って出てきた細身の若者がフェルドのところへ走っていった。呆気に取られるほど速かった。右手に、小さな革? でできた袋をぶら下げている。彼を見たフェルドが声を上げた。
「イーシャット」
「袋、袋! あの袋! 使えんのあるなら言え、俺が使うから!」
「日暮れまでに決着をつけるぞ」ランダールが周囲の兵にそう言った。「この期を逃すな! 一斉放射、――撃て!」
火を消し終え頭をもたげた魔物を再び火矢のひと固まりが襲った。今度の矢には火薬が仕込まれていて着弾と同時に炸裂した。「うあち!」イーシャットが悲鳴を上げたが、魔物にも効果はてきめんだった。うるああぁっ、地響きに似た苛立ちの、そして苦悶の唸り声。
兵士の誰かが叫ぶ。
「エルヴェントラ、ここは集落に近すぎます。一度退いて体勢を立て直した方がっ、」
「そんな暇はない。撃て、撃て!」
「一度あの若者と合流して対策をっ」
「あいつは暗闇の中では魔力を行使できないのだそうだ」
ランダールが言った、瞬間だった。
三度襲いかかった火矢を振り払い、魔物が跳躍した。彼は空中で一度身を翻し、夕闇に覆われ始めた森に消えた。逃げた。逃げたのだ。カーディスは思わず立ち上がり、ランダールの袖を掴んだ。
「……フェルドが暗闇の中で魔力が使えないというのは本当なのか?」
魔物は、それを聞いて逃げたようにしか思えなかった。それが本当なら、魔物に、フェルドの弱点がバレてしまったということになるではないか。ランダールは魔物の消えた方を眺めていたが、ややしてカーディスに向き直った。身を屈めて、礼をひとつ。
「ご無事でなによりでした。殿下、ここにいては危険です。マーセラ陣営の天幕まで送らせましょう」
「でも……」
「はー、寿命が十年縮んだわ。でも結構うまく行ったじゃん」
イーシャットが言いながら戻ってきた。手には、やはり、さっきの革袋? を持っている。イーシャットと並んで歩いてきたフェルドはまだあまり事情がわかっていないようだったが、カーディスを見て眉を下げた。
「よう。ケガはないか?」
「それはこっちのせりふです。だいじょうぶですか? ご無事で何よりでした。ええと、ええと、ごじんりょくにかんしゃします」
「お? そりゃどーも」
「……フェルド、暗闇の中で魔力が使えないというのは、本当ですか? 日がくれたら、さっきみたいに、風とか水とか、呼べなくなる。そういうことですか?」
「あー、うん、まーね」
「魔物にそれを聞かれました」カーディスはランダールを振り返った。「……わざと聞かせたのですか? なぜ?」
「ここはマーセラの陣営に近すぎるので。……さっきの火力で魔物を完全に殺すことができたならそうしましたが、少々無理そうでした。フェルドの巾着袋の中で何が使えるのかを打ち合わせる時間もなかったし、ラインディア兵の準備も整っていなかった。万全とは言い難い状態だったので、魔物には一度お引き取り願いました。こちらの体勢が万全に整った状態で迎え撃てるよう、誘導したというわけです」
「でも、それなら何も――」
「銀狼には、嘘は匂うと、聞いています。あの魔物は犬科のようだったので、念には念を入れたまでです。……というわけで」
ランダールはフェルドを見た。
「協力を要請したいんだが、いいだろうか?」
「まーいーけど……こう言うの、事後承諾って言うんじゃないか」
フェルドが笑い、ランダールも笑った。
「そうとも言うな。ああ言ったのだから、次は暗いうちに来るはずだ。食事を用意させよう。食事をとって、少し休め」
「その子は――」
フェルドが言いかけ、ランダールが即答した。
「マーセラの陣営に送っていく。殿下、こちらへどうぞ」
「いやです」
カーディスはそう言って兵士の腕を振り払い、ぎゅっと、フェルドの腕にしがみついた。絶対に放すものかという決意を込めて、ぎゅううううう、と力を込める。
「あの……痛いんだけど」
「僕は帰りません。今日の午後、ずっと考えていたのです。フェルド」
カーディスは、フェルドを見上げた。
「僕をあなたの弟子にしてください。僕はもっと広い世界がみたい。世界一周、いつかやってみるんだって言いましたよね。僕もやってみたいです。
僕は兄上の地位を脅かす、競争相手の、憎まれ者の王子なんて嫌です。どんな理由があったって、違う神様を信じていると言う理由だけで誰かを殺したり傷つけたりするムーサも、ムーサの信じる神様も嫌です。僕は王子を辞めて、あなたの弟子になりたいです!」
沈黙がおりた。
言いながら、一番、自分が驚いていた。そして同時に、体が震えた。
それが自分の本心だった。自分で気づいていなかったけれど、魂が震えるほど、カーディスは今、それを願っていたのだ。それを悟って、その真実が余りに衝撃的で、体が勝手にぶるぶる震える。
いきたい、と思う。
広い世界を見たい。自分の目で。ムーサの顔色をうかがうことなく、ムーサの残虐さを目の当たりにすることもなく。広々とした豊かな世界を。真実の世界を。フェルドと一緒に。先生と一緒に。