第三章8
「え、エルカテルミナ――」
フィガスタの指音ひとつで現れた男たちの誰かが、畏怖するように呟いたのが聞こえた。
ニーナはフィガスタの背中に右手を押し当てたまま、ゆっくりとその場に進み出た。この暗がりの中なのに、ニーナの姿はやけによく見えた。まるで彼女の体が内側から光を放っているかのように。
「マリアラ、こちらへどうぞ」
ニーナの鳶色の瞳がこちらを見る。マリアラはそろそろと体を起こした。ぶるぶる震えるミフを手のひらの中に大事に握り込んだまま、強ばった体をできる限り早く動かしてニーナのところへ行く。
「き、聞いてくれ、エルカテルミナ。最初の娘、全てを統べ世界を抱く真の女王の愛し子よ、あんたの母の白い腕に誓って言う。このまま帰った方がいい。王子の母を治すのは諦め、」
「草原の民、フィガスタ」
マリアラはニーナの後ろから、彼女の荘厳な姿を見ていた。
初めて会ったとき――そう、エルギンとニーナを助けたことを感謝されたときの、凛として厳粛な“神子”が戻って来ていた。今彼女が怒っていることは明らかだった。ニーナはただフィガスタの背に手を宛てているだけなのに、フィガスタは身じろぎひとつできずに固まっている。
「……あたしの友達に何をしたの? あたしの友達を怖がらせたの? 脅したの? 殺そうとしたの? 痛い目に遭わせたの? 草原の民――そう、母様の白い腕の中から、そんなに出ていきたかったのね?」
「か……勘弁してくれ……」
そう呻いたのは誰だろう。フィガスタではなく、板塀の向こうから聞こえたらしい。マリアラは、周囲を包囲していた男たちが、皆ニーナから目を逸らしているのに気づいた。右側の男が弓を下ろし、顔を覆ってその場に蹲った。ぶるぶる震えているのがここからでもよく見える。
「あたしの“剣”が生まれていたら、今頃きっと、命じてくれていたのに。でもいいわ、自分で命じるから。あなたはフィガスタと言ったわね。それで? 他の人たち、全員名乗りなさい。――その名をあたしに寄越しなさい! 母様の白い腕の中から、全員まとめて追い出してやるから!」
「エルカテルミナ」
フィガスタが押し殺したような声で言った。
その時マリアラは気づいた。先ほどまでマリアラの首を絞め、矢で狙い、ミフを矢で撃ったあの怖ろしい男たちが、もはや全員蹲っていた。すすり泣きさえ聞こえることに、マリアラは愕然とした。草原の男は荒くれだとか血が熱いとか、血気盛んな者が多いとか、さっき言っていたような気がするのに。
「俺の一存でしたことだ。――他の奴らは勘弁してくれ。あいつらはあんたがここに来ていることすら知らなかった。白い腕に歯向かう気なんかなかったんだ。知っていたのは俺だけだ」
「マリアラに痛いことしたのはだあれ?」
ひいっ、正面の板塀の向こうから引きつった声が上がる。「エルカテルミナ」フィガスタがもう一度声を上げた。「どうか、頼む。頼むよ。命令したのは俺だ」
「……今年は巡幸ができなかったの。来年はできると思うけど、草原のために祈ると思わないで」
そう言ってニーナは、フィガスタの背から右手を放した。
「こっちを向きなさい、草原のフィガスタ」
フィガスタはゆっくりとこちらを向いた。ニーナの光に照らされて、フィガスタの表情がよく見えた。畏怖と悔恨と恐怖と、それから逡巡。黒い目を伏せて、フィガスタは呻く。
「どうか話を聞いてくれ。あなたの怒りはもっともだ。その娘に手を出したのは確かにやり過ぎた。その責は俺が負う。――だがどうか、理解して欲しい。レスティス妃のことは諦めて、南東のスメルダ伯爵領に直接向かった方がいい。もちろん門前払いされる可能性もないではないが、王宮に向かうより遙かに安全だ」
「それをどうして、マリアラひとりに負わせようとしたの」
「……」
「どうして、エルギンにそれを言わないの? あなたたちはアナカルシスの王と同じだわ。あたしの父さまと母さまを殺す前に、マーセラなんて偽りの神を作る前に、もっと良く話せば良かったのに。……理由があったら殺していいの? 乱暴しても構わないの? それならあたしだってやっていいはずよね」
話す内にニーナの周りに風が凝っていくのを、マリアラは信じられない気持ちで見ていた。
ニーナは孵化していない。それは一目瞭然だ。しかし風は大喜びでニーナの意に従おうとし、ニーナの周りに尾を振る犬のように詰めかけてきていた。ニーナの髪とワンピースがはためいている。小さな体が浮き上がりそうになっている。フェルドが風や水を使うときの様子を思い出す。周囲の全てがその意に沿おうと馳せ参じる、忠実な家来のように見える。
フィガスタが後退り膝をついた。ニーナの威圧に押されるように。
「説得が通じないと思ったからあなたはマリアラを騙して脅して殺そうとした! あたしの大事な人を、二度と会えないところに追いやろうとした! 冗談じゃない――冗談じゃないわ、大人のくせに! 何がクソ兄貴馬鹿兄貴よ、あなたのお兄さんの方がよっぽど話が通じるし人として真っ当だわ! 恥知らず!」
「……申し訳ない。だがどうか、理解して欲し――」
「理解なんか、するもんですか!!」
風が。
フィガスタの体の上に、のし掛かっている。
フィガスタの顔が歪んだ。彼の右手の紋様は若草色に皎々と輝いている、しかし風はフィガスタの紋様など見向きもしないというように、ニーナの意思のとおりにフィガスタを窒息させようとしている。
「父さまも母さまも殺されて、国も全部奪われて――あたしは小さかったから、その怖さはあんまり憶えてないわ。でも兄様は全部見た。全部わかってて、悩んで苦しんで、自分で国を背負うって決めて――それでも兄様は、巡幸を続けようって、あたしに頼んだ。アナカルシスの民が安心して暮らせるように、歪みと魔物を今年も遠ざけられるようにっ、頑張って欲しいって! アナカルシスの王はあたしたちの大事な人を殺したけど、でも民に罪はないんだからって……! 嘘よ……! 少なくとも草原の民に関しては嘘よ、あなたたちは兄様の優しい心を踏みにじった! 王と同じであんたたちみんな、理由があったら人に乱暴したって構わないって思ってる! 理由があったら世界を抱く女王の腕だって汚す! 絶対許さないんだから……!」
「ニーナ!」
マリアラは思わずニーナを後ろから抱き締めた。
その小ささに、驚いた。ニーナの体は、マリアラの両手の中にすっぽりと収まってしまうほどに小さい。こんなに綺麗で怖ろしくて、純粋な怒りに満ちた神の娘なのに。力そのもののような、存在なのに。
「ニーナ、お願い。お願い、やめて。お願い……お願いだから……」
ニーナは風を解いた。ぷはっ、フィガスタが呼吸を取り戻した。地面に倒れ、苦しそうに喘いでいる。ニーナはマリアラに抱き締められたまま、少々苦しそうな体勢でこちらを振り返った。
「どうして止めるの?」
どうしてだろうと、マリアラは思った。
どうしてなのだろう、本当に。
「ニーナ、ニーナ。お願いだからもうやめて。そんなの……哀しいよ」
こんな小さな可愛い子が、“理由があったら人を殺しても構わない”“そっちがそうしたのだからこっちだってそうする”と結論づけてそのとおりに実行する、そのことが、底冷えのするほど怖ろしかった。“平和ボケ”の現代人の感覚なのだろう。マリアラは両親を無理矢理殺されてもいないし、ニーナが今までどんな思いでどんな暮らしをしてきたのかもわからない。そんな状況でニーナに何かを願うのは、無責任で、身勝手で、残酷な願いなのかも知れない。
それでも、頼むしかない。そうだ。目の前で無抵抗の人間が殺されるのは嫌だ。それをニーナが行うのはもっと嫌だ。それを見過ごすなんて絶対に無理だ。だから願うしかない。マリアラの身勝手で無責任な、ただの願望のために、あなたの苦しみや怒りを目の前の男にぶつけるのはやめて欲しいと、祈るしかない。吹雪がこれ以上強くならないで欲しいと祈るように。雪に埋もれた町でどうしても出てしまう死者が、ひとりでも少ないようにと、願うように。
「助けてくれてありがとう。本当にさっきは、怖かったし、痛かったし、苦しかったし……びっくりして哀しくて、辛かった。だから、助けてくれて本当に嬉しいよ。……わたしはもう助かったよ。だから、もうこれ以上は、そんなこと、する必要ないんだよ」
「……」
「行こう。戻ろう? エルギンもラセミスタさんも、心配してるし……王宮に、向かわなくちゃ。ね? いつあの怖ろしいヴァシルグという人がまた、襲ってくるかもわからないし……」
「護衛を……させてくれ」
フィガスタが押し殺した声で言った。ニーナがそちらに向き直る。
「護衛?」
「……虫のいい願いだと言うことは、わかっている。だがどうか罪滅ぼしをさせて欲しい。過ちを雪ぐ機会を与えて欲しい。俺も一緒に行かせてくれ。絶対に役に立つ。俺ひとりの過ちのために……草原全体を巡幸から外すなんて。頼む。頼むよ、どうかそれだけは……」
「……」
「ヴァシルグって聞こえた。マーセラ兵団の長のことだろ。マーセラ兵のほとんどは今ルファ・ルダにいるはずだが、少しは残ってるはずだ。やつらにはあんたの威光は効かねえし、あんたがいくらルファルファの愛娘でもさ、兵に取り巻かれて矢でも射られたらひとたまりもねえだろ。……草原の男はそういう荒事には慣れてる。俺を使ってくれ。絶対に裏切らない。草原にかけて誓う」
「……」
「俺の名はあんたに渡した。俺の髪もあんたに渡そう。俺が役に立たなかったり、裏切ったり、名を汚すようなことをすれば、ルファルファの白い腕から追い出してくれて構わねえから」
「……あのね」ニーナは蹲ったフィガスタの前に屈み込んだ。「裏切られたらその場で、あたしたちみんなが危険になるんじゃないかしら」
「……あんたも国を背負ってる。あんたの行動で兄上に類が及ぶってことになったら、行動には慎重になるだろ? 俺もそうだよ、お姫様。俺のせいで草原が白い腕から追い出されるなんてことになるくらいなら、いっそこの場ではらわた引きずり出された方がマシだ。汚名を雪ぐ機会をもらえねえならここで死ぬしかないが、ルファルファの神子がヴァシルグの待ち構える王宮ん中にどーしても入るってんなら、おちおち死んでもいられねえよ」
言いながらフィガスタはナイフを取り出し、自分の髪をひと房、切った。
白い紙を懐から取り出して、切った髪を包み、ニーナに差し出す。
「これを。……草原のフィガスタはあんたを裏切らねえ。ここで俺に汚名を雪ぐ機会を与えてもらえるんなら、俺は生涯、あんたへの恩を忘れねえと誓う。草原の約定だ。俺の命はあんたのものだ。何かあったらいつでも俺を呼んでくれ。どんな理由でも、何を置いても、あんたのために力を尽くすと誓う」
「……」
ニーナはため息をついて、体を起こした。
「それならしょうがないわ。今のところは、巡幸の道筋に、口出しをしないでおいてあげる。今日一緒に来てもいいけれど、余計なことはしないでね」
「王宮に向かうのはやめた方がいい。エルギン王子のためにはならないし、危険なだけだ」
「それが余計なことって言うんじゃない?」
「今のは独り言だ。王宮に向かうのはやめた方がいい」
「確かに危険だけれど、レスティス様の近くまで行けば安全よ。衛兵だっているはずだし、もう危篤だって言うんだもの、急がなくちゃ。マリアラ、行きましょう。お先にどうぞ」
「……はい」
促されてマリアラは店の中に戻った。事態の変遷がめまぐるしすぎて、頭が混乱している。王宮に向かうのが本当に最善なのか、よくわからなくなってきていた。
エルギンのお母様が危篤だというなら、絶対に治してあげたい。
けれど、フィガスタは、彼女はそれを望んでいない、と言った。自分で毒を飲んでいる? いったいどうして? もし治療を拒まれたら? ヴァシルグが待ち構えている場所にのこのことエルギンとニーナを連れて行って、それで目的を果たせなかったとなったら、百害あって一利なしではないか。と言って、スメルダという偉い貴族の領地に直接エルギンが行ったとて、門前払いされるどころか、王子の名を騙った罪人として投獄されるかも知れないというのでは、八方ふさがりだ。
――怖いのは、これからどうなるかがわからないからなのよ。
ニーナの声を思い出し、マリアラは身震いをした。
これからどうなるかがわからない、というのは、本当に怖い……。